2011年10月31日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章16節


人は律法の行いによって義とされるのではなく、
イエス・キリストの信仰によって義とされることを、
私たちは知っています。
(「ガラテアの信徒への手紙」216節)
 
  
正しいキリスト教の教えは、
自分はよい行いがひとつもできない罪人だと、

律法によって人に知らせることから始まります。
律法はこう言います、
「お前は悪い木だ。
お前が考えること、話すこと、行うことはすべて、神様に反抗している。
お前は自分の行いによっては、恵みを報酬として受け取ることができない。
お前は、どんなに努力してみたところで、
さらに悪いことを行うようになるだけだ。
なぜなら、
お前は悪い木であり、悪い実、つまり罪しか実らせないからだ。
信仰からでていないものはすべて罪だからだ」
(「ローマの信徒への手紙」1423節)。
まずよい行いをし、次に恵みをその行いの報酬として受けようとするのは、
罪によって神様と和解しようと企て、神様を怒らせてしまうようなものです。
律法の教えによって、人が恐れを抱き、へりくだり、
自分の罪の大きさを本当に目にし、
自分自身の中には神様への愛をほんのわずかも見出さないようになった時、
はじめて人は、神様が御言葉において義であることを認めて、
「自分は永遠の死と滅びを受けるのが当然だ」、と告白するようになります。
キリスト教の教えは、
「己の罪を悔い、己を知りなさい」、
という説教によって始まるのです。
 

2011年10月27日木曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書22章19節


私のことをおぼえるために、あなたがたはこれを行いなさい。
(「ルカによる福音書」2219節)
  
 
「私の」という言葉によって、キリストは、
旧い契約においてイスラエルの人々がエジプトから救い出されたことを
記念する過ぎ越しの祭りの時に屠られる羊のことを傍らに斥けて、
こう言われているかのようです、
「あなたがたは、
新しい契約において私のサクラメントを施行するときに、
私があなたがたのために死んだこと、
私のからだをあなたがたのために陰府や死にいたらせたこと、
私の血をあなたがたのために流したこと、
それによって、
あなたがたのために死と罪と地獄と神様の怒りを消し去ったことを
おぼえなければなりません」。
これは、霊的で永遠なる贖いのみわざです。
私たちは肉体を持っている王の支配から解放されたのではなくて、
罪や死の帝王である悪魔から贖い出されたのです。
 

2011年10月24日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 使徒の働き3章23節

  
その預言者に聴き従わない者は皆、民の中から絶たれるでしょう。
(「使徒の働き」323節)
 
   
「信仰による義」の教え[1]なしには、
聖霊様は私たちと共にいることはできないし、いたいとも望まれません。
聖霊様の働きは、キリストを輝かしく明示することだからです。
この信仰義認の教えを聴き入れないこの世は、その罰として、
洪水や戦争やそのほか地上の災害などによって苦しめられなければなりません。
一方、アベルはこの信仰義認の教えを信じていたために命を失いました。
同じ信仰のゆえに、聖徒は皆、死ぬことになりました。
私たちクリスチャンもまた
彼らと同じような目に遭うことを覚悟しておくべきでしょう。
世の激しい反対にもかかわらず、この信仰義認の教えは正しいのです。
しかし、それは世にとっては、いつまでたっても「躓きの石」のままです。
  

[1] イエス様が私の罪のために十字架で死んでくださった、という信仰によって神様に義と認めていただけるという教えのことです。

2011年10月21日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙1章6節

  
キリストの恵みの中であなたがたを召してくださった方から、
あなたがたがこれほどはやく他の福音に乗り換えることに、
私はすっかり驚き、あきれています。
(「ガラテアの信徒への手紙」1章6節)
    
 
クリスチャンに対して迫害や破壊によって危害を加えることができないときには、
逆に改善や建設によって危害を及ぼすのが、悪魔ならではの策略です。
それを知っておきましょう。
悪魔は今日まで私たちを暴力によって滅ぼそう、福音の光を消そう、
とやっきになってきましたが、失敗しました。
悪魔は幾人かのクリスチャンを殺しましたが、
彼らは皆、私たちの教えを神様の御心にかなう聖なる教えであると告白しました。
彼らの血によって、教会は滅ぼされるどころか、強められたのです。
悪霊は、このやり方ではうまくいかなかったので、
今度は神様を侮辱する偽教師たちを起こしました。
彼らは、はじめは私たちの教えを認めて、
私たちと心をひとつにしてそれを教えていましたが、
後になって態度を変えました。
彼らは、
「お前たちの使命はキリスト教の初歩を教えることだ。
しかし、我々には神は聖書の真の奥義を啓示した。
だから、我々の使命はこの奥義を世に伝えることなのだ」、
と主張したのです。
このようなやり方で悪魔は、右からも左からも福音の勝利の歩みを妨げようとします。(中略)
それゆえ、私たちは、左右から攻めてくる悪魔の騙しの策略に勝つために、
絶えず祈り、読み、キリストと御言葉に留まらなければなりません。
私たちの戦いの相手は血や肉ではないからです
(「エフェソの信徒への手紙」612節)。
  

2011年10月19日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 使徒の働き10章43節


この方についてすべての預言者は証しています。
(「使徒の働き」1043節)

意義深い聖書の読み方をしたいなら、
聖書からキリストをさがしながら読みなさい。
そうすれば、本当に永遠の命が見つかります。
キリストが私やすべての人のために天からくだり、
人となり、苦しみ、死に、葬られ、
死者の中からよみがえり、天にのぼられたのは、
私を神様と和解させ、罪の赦し、恵み、義、永遠の命を
私のために確保なさるためでした。
モーセ五書や預言書[1]を読むときにこのことを学ばないなら、
いくら聖書を読んでも無駄です。
聖書について豊富な知識をもつ専門家になって、
他の人に聖書について語れるようにはなるかもしれませんが、
それは自分自身にとっては何の役にも立ちません。
人は、キリストを見つけもせず知りもしないかぎり、
救いの幸せや永遠の命も見出しません。
代わりに見つかるのは、死です。
「天の下に、人々の間に、私たちに救いをもたらす名前は、
(御名の)他には与えられていない」、
と神様が聖書でお定めになったからです(「使徒の働き」412節)。 
 

[1] 「モーセ五書」とは旧約聖書の最初の五冊の書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。
「モーセ五書と預言書」とは、旧約聖書全体を指している言葉です。

2011年10月17日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書11章25節

 
私を信じる者は、たとえ死んだとしても、生きることになります。
(「ヨハネによる福音書」1125節)
  
「人」と呼ばれるのは、
肉と血から生まれた者です。
「クリスチャン」と呼ばれるのは、
洗礼を授けられ、キリストの血により、
洗礼を通して、あらゆる罪からきれいに洗われた者です。
 
もしも誰かがあなたに、
「どうしてあなたはクリスチャンと呼ばれるのですか。
あなたの名前は別にあるでしょう」、
ときくならば、こう答えなさい、
「両親が私に名前をつけました。
しかし、キリストというお方のゆえに、私はクリスチャンと呼ばれるのです。
私がこの世を去るときに、名前で呼ばれていた私という人間は墓で死にます。
しかし、クリスチャンは死なず、葬られもせず、生きつづけます。
それゆえ、たとえ私が名前をもった人間として死ぬとしても、
それにはたいした意味がありません。
もしも私がクリスチャンならば、
私の名前で呼ばれる人間は再び墓からよみがえるからです。
私にその御名を賜った主キリストが私に言われている通りにです」。
 

2011年10月14日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙5章17節

 
肉は霊に反したことを欲し、霊は肉に反したことを欲しています。
(「ガラテアの信徒への手紙」517節)
 
真摯なクリスチャンたちはこの教えによって大いに慰められることでしょう。
彼らは、自分が同時に肉でもあり霊でもあるが、
肉は御霊の支配下にあり、罪は義の隷属下にあることを知っているからです。
この教えを知らない人は、
真面目なクリスチャンには欠点などまったくないと思い込んだりしますが、
それと反対の実情を体験してがっかりし、希望を失ったりします。
ところが、この教えを知って正しく応用できる人にとっては、
悪いことさえも最善の結果をもたらすことになるのです。
肉は人を罪へと駆り立てます。
しかし、まさにそれゆえに、
クリスチャンはキリストを通して罪の赦しを希うようになります。
もしも肉による罪の誘惑がなければ、
彼らはキリストの義の真の意味に気づかず、
それを自分のものとして受け入れることができるよう、
祈り求めたりはしないでしょう。
ですから、私たちが時々自分の性質や肉がどれほど悪いか
思い知らされるのは特に有益なのです。
そのおかげで、私たちは目を覚まされ、信じるよう促され、
キリストに祈るようになるからです。
こうして、クリスチャンは奇跡の芸術家になり、
考えられうる最強の造り主になります。
この造り主は悲しみを喜びに、恐れを慰めに、死を命に変えます。
そのような人は肉を抑制して隷属させ、それを御霊の支配下に置くからです。
 

2011年10月12日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙1章4節

 
私たちを今の悪の世から救い出すために、
(「ガラテアの信徒への手紙」14節)
   
今の世は悪いため、
自分の行いや力によっては誰も罪を取り除くことができないことを、
この御言葉は教えています。
ヨハネが、「全世界は悪の中に伏している」、と言う通りです
(「ヨハネによる第一の手紙519節)。
キリストを差し置いて事を進める場合、
あなたの賢さはその倍の愚かさになり、
あなたの義はその倍の罪や悪行になります。
それは、キリストの知恵や義について無知であるためです。
さらに、あなたの賢さは、キリストの知恵を暗くし、妨げ、侮り、迫害します。
ですから、パウロが世を悪と呼ぶのは正しいのです。
世はそれが最良の時こそ最悪だからです。
真摯な人々、賢い人々、また博識の人々などは
世の最良の部分の具体的な表れといえます。
しかし実のところ、彼らはその美徳の倍も悪い存在なのです。
両親や世の権威などに対する不従順、姦淫などの性的な犯罪、
貪欲、盗み、殺し、嫉妬、怒りなど、
神様の十戒の二枚目の石板に刻まれている律法(第四戒から第十戒まで)
に対するあからさまな罪については、ここではこれ以上触れません。
これらの罪の中に世は完全に沈みこんでいます。
しかしそれらの罪は、
十戒の一枚目の石版に刻まれている律法(第一戒から第三戒まで)
に歯向かう、神様を無視する人々の賢さにくらべたら、
まだ軽い犯罪だというべきでしょう。
人々を霊的な罪に追いやり、
自分は義であるかのように振舞う「白い悪魔」は、
この世でさえ罪だとみなす肉的な罪に
人々を駆り立てる「黒い悪魔」よりも、
はるかに害をもたらします。
 
訳者注 
「十戒」の内容は次の通り(「出エジプト記」20章)。
第一戒 他の神々をもってはならない。
第二戒 あなたの神様の御名をみだりに唱えてはならない。
第三戒 安息日を聖とせよ。
第四戒 あなたの父と母を敬え。
第五戒 殺してはならない。
第六戒 姦淫してはならない。
第七戒 盗んではならない。
第八戒 あなたの隣人に対して偽りの証を語ってはならない。
第九戒 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
第十戒 隣人の妻、しもべ、しもめ、家畜、
    またその人のものを欲しがってははならない。

2011年10月10日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 イザヤ書28章29節

 
この方(「万軍の主」)は驚くべき助言と偉大な知恵を与えてくださいます。
(「イザヤ書」2829節)
  
主が御自分の聖徒たちを導かれるおなじみのやり方を
正確に見極めることにしましょう!
神様の教会や他の事柄について主が行うべきやり方について、
私は主なる神様に対して勝手にルールを決めるという
大胆な態度をとることがよくありました。
「ああ、主よ」と私は祈りました、
「私はあなたがこのことをかくかくしかじかのやり方で
行ってくださるように望みます」。
しかし、神様は私が祈ったのとは正反対のやり方で事を進められました。
 
そういう時に私は次のように考えたものです、
「私の考えたやり方は神様の栄光と競合しない、非常に有益なものだった。
それは神様の御名を聖とし、御国を広げるものだったからだ、等々。
そうだ、それは実によく考えられたやり方だった」。
 
しかし、主は私の「賢さ」に対して微笑まれ、
きっと次のように言われることでしょう、
「あなたは理解力があり、よく教えを学んだ者であることを
私は知っています。
しかし、ペテロやマルティン博士や他の誰かから、
私が教えや指導や助言を受けるようなことは、
今まで一度もありませんでした。
私は、誰かが私を教えたり指導したりするのを許すような神ではなく、
それとは逆に、他の者たちを指導し教える神なのです」。
  

2011年10月7日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇50篇16~17節

  
神様をないがしろにする悪者に対して、神様は言われます、
「私の規定を宣言し、私の契約を口にするあなたは、いったい何者か。
あなたは懲らしめを憎み、私の言葉をあなたの後ろに投げ捨てたではないか」。
(「詩篇」501617節)
   
父と御子と聖霊の御名や御言葉を誇ったり、
同じ信仰を告白しているかのように見せかける人々がいます。
実際のところ彼らはそれぞれお互いにまったく異なっています。
このような人々の間で、私たちは生きていくほかありません。
しかし、この現実につまずかないようにしましょう。
彼らは皆、同じ(クリスチャンという)名前をもっていますが、
ある人たちは偽りのクリスチャンであり、
またある人たちは真のクリスチャンなのです。
しかし、この二つのグループを識別するために、
キリストの信仰の福音の教えが余分な付加なく純粋に実践されているのはどこか、
また、
この教えがその結実としてよい行いを生み出しているのはどこか、
さらに、それとは正反対に、
福音と信仰が口先だけで告白されているのはどこか、
私たちはよく目を凝らさなければなりません。
 

2011年10月5日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 創世記22章18節

 
地のすべての国民は
あなたの種(「子孫」)によって祝福を受けることになります。
(「創世記」2218節)
  
使徒パウロや預言者は皆、
神様のこの御言葉を心から賛美していますが、
それは当然です。
  
この御言葉によって
アブラハムや彼の子孫は皆救われて幸せになったし、
今を生きる私たちも皆その御言葉を通して
救いの幸せにあずかることになるからです。

なぜなら、
キリストはその御言葉の中におられ、
その御言葉によって全世界の救い主であることが明らかに示されているからです。
これこそがあの「アブラハムの懐」です(「ルカによる福音書」1623節)。
そこには、
キリストの誕生前に救いの幸せにあずかったすべての人々が住んでいます。
 
もしもこの御言葉がなかったなら、
たとえあらゆるよいわざを行ったとしても、
誰一人救われなかったことでしょう。
 
さらにここで私たちが気付くのは、
旧約の時代に生きていた父祖や預言者は皆、
私たちと同じ信仰と福音をもっていた
ということです(「コリントの信徒への第一の手紙」101節以降)。
アブラハムの懐の中で
彼らは皆、神様に頼って堅い信仰に留まり、救われました。
 
彼らと私たちの違いは、
彼らがやがて来るべき約束された種(「子孫」)を信じていたのに対して、
私たちはすでに啓示され与えられている種を信じている、
という点です。
 
しかし、約束は同じであり、厳粛なものです。
信仰は同じ、御霊は同じ、主キリストは昨日も今日も永遠に同じです
(「ヘブライの信徒への手紙」138節)。
    

2011年10月3日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネの第一の手紙2章2節

   
この方(イエス・キリスト)は、
私たちの罪のための、
(私たちを罪ののろいから解放する)「あがないの犠牲」です。
しかもそれは、
私たちのためだけではなく、
全世界の罪のためでもあります。
(「ヨハネの第一の手紙」22節)
  
この言葉を熱心に学び、
とりわけ「私たちの」という言葉を心に刻みなさい。
この「私たちの」という言葉は、
それを信仰によって自分にもあてはめてみるとき、
あなたの罪をも飲み込んで滅ぼしてしまうほどの威力をもっています。
キリストは数人の人々だけの罪を取り除いたのではなく、
あなたや全世界の罪をも取り除いてくださったのです。
  
このことを皆が信じているわけではありません。 
しかし、
キリストが御自分をささげられたのは、
全世界の罪のためだったのです。
 
ですから、
あなたの罪は一般的な意味での罪ではなく、
本当に「あなたの罪」であることを受け入れなさい。
キリストは他の人々の罪のためだけではなく、
あなたの罪のためにも御自分をささげられたことを信じなさい。
天使たちも喜ぶこのキリストのイメージを見失ってはいけません。
 
キリストは、
モーセのような要求する者や死刑執行人ではなく、
罪ののろいから解放してくださるお方、
恵みや義や命を賜るお方であり、
私たちの業績や聖さや義しさや正しい生活のゆえではなくて、
私たちの罪のゆえに、御自分をささげてくださったお方なのです。