2011年12月21日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 エフェソの信徒への手紙6章11節

 
悪魔の策略に対抗して立ちつづけるために、
神様のあらゆる武具で身を固めなさい。
(「エフェソの信徒への手紙」611節)
 
  
福音と聖書をよりいっそう熱心に研究するために、
それを自分の前に置きなさい。
たとえあなたが
それを前からよく知っていたり、しばしば読んできたとしてもです。
悪魔はあなたから
神様の御言葉を学ぶ意欲と研究する時間を与えまいとします。
しかし、それは疑いようもなく
悪魔があなたの心に吹き込んだわなです。
なぜなら、悪魔は、
御言葉を学ぶことがどのような実を結ぶか、
よく知っているからです。
もしも神様の御言葉のそばに留まり、
御言葉と付き合い、
御言葉を自分なりの力で抱きしめるなら、
あなたは、キリストがあなたと共にいて、
心に火をともしてくださることを見ることになるでしょう。
最善のやり方は、
数人で御言葉について話し合い、
御言葉の活きた声を聞くことでしょう。
そうするとき、
あなたがたは大いに強められ、
悪魔は逃げ出すほかなくなります。
そして、あらゆる邪悪な欲望と考えは消え去り、
誰も知らなかったような光と理解力が与えられます。
 
今の私たちの態度のどこがいけないのでしょうか。
それは、
愚かな私たちがこのように尊いもの(御言葉)を部屋の中にしまいこみ、
それを用いようとは考えもしなところです。
悪魔は私たちを騙して、
怠惰という誘惑によって御言葉から引き離そうとします。
そうしなければ、
私たちを御言葉から引き離すことはできないからです。
そういうわけですから、
悪魔の悪質な策略に対して対抗するために
身を整えようではありませんか!
  

2011年12月20日火曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書16章23節

 
安心しなさい。私は世に打ち勝っているのです[1]
(「ヨハネによる福音書」1623節)
  
 
信仰者は、
神様への信仰を通して自分の心を勇気付け、
確実で永続する慰めを得ます。
それにより信仰者は、恐れることなく大胆に
罪や死や悪魔やあらゆる害悪から目をそむけない勇気を得ます。
たとえ悪魔が全力で信仰者に襲いかかり、
恐怖によって徹底的に信仰者をくじこうとしても、
信仰者は襲いくる恐怖の只中にいても、
勇気と信仰をもってこう言います、
「邪悪な悪魔め、
尻尾を巻いてどこかへ消えうせろ。
怒るな。
お前が怒り狂って怖がらせようとしても、
私はそんなことは無視するし、
お前を軽蔑する勇気に満ちているからだ。
なぜなら、
イエス・キリストというお方がおられるからだ。
お前もこの方を知っているか?
私はこの方を信じている。
この方は、
律法を無効にし、罪を裁き、死を取り去り、地獄を滅ぼされた。
キリストは、お前よりもはるかに偉大であり、
またこれからもそうあり続けられる。
なぜなら、
この方がお前を捕縛なさっているので、
もうお前は私やこの方を信じる者に
危害を加えることができなくなっているからだ」。
このような信仰に悪魔が勝つのは不可能です。
ヨハネが言っているように、
私たちの信仰こそが世に打ち勝っている勝利だからです。
「世に打ち勝つ者は誰でしょうか?
それはイエス様が神様の御子であることを信じる者ではありませんか」
(「ヨハネの第一の手紙」545節)。


[1] ギリシア語原文の動詞は完了形。

2011年12月14日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 マタイによる福音書6章9節

 
天にましますわれらの父よ。
(「マタイによる福音書」69節)
   
 
この御言葉を信じて
「われらの父よ」と正しく祈ろうと努めるのがどれほど難しいか、
試練の中であなたは気が付くことでしょう。
それが難しいのは、
この御言葉が確固たる力強い真理ではないためではありません。
私たちがあまりに弱く、御言葉に頼り続けることができないからなのです。
本来なら、私たちはこの御言葉に、
鉄やダイヤモンドのような手と心でしっかりくっついているべきなのです。
残念ながら私は
心から「われらの父よ」と言えないことを経験により知っています。
そして、この御言葉を完全な態度で言える人は地上にはひとりもいません。
それでも私は心からそう言えるように努め、
幼子のようにおしゃぶりを吸いはじめます。
私はこの御言葉を十分には信じることができません。
しかし、それを嘘よばわりして否定したくはありません。
(中略)
私は毎日この「主の祈り」とキリストの説教を
ワンセットにして読めるようになるまで
声に出して読む練習をしています。
どういうやり方であろうと、
つっかえながらのもごもご声であろうと、
何かしらは唱えることができるように、
神様、私を助けてください。
 
 

2011年12月12日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ハバクク書1章11節

 
このように彼ら(カルデア人)は風のようになぎ倒して通過します。
しかし、彼らは自分の力を神とみなす罪を犯しています。
(「ハバクク書」111節)

真理に敵対している連中は、
自分が成功を収め、義なる人々が苦難の中にいるのを見て、
実は神様がキリストや聖なる信仰者全員になさったようにして
義なる人々を彼ら敵対者の手に渡されたこともつゆ知らずに、
神様の子供たちをあざけり、こう言います、
「お前らのキリストは今どこにいる。
奴がお前らを助け出せるかどうか見ものだな」。
しかし、このような悪口は恐るべき結末を生みます。
彼らが自分で蜜を蒔いた場所から、苦いからし種が生えてくるからです。
彼らは神様やその裁きを恐れず、へりくだろうとしません。
それゆえ、神様は
彼らがそのまま自分の勝利と成功に酔いしれて
好き勝手に怒り狂うに任せられます。
そして、彼らがその賢さのせいで逆に愚かになるようにし、
罪にすっかり塗れて凝り固まるようになさいます。
しかし、時が来ると、神様は彼らに対して、
バビロニア人やユダヤ人などに対してと同じ態度をとられます。
「彼は神に頼った。今神が彼を救えばよい」、
とキリストに言い放った人々はどうなったでしょうか。
自分たちの神が勝利をもたらしたと、彼らは考えました。
しかし、その「神」は今どこにいますか。
キリストは今もキリストです。
ところが、彼らの偶像は塵と化し、砂漠の砂のように消えてしまいました。

2011年12月9日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章17節

 
キリストにあって義とされることを求めることにより、
私たち自身も罪人とされてしまうのなら、
キリストは罪の奉仕者だということになるのでしょうか?
とんでもないことです。
(「ガラテアの信徒への手紙」217節)
 
  
パウロが言いたいのは次のことです。
私たちがキリストにあって義とされるのが本当だとしたら、
私たちは律法によって義とされるべき罪人ではありえません。
もしもそれが本当ではなく、逆に、
私たちは律法やその行いによって義とされなければならないとしたら、
私たちがキリストを通して義とされることはありえなくなります。
私たちは、
キリストを通しては義とされないのか、
それとも、
律法を通しては義とされないのか、
そのどちらか一方が間違っているのです。
しかし、
私たちはキリストを通して義とされるのであり、
律法を通してではありません。
これについては証拠を挙げることができます。
もしも人が義とされるために律法を守ることが必要だとしたら、
キリストにおいて義なる人々は実は義ではなく、
ほかにまだ人を義とする律法が必要になります。
すなわち、
もしもキリストを通して義とされた人々が、
さらに律法を通して義とされる必要があるのなら、
キリストは律法の設定者であり罪に仕える者にほかならなくなります。
その場合には、
キリストにあって義とされた人は、実は義とされておらず、
さらに律法の義が必要になります。
しかし、
私たちは本当にキリストにあって義とされているのです。
なぜなら、福音は、
人は律法ではなくキリストを通して義とされる、
と教えているからです。

2011年12月7日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヘブライの信徒への手紙11章1節

  
信仰とは希望している事柄への確信であり、見えない事柄への信頼です。
(「ヘブライの信徒への手紙」111節)
   
 
「感情と信仰はまったく別物である」、
と私はしばしば言ってきました。
信仰は、
何も知らず、理性で理解できなくても気にせず、
目をつむって素直に御言葉に従います。
ところが、感情は、
理性で理解できることや、見聞きできることや、さわれるものに頼ります。
このように、感情と信仰とは正反対のものです。
ですから、救いに関しては、
感情から抜け出して、素直に神様の御言葉を聞きなさい。
それを心に入れ、感情に振り回されずに、
たとえあなたが自分の罪を感じている場合にも、
その罪はきれいに拭い取られていることを信頼し続けなさい。
どう感じているか観察したりせずに、
たとえ死や罪や地獄があなたを包囲している場合にも、
実はそれらはすでに敗北していることを堅く信じなさい。
なぜなら、
たとえ罪の感覚がまだ私たちの中に残っていても、
それは私たちを信仰へと追いやり、信仰を強める結果になるからです。
こうして私たちは、
あらゆる感情や理性的な考え方に反して、御言葉を自分のものとして受け入れ、
心と良心をいつもキリストに結びつけるようになるのです。
このように信仰は静かに罪や死や地獄を通り抜けて、私たちを導いていきます。
そしてようやく、私たちはあがないのみわざを自分の目でみるようになります。
そのときはじめて、自分たちが信じてきたこと、
すなわち、死やあらゆる不幸はすでに敗北していることを、
正しくまた完全に知るようになるのです。
 

2011年12月5日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ペテロの第二の手紙1章20節

 
聖書のどの預言に関しても
自己流の解釈によって説明するべきではないことを、
まずわきまえなさい。
(「ペテロの第ニの手紙」120節)
  
 
私たちは畏れとへりくだりの心を持って
神様の御言葉を読まなければなりません。
自分自身の賢さに頼って御言葉を説明しようとしてはいけません。
自分の賢さほど、私たちの妨げとなる有害な罪は他にありません。
御言葉を軽々しくあしらってもいけません。
聖書を読んでいて、もしも理解できない考えに出会ったなら、
帽子を外して敬意を表し、その先を読み続けましょう。
御言葉を侮ってはいけません。
人間の理解に合ったやり方で説明付けてもいけません。
御言葉には最大限の真摯さをもって接するべきであり、
御言葉を尊敬し、貴重なものとみなすべきです。
もしも気の向くままに御言葉に評価を下す態度を取るなら、
私たちは自己欺瞞に陥って窮することになります。
「自分の賢さ」という沼に沈んでいく者を、
そこから助け出すのは、容易なことではありません。

2011年12月2日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章16節


律法の行いによってはどの肉も義とはされません。
(「ガラテアの信徒への手紙」216節)
 

パウロの手紙でいう「肉」とは、
例の賢い連中による勝手な想像によれば「ひどい犯罪」のことですが、
それは間違った解釈です。
なぜなら、パウロはそのような犯罪にはちゃんと別の名称を与えているからです。
例えば、結婚を破る姦淫、姦淫一般、汚らわしいこと、というようにです。
パウロが「肉」という言葉であらわしているのは、
キリストがその言葉であらわしておられるのと同じものです、
「肉から生まれた者は肉です」(「ヨハネによる福音書」36節)。
すなわち、「肉」は
人間の生まれながらの性質や理性やさまざまな力すべてをさしています。
この「肉」は、
「行いによっては、さらには律法の行いによってさえ、義とされない」、
とパウロは言います。
パウロは、
「殺人、姦淫、泥酔など、律法に反する行いによっては、肉は義とされない」、
とは言わず、
「律法に基づいてなされたよい行いによっても、肉は義とされない」、
と断言しています。
つまり、ここで「肉」という言葉でパウロが意味しているのは、
人間が生まれながらにもっている場合がある、
至高の義、知恵、神崇拝、宗教性、理解力、意志のことなのです。