12月16日
(「ヨハネの第一の手紙」5章6節)
信仰において洗礼を受け入れる者は、キリストの血によって自分自身の罪から本当に清められます。私たちは罪の赦しを自分の行いによって手に入れるのではなく、神様の御子の死とその流された血によっていただくのです。そして、この罪の赦しを、神様は洗礼に結び付けてくださいました。
12月17日
しかし、たとえ義のために苦しむことがあってもあなたがたはさいわいです。彼らを恐れたり、うろたえたりしてはいけません。ひたすら心の中で主キリストを聖とあがめなさい。誰であれあなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしておきなさい。
(「ペテロの第一の手紙」3章14節~15節より)
不幸な出来事で苦しめられていても、「神様に賛美と感謝あれ!」と言えるときには、私たちは主キリストを心の中で聖とあがめています。私たちは神様を聖なる方として賛美しなければなりません。神様の御言葉を信じるときに、私たちはそうしてます。私たちが正義のために苦しむときに、神様は私たちをお見捨てにはなりません。憐れみをもって私たちと共に歩み、私たちを助け、私たちの敵に復讐してくださいます。
12月18日
あなたがたは、万軍の主であるこの方を聖としなければなりません。この方はあなたがたをおそれさせ、また、ふるえあがらせます。主はイスラエルのふたつの家にとって聖所、さまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民にとって網となり、わなとなられます。
(「イザヤ書」8章13~14節)
私たちは勇気をもち、世を恐れません。しかし、神様の御前で私たちはへりくだり、神様を畏れ、心の中で神様を聖としなければなりません。主が私たちに与えてくださるものが、よいものであろうとわるいものであろうと、栄光であろうと恥辱であろうと、幸福であろうと不幸であろうと、私たちはそれをよい聖なることとみなして、こう言います、「これは尊い聖所であり、本来私にはその傍にいる資格もないのです」。
12月19日
エチオピア人はその皮膚をかえることができるというのでしょうか?豹はその斑点をかえることができるというのでしょうか?あなたがたもよいことができるというのでしょうか?それほどまでに、あなたたちは悪いことをするのになれてしまっているのです。
(「エレミヤ書」13章23節)
これが原罪、生まれながら人間に染み付いている本当の罪の核心です。もしも原罪がなければ、本当の罪などは存在しないところです。ほかのすべての罪とは違い、これは行いによる罪ではありません。これは活動を続け、ほかのすべての罪を引き起こします。これは罪の中の罪です。この罪は時折行われるものではありません。人間がいるあらゆる場所、またあらゆる時間に、この罪もまた存在しています。(中略)人が自分の力で自分自身を自然に生むことができないのと同じように、人はこの原罪なしで生活したり、原罪から自分を解放することもできません。私たちの造り主なる神様にのみそれが可能です。それゆえ、神様は私たちにまず律法を与え、それによって私たちがこの原罪を知り、恵みを渇望するようになさったのです。そして次に福音を与えて、それをとおして私たちに助けを提供してくださるのです。
12月20日
私の兄弟たちよ、さまざまな試練にあったときには、それを非常に喜ばしいこととみなしなさい。周知のように、あなたがたの信仰が試されることによって、忍耐が生み出されるからです。
(「ヤコブの手紙」1章2~4節)
聖徒たちにとって試練は、食べ物や飲み物よりも必要なものです。それは、彼らが畏れをもってへりくだり、神様の恵みにのみ頼ることを学ぶためです。