2012年11月30日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 汚れた心はきれいにしなければなりません!(その3)



汚れた心はきれいにしなければなりません!(その3)



命や財産、家族や家屋などに関しては
この世の社会の支配者に従順であるべきだ、
というのが神様の御意思です。
ただし、心だけは神様に従順でなければなりません。
神様が御言葉と御霊によって
心を支配してくださるようにするためです。
  
  
外面を綺麗に見せかけるために
清潔な手や美辞麗句を用意するのは簡単だし、
人間の力でもできることです。
しかし、あやゆる物への愛着から分け隔てられている
「きれいな心」は、創造主なる神様の権威のなせるみわざです。
  
  
福音を賛美する一方で、
福音のゆえに一円も失いたくないし
自分の貪欲や悪を捨て去りたいと微塵も思わない者たちが、
いかに大勢いることでしょうか。
誰もが他人を犠牲にしてでも自分の利益を追い求めています。
しかし、神様は、
福音と、(善悪を識別する)人間の良心とが、
できうる限り良好な状態に保たれるよう、
心を砕いてくださっています。
 

2012年11月28日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 汚れた心はきれいにしなければなりません!(その2)



汚れた心はきれいにしなければなりません!(その2)

 
 
人の欲望とはどのようなものか、
私たちはよく知っています。
欲望は手の中や人の振る舞いの中にないとしても、
心の中にはあります。
それゆえ、
それは心の欲望と呼ばれたりもするのです。
キリストもこう言われています、
「欲望をもって女を見つめる者は皆、
(口や手や足によってではなく)
心によってその女と共に
姦淫の罪を犯してしまっているのです」
(「マタイによる福音書」52728節)。
これは、
たとえ男が外面的にはそのようなことを
おくびにも出さないでいる場合でも
そうなのです。
なぜなら、
この戒め(「出エジプト記」2017節)が指しているのは
心のことだからです。
たとえ心の欲望が実行に移されないままであったとしても、
そうなのです。

2012年11月26日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 汚れた心はきれいにしなければなりません!(その1)


汚れた心はきれいにしなければなりません!(その1)

私たちの心は、
自分が取るに足りない存在になってしまうことや、
キリストお一人がすべてを成し遂げてくださったことを、
認めようとはしないものです。
自分でもいつも何かやりたいし、
自分で神様にお仕えして、その「報酬」として、
神様が私たちを顧みて、私たちを憐れみ、
私たちの罪を赦してくださるように、
と望むものです。
しかし、そうすることによって、
私はキリストも信仰も否定してしまうことになります。
このような「汚れ」から人は誰も解放されないことに、
誰しも気付くことでしょう。
福音を迫害する人々がいます。
しかし、福音を迫害せず、
それとは反対に福音を説教し告白する私もまた、
自身がそうあるべきであると望んでいるほどには、
福音をまるごと心の中に受け入れることができていません。
なぜなら、たとえ福音を信じていても、
自分の力を誇る次のような考えが心に忍び込んでくるからです、
「そうそう、お前はあれやこれやよいことをいろいろやってきたし、
祈ってきたし、説教してきたし、
他の人たちに仕えて、彼らを助けてきたよな」。
そして、この「汚れ」が、
本来はキリストが支配してくださるはずの私の心の中に入り込み、
キリストの御座を汚そうとけしかけるのです。
 

2012年11月23日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 世の怒りを何か異常なことだとは思わないようにしなさい!(ペテロの第一の手紙4章12節)(その3)


  
 世の怒りを何か異常なことだとは思わないようにしなさい!
(「ペテロの第一の手紙」412節)(その3)
   
  
恵みとキリストの中で生きている人は侮られます。
誰もその人を尊敬しません。
それどころか、皆がその人を馬鹿にし、
人々が普通やり遂げるあらゆる仕事に関して、
能な失格者、有害な人間とみなします。
そのような人は、
どのような生活にも職業にも無用な存在とされます。
その人のことは考慮もされず、知られもしません。
その人と知り合いになろうとする人もいません。
それに引き換え、偽善者は皆の注目を一身に集めます。
このような目にまだ遭ってはいない人、
言葉や仕事や助言や考えについて
「愚かで悪質だ」と決め付けてくる敵がいない人、
こういう人はまだキリストの御許に来てはいないのです。
  
  
キリストの御国が来る時には、
それに伴って聖なる十字架もやって来ます。
それは、その十字架と通して信仰が鍛えられていくためです。
十字架のもたらす「悲嘆」は実は、
「新しい人」が生まれ「古い人」が消え去っていくような
「誕生」なのです。
  
  
主は、
御自身が担われた十字架を私たちも担うように、
とは命じておられません。
そうではなく、
皆がひとりひとり自分自身の「十字架」を担うようにと、
主は言われています。
人にはそれぞれ、自分の力に応じて、
(その人に合った)十字架が用意されています。
なぜなら、
私たちは信仰や霊的なことがらに関して同じではないので、
皆が同じことを苦しむことができないからです。
 

2012年11月21日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 世の怒りを何か異常なことだとは思わないようにしなさい! (ペテロの第一の手紙4章12節)(その2)



世の怒りを何か異常なことだとは思わないようにしなさい!
(「ペテロの第一の手紙」412節)(その2)



十字架の下で過ごすこの人生は、
私に対して敵を作るばかりです。
このことを知らないか信じない人は、
キリストの十字架の御跡に従って正しい生き方を始めなさい。
そうすればその人は、
全世界がその人に敵対しており、その人を侮蔑し、
愚かな流浪者、悪い人間として迫害してくることに、
まもなく気が付くことでしょう。


主キリストを一番憎んでいる迫害者は、
御霊をもたない「霊的な人々」です。
彼らは、
自分たちの思いに反していることがらは間違った信仰である、
と決め付けることにしているので、
この世的なクリスチャンたちが福音に反抗するように仕向けます。
義なるクリスチャンであるあなたは、
このことを耐え忍ばなければなりません。
あなたの主であるイエス・キリストも同様な仕打ちを受けられたのです。
ですから、あなたが主の御名のゆえに
そのような苦しみを受けるにふさわしい者とみなされたことを、
神様に感謝しなさい。


「私は荒野にいるふくろう、孤独な鳥のような存在です」
(「詩篇」102篇7~8節より自由に引用)。
こういうことが実際に起こります。
真に義なる人は
この世のどのようなプロジェクトや職業にも必要とはされません。
わざと彼らは無視されます。
そして、深い印象を周りに与える聖なる人に対しては、
せいぜい皆が好奇の目を向けるだけです。

2012年11月16日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 世の怒りを何か異常なことだとは思わないようにしなさい!(ペテロの第一の手紙4章12節)(その1)


 
世の怒りを何か異常なことだとは思わないようにしなさい!
(「ペテロの第の手紙」412節)(その1)
  
 
隣人や町全体、さらには世界全体が
私たちクリスチャンとは違う生き方をしている場合であっても、
偉大な人々、優れた人々、
富裕な人々、権力のある人々までもが
それに同調している場合であっても、
私には彼ら以上に偉大な友がいます。
それは、キリストとその御言葉です。
私はひとりで歩んでいても、実はひとりではありません。
なぜなら、
私には神様の御言葉があり、
私のところには
キリストと
すべての善き天使たちと
この世の始め以来聖なる人々全員が
共にいるからです。
そういうわけで、私の周囲には、
この世のほかのどこにもないような偉大で高貴な交わりの場があります。
たとえ私がそれを目で見ることはできず、
大多数の人々が私から遠ざかったり、
(クリスチャンの)私とは違う生き方をしていても、
それは変わりません。
 

2012年11月14日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 自分で捏造したキリスト教的な行いを捨てなさい!(その3)



自分で捏造したキリスト教的な行いを捨てなさい!(その3)



自分のことを義人だと思い込んでいる人たち以上に、
真の義に対して全力で戦いを挑んでくる者は他にいません。
知者以上に、
他の知者に対して怒りを抱いている者もいません。
彼らは真の義人の言葉や行いや生き方に我慢がならないのです。
なぜなら、
彼らは自分が罪人で愚かな道化にすぎないことを
認めようとはしないからです。
  
  
自分の知恵を誇っている者や
自分の義を誇っている者は、
善に悪をもって報いることしかしません。
なぜなら、
正しい教えが彼らに与えられ、
彼らの最善を考えて語られ、
彼らに奉仕し、
真に善いものであるのに、
彼らはそれを迫害し、
それに対して怒りと苦しみをもって報復するからです。
さらにその上、
この善い正しい教えを探し求めて従おうとする人々のことを
貶して悪い評判を立てたりします。
このようなことが起こるのは、
この善い「正しい教え」が一般には知られておらず、
神様の中に隠されていて、
十字架の下におかれ、
無価値なものとみなされているからです。
ところが、彼らは
自分がこの世で無用な者とは思われたくはないし、
逆によい格好を見せたがります。
彼らはまた、
何か立派な者になりたい、
怒りにまかせて不幸を巻き起こししたい、
とさえ思っており、
しかもそうすることで
自分ではよいことをしているつもりなのです。
実のところ、それは彼ら自身の悪と腐敗の現われなのです。
義人はそうしたことを避けます。
それゆえに、義人は彼らから悪く言われるのです。

2012年11月12日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 自分で捏造したキリスト教的な行いを捨てなさい!(その2)



自分で捏造したキリスト教的な行いを捨てなさい!(その2)

 
 
私は、
聖書を読んだり研究したりすることで知識を蓄えることができるし、
学んだことについて他の人たちに説教することもできますが、
こうしたことはみな、私自身の助けにはなりません。
というのは、
もしもキリストを見出さずキリストを知りもしない場合には、
私は救いも永遠の命も確保することができないからです。
  
  
一見すると正しい行いであるかのような「霊的な罪」に
人を駆り立てる「白い悪魔」は、
世の人々でさえも、それが罪である、と判定するような「肉的なわざ」に
人を駆り立てる「黒い悪魔」よりも
はるかに多く人に危害を加えるものです。


賢く正しく高慢な人々は
安らぎと憩いと快適さと栄誉を追い求めるのに余念がありません。
彼らは自分たちを嘆き悲しませるようなことには一切目もくれません。
彼らは自身にとって慕い求めるにふさわしい
喜ばしいことばかりに目を留めます。
彼らは自分たちの罪を覆い隠し、
それらの存在を認めようとも思い起こそうともしません。
彼らが気に留めるのは、
「自分たちがいかに正しいか」、ということと、
「他の人たちがどれほど罪深いか」、ということばかりです。
  

自分の状態がいかにひどいか恐れもせず、
自分の罪深さも知らず、
勝手な自信を持って
神様のおそるべき裁きへと赴こうとしている人たちは、
なんと憐れな存在でしょうか。
神様の裁きにおいては、
(神様の裁きから)救われるためには、
どのような行いも十分ではないのですから。
 

2012年11月9日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 自分で捏造したキリスト教的な行いを捨てなさい!(その1)


 
自分で捏造したキリスト教的な行いを捨てなさい!(その1)
  
 
「主よ、もしもあなたが憐れみ深くないならば、
私はたとえ自分のあらゆるよい点や正しいところを
かき集めたとしても地獄に落ちてしまいます!」。
このような心からの告白なしに
神様の御前で耐えることができる人は
誰もいないでしょう。
  
  
真理や聖書に対して何もできない
「神様をないがしろにしている者たち」はこう言います、
「私は今までどおりに「信じる」ことにしよう。
(真理と聖書を信じている)あなただって
他の誰も見たことがないことを
自分だけが見たというわけではなかろうに?」。
  
  
神様についての自己流の考えを信じ込まないようにしなさい。
  
  
キリストが私たちの上に置かれる「くびき」は
(私たちに)ちょうどピッタリであり、
キリストの荷は軽いのです。
もしも罪が赦されており、
(正しいことと間違っていることとを識別する)良心が
罪の重荷から解放されているならば、
イエス様を信じるクリスチャンは
いともたやすく苦しみに耐えることができます。
なぜなら、彼らは、
心の中にあるすべてのことが
すっかり「愛らしくよいもの」に変わっているときには、
どんなことに遭遇しても喜んで苦しみに耐えるものだからです。
ところが、人は、
自分自身の正しさに頼りつづけるかぎり、
何をやってもどんな苦しみにあっても、
すべてが重苦しく難しく感じられます。
なぜなら、その人は、
それをやる気もなくいやいやながら行うからです。


2012年11月7日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 自分を憎みなさい!(ルカによる福音書14章26節)(その2)



自分を憎みなさい!(「ルカによる福音書」1426節)(その2)



この世の慣習や自分の理性や思いの導きに従ったりはせず、
自分の思いや意志に抵抗し、
理性や意志が命じるのとは異なることを行いながら
苦難を甘受する、という姿勢が必要です。
それは、
私たちがこの世とは異なる者であり、
この世と反対のことを行うためです。
そのようにして私たちは、
日々思いを変え、新たにされていくのです。
   
    
「古い人」が生き続けている限り、
「古い人」を十字架につけて殺すという
「おそれ」が止むことはないし、
神様の裁きが忘却されることもありません。
十字架もなく、おそれもなく、
神様の裁きに考えを巡らすこともないままで
生きている者は、正しくは生きていません。
  
  
自分自身を叱りもせず、責めもしないままで、
神様を敬い神様の中で活きることは、誰もできません。
  
  
この世での人生は、
「古い人」を憎み「新しい人」の命を捜して
慕い求めることにほかなりません。
  

私は神様によってあなたにお願いします。
あなたはふだんは、
あらゆる点において自分自身を守っているのですから、
自分自身と戦うようにしなさい。
なぜなら、
サタンにあなた自身に対する武器をたくさん与えてしまうときに、
「あなた」こそがあなた自身の最悪の敵となるからです。
 

2012年11月5日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 自分を憎みなさい!(ルカによる福音書14章26節)(その1)



自分を憎みなさい!(「ルカによる福音書」1426節)(その1)


知恵の秘密は、
自分を正しく徹底的に知り、
それゆえ自分を憎み、
あらゆる義を
自分自身からではなく
神様から捜し求めることにほかなりません。
  

私たちは「古い人」に
びんたを食らわし、茨で拷問し、針で刺しぬいて、
ついにはそれが頭を垂れて
死に至るようにしなければなりません。


キリストが完全によみがえる前には、
アダムは死んで干からびなければなりません。


罪は完全に殺さなければなりません。
さもないと罪があなたを殺します。
  
  
もしも「この世的な欲望」が
部屋の壁に描かれているのだとしたら、
それをはずすことができることでしょう。
もしもそれが赤い服に縫い込まれているのだとしたら、
それを脱いでよそ行きの服を着込むことができるでしょう。
もしもそれが髪の毛の中で大きくなるのだとしたら
髪の毛を刈り取ることができるでしょう。
もしもそれがパンの中にあるのだとしたら、
パンの代わりに野菜を食べることができるでしょう。
しかし、今それはあなたの心の中にあり、
あなたはそれに完全に依存しているのです。
それを携えずにどこに行けるというのですか?
どのような服を着たとしても、
あなた自身がその服の中にいるでしょう。
何を食べても飲んでも、
あなたはいつでもそこにいるわけです。
誘惑はあなた自身の中にあります。
ですから、あなたはまず
自分自身から逃げなければならないのです。

2012年11月2日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 悪魔に立ち向かいなさい!(ヤコブの手紙4章7節)(その4)



悪魔に立ち向かいなさい!(「ヤコブの手紙」47節)(その4)
  
  
あるとき「魂の敵」が私のところへ来てこう言いました、
「マルティン・ルターよ、お前はひどい罪人だ。
お前は地獄に落ちるぞ」。
「ちょっと待て!」、と私は言いました、
「ひとつずつ物事は扱うべきだ。
私はひどい罪人だ。それはその通りだ。
もっともお前には私にそのようなことを言う資格はないわけだが。
私は自分が罪人であることを告白するよ。
しかし、だからなんだというのだ?」。
「そのためにお前は地獄に落ちるのさ!」。
「これは正しくない話だ。
私が罪人であるのは本当だ。
しかし、聖書にはこう書かれている、
「キリスト・イエスは罪人を解放するためにこの世に来られた」。
それゆえ、私も救われるのだ。
さあさっさとどっかに行くがいい!」。
こうして私は魂の敵をやりこめて、
それ自身の剣を利用して私のもとから追い払いました。
魂の敵は、
「ひどい罪人だ」と言うことで私を絶望に陥れる目論見が外れて、
怒り狂いながらも、すごすごと立ち去るほかありませんでした。