2020年11月27日金曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」23章39~43節 「イエス様の愛」

「イエス様の愛」

 

(イエス様と一緒に)十字架にかけられた犯罪人のひとりが

「あなたはキリストではないか。自分を救い、また我々も救え」

とイエス様に悪口を言いつづけました。

しかし、もうひとりは彼をたしなめました。

「お前は同じ刑罰を受けている身でありながら、神様を畏れないのか。

我々は自分のしでかした事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。

しかし、この方は何も悪いことをしていない」。

そして「イエス様、あなたが御国に入られる時には私を思い出してください」

と言いました。

イエス様は「よく言っておきますが、

あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいることになるでしょう」

と言われました。

(「ルカによる福音書」233943節)

 

これは今まさに死にかけている犯罪人の祈りです。

彼自身が告白するところによれば、

彼は当然の報いとして十字架刑を受けたのです。

それなのに、どうして彼は自分のことを思い出してくれるように

イエス様に対してお願いする勇気をもつことができたのでしょうか。

 

彼はイエス様が「御父様、どうか彼らを赦してください。

彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」

(「ルカによる福音書」2334節)と祈るのを聴いていました。

御自分を十字架につけた殺人者たちのためにさえ祈られるこのお方は

きっと自分のような哀れな犯罪人のためにも祈ってくれるはずだ、

と彼は考えたのではないでしょうか。

今、彼は心から罪の赦しを必要としていました。

そして、最後の最後にイエス様の愛が彼に触れたのです。

信仰の手がイエス様へと向かって差し出され、

彼はそれから終わりまでずっとイエス様にしっかりとおすがりしたのです。

イエス様の愛は偉大です。

 

この信仰のもつ勇気をごらんなさい。

彼はイエス様が侮辱されるのをその場で聞いていたのに、

それでもイエス様をわが主として祈ります。

イエス様の見捨てられたお姿を実際に見ているのに、

イエス様こそが王であると告白します。

死の只中にあって、信仰はイエス様の御許へまっすぐ向かいます。

イエス様だけが助けを差し伸べることができるし、

またそうしたいとも望んでおられ、

しかもすぐに対応してくださるのです。

 

私が生きている時や死ぬ時に、

イエス様は私のことも覚えていてくださるのでしょうか。

イエス様は次のように答えてくださることでしょう、

「子よ、私はあなたのことを覚えていますよ。

私は血によってあなたをあがなったのです。

私は洗礼を通してあなたと永遠の契約を結んだのです。

私は自分の平和をあなたに授けます。

あなたの心が悲しみに沈んだり恐れたりすることがないようにしなさい」。

 

(祈り)主イエス様、追い詰められている私の心を、

どうかあなたの御旨にかなう平和によって鎮めてください。アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」83139

2020年11月20日金曜日

「力なき者に力を」「詩篇」2篇8節「イエス様の祈り」

 「イエス様の祈り」

私に願い求めなさい。

私は異邦の民をあなたの嗣業として、
地の果てをあなたの所有として与えます。

(「詩篇」28節)

 

その通りにイエス様は願い求めました。

御父様からの苦い盃を飲み干すとき、

イエス様は御自分を十字架につけた人々のことを

御自分にとって大切な人々とみなして祈ってくださいました。


「御父様、どうか彼らを赦してください。

彼らは自分が何をしているのか、わからずにいるのです」

(「ルカによる福音書」2334節)。

 

イエス様のあがないのみわざによって、

義なる神様と罪深き人間存在との間に「真の和解」がもたらされないかぎり、

罪の赦しは決して実現しません。

イエス様は(人という)「奴隷の姿」になられただけではなく、

「罪の奴隷」たる全人類の罪過を全て肩代わりし、

死の苦しみを受けてくださったのです。

 

イエス様はあたかも次のように言われたいかのようです。

「御父様、私の受けた辛い苦しみと私の血のゆえに、

どうか彼らの罪を赦してください。

彼らを「私のもの」としてください。

御父様、あなたが約束なさったように、

異邦の民を私の嗣業として、地の果てを私の所有として与えてください。」

 

天の御父様はこの祈りを聴いてくださいました。

御父様は私たちの罪を、私の罪を赦してくださいました。

私の罪がイエス様を十字架につけたのです。

私のためにイエス様は苦しみを受けられたのです。

 

死の恐怖さえもイエス様の愛を吹き消すことができませんでした。

この上なく高価な代償を払うことによって、イエス様は

人間ひとりひとりを「御自分の所有」とする権利を得てくださったのです。

十字架に高くあげられたイエス様は

御父がすべての人を御許へ引き寄せてくださるようにと祈ります。

イエス様は「皆のもの」ですし、

すべての国民は「イエス様の嗣業」なのです。


(祈り)天の御父様、

裁きを受けるのが当然な罪人として、私たちはあなたの御前に立っています。

私たちを裁きから守ってくれるのは、

あなたの愛する御子の祈りとあがないの血をおいて他にはありません。

御父様、どうかイエス様の祈りを聴いて、私たちの罪を赦してください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの第一の手紙」13節~22

2020年11月11日水曜日

「力なき者に力を」「箴言」23章26節「あなたの心を守りなさい」

「あなたの心を守りなさい」

 

わが子よ、あなたの心を私に与え、あなたの目を私の道に注ぎなさい。 

(「箴言」2326節)

 

神様が人をごらんになるとき、

その人の身長や体格ではなく心に注目なさいます。

それゆえ、神様はエッサイの息子たちの中から

ダヴィデを御民の王として選ばれたのです。

「よく警戒して、あなたの心を守りなさい、

命はそこから流れ出るからです」(「箴言」423節)

と主は言われます。


不信仰な人間の心から悪い欲望と考えが出てきます。

それらから悪い行いやありとあらゆる不義の振る舞いが生じます。

「神様の子ども」の心が信仰において、

罪を帳消しにするキリストの血によってやましい良心を清められるとき、

聖霊様は心の中に清い考えや欲求や好ましい行動の火を点します。

それらは神様に喜んで受け入れていただける言葉と行いとなってあらわれます。

 

心を支配する者はその人を支配します。

福音を通して主の御声を聴き、福音の力によって主に心を開くとき、

主はその人の心に住みに来られます。

主はその人の心を死んだ行いから清めて、

活ける神様に仕えるようにしてくださいます。

私たちはこうして「神様のもの」になるのです。

 

このことのゆえに

「兄弟たちよ。

あなたがたのうちの誰も不信仰な悪い心をいだいて

活ける神様から離れ去ったりしないように気をつけなさい」

(「ヘブライの信徒への手紙」312節)

と言われているのです。

罪が依然として私たちの中に住んでいるのはたしかです。

しかし、私たちは自分が罪を行うのを追認はせず、罪と戦います。

私たちは「清めの泉」から罪の赦しによって力をいただきます。

  

(祈り)主よ、あなたの御霊の光を与え、私に清い心を形作ってください。

どうか私を恵みの冠で美しく飾り、真理において強めてください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの第一の手紙」3112