2021年9月24日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」3章18節 「裁きと恵み」

 「裁きと恵み」

彼を信じる者は裁かれません。

(「ヨハネによる福音書」318節)

 

私たちの人生の中では、努めて忘れたいこともあれば、

ちゃんと覚えておかなければならないこともあります。

 

聖日に聴く神様の御言葉のはっきりとした説教の内容を

私たちは覚えておくべきです。

御言葉に対して忠実な説教者は

聴衆を大いなる裁き主の御前に立たせます。

 

主の御前で私たちを告発するサタンは、

裁き主がお与えになった御言葉とそれを破った者に課せられる罰について

裁き主に思い起こさせようとします。

そしてそれに基づいて法廷は私たちを有罪に定めます。

 

しかしここで大いなる弁護者、主イエス様が前に進み出ます。

イエス様は釘に打たれた手と槍に突かれたわき腹の傷痕を見せてこう言われます、

「御父様、あなたは罪を赦してくださいます!

これらの罪をすべて帳消しにするために私が十字架で死んだことによって、

彼らが罪のゆえに受けるはずだった罰はすでに執行済みになっているからです。

ですから、それらの罪についてあなたが新たなる罰を彼らに要求なさることは

もはやできないはずです」。

それから聞こえてくるのが

「義とされているこの者は無罪である」という赦免の判決です。

そして罪人はキリストの汚れなき義という礼服を身にまとい、

その裁きの場に立つのです。

 

これは不思議なことです。

私たちは喜ぶに満たされて神様に感謝するのが当然ではありませんか!

この義の衣は私たちの上にすでに洗礼を受けた時に着せられたものです。

そして私たちは聖霊様の働きである信仰を通して

いつもこの救いの衣の中に留まれるように今もなお霊的な戦いを続けています。

そして日々の生活の中で行っていくべきものとして

神様があらかじめ備えてくださったよきわざに

礼節をもって身を包むことができるように私たちは全力を尽くします。

 

(祈り)私たちはキリストと共に死に葬られ、

洗礼を通して義の衣を着せていただきました。

アーメン。

(関連聖句)「ゼカリヤ書」3110

 

2021年9月17日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」28章20節より「あなたは一人ぼっちじゃない」

 「あなたは一人ぼっちじゃない」 

私は世の終りまでいつもあなたがたと共にいます。 

(「マタイによる福音書」2820節より)

 

悲嘆や苦しみは人間の歴史と同じくらい古くからあることです。

もしもこの世が恐怖や苦しみ、恨みや苦悩に

どれほどたくさん満たされているかを知ってしまったなら、

私たちは衝撃のあまり生きる気力を失ってしまうことでしょう。

 

神様の御民の歩む道もバラ色とは言えません。

それも強い痛みを伴う道なのです。

この道はいつの時代にも石だらけの道でした。

洗礼を受けておりイエス様を信じている人々は

しばしば他の人々よりも多くの苦しみを耐えてきました。

苦悩を抱えていたにもかかわらず、彼らには平和がありました。

キリストへの信仰を通して彼らには罪の赦しがあったからです。

 

まさしくこの点で

キリスト信仰者とこの世の子らとの間には大きなちがいがあります。

イエス様を信じる民は決してひとりで悲嘆することがありません。

イエス様がいつも彼らのかたわらに佇んでおられるからです。

恵みが彼らを運んで行きます。

いつか必ず私たちの前にあらわれる栄光を見る希望を持ちつつ、

彼らは目を見開いています。

 

キリスト信仰者は苦しみを避けることができません。

しかし彼らはそれに耐える力をいただいています。

キリスト信仰者は、

外面は暗いままであっても、

内面には永遠の命の希望をもっています。

道の行き先のかなたには光が見えます。 

 

私たちと共にいてくださるイエス様は敵よりもはるかに強く、

この世に対して勝利なさったのです。

この方を通して私たちも素晴らしい勝利を収めることができます。

そしてイエス様は勝利の行進とともに私たちを運んで行ってくださるのです。

 

(祈り)主イエス様、あなたに感謝します。

あなたは、この危険と労苦に満ちた道を歩んでいる私たちを

一瞬たりとも一人ぼっちにはなさらず、

最終的には私たちの手を取って栄光の中へと引き入れてくださるからです。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」4518

2021年9月15日水曜日

「力なき者に力を」「創世記」28章17節「天の門」

 「天の門」

そして彼(ヤコブ)は恐れて言いました、

「これはなんと恐るべき場所だろう。

ほかでもない、これは神の家、これは天の門だ」。

(「創世記」2817節)

 

神様がおられない場所はどこにもありません。

しかし神様が御自分をはっきりと啓示なさる特別な場所もあります。

その場所とは、

神様の御言葉の説教が混じり気なく正しくなされ、

聖礼典が正しく施行される神の教会です。

御自分の約束に基づいて神様はそこに臨在しておられます。

このような場所がまことの神の家であり天の門なのです。

 

神の教会の礼拝で私たちは神様の御声を聴きます。

神様は私たちに語りかけてくださいます。

私たちは神様に自分自身の罪を告白し、神様から罪の赦しをいただきます。

こうして私たちは平和と正しく生きていく力を得ます。

 

まさにここに地上で天に最も近い場所があるのです。

ここには福音の説教、恵みの聖礼典、聖徒の交わりがあるからです。

聖なる天使たちもここに下りてきたり高く上っていったりしています。

この場所を通じて私たちは新しい地(天国)の輝きについて

おぼろげながらもイメージを描くことができるようになります。

 

ここに天の門があります。

この場所に神様は御名の記念を置き、私たちを祝福するために来てくださいます。

ここで神様は天の賜物を通して私たちに仕えてくださいます。

ですから、私たちも

主が栄光に包まれて再臨されるのを待ち望みながら主に仕えたいと思います。

 

(祈り)天の父なる神様、

あなたの福音が混じり気なく正しく説教され

聖礼典が正しく分け与えられる場所、

あなたの栄光が住まう場所をどうか私たちが愛せるように助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「創世記」281622

2021年9月9日木曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」2章2節「活ける希望」

「活ける希望」

イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは

あなたがたの間では何も知るまい、と私は決心しました。  

(「コリントの信徒への第一の手紙」22節)

 

イギリスの比較宗教学の教授マックス・ミュラーはかつて、

世界のすべての宗教は二つに分けられると言ったことがあります。

一方には、人間が作り出した様々な宗教があります。

これらは人間自身の努力によって神様をなだめようとします。

もう一方にあるのは、キリスト教だけです。

キリスト教は、人間が自らの罪を自分の力では決して帳消しにできないことを

教える唯一の宗教です。

イエス・キリストが人間の罪を帳消しにするため

身代わりに十字架で死んでくださったことを宣べ伝える点において、

キリスト教は他に類のない宗教なのです。

 

罪とはたんに間違うことであると考えている人がたくさんいます。

しかし聖書によれば、罪とは神様に対する反逆なのです。

罪は、それが赦されて帳消しにされないならば、

死と地獄をもたらすものであることをキリスト信仰者は告白します。

キリストが私たちの罪のために死んでくださったことを、私たちは信じています。

 

キリストは罪人たちを救うため捧げられた罪過のためのいけにえであり、

罪のためのいけにえなのです。

私たちが抱えている罪の重荷は実は非常に大きいものです。

しかし、罪の赦しの御業もまた比類のないものです。

イエス様は

「聖められる者たちを唯一の捧げ物によって永遠に全き者となさいました」 

(「ヘブライの信徒への手紙」1014節)。

不義な者である私たちはイエス・キリストへの信仰を通して義とされるのです。

 

(祈り)

私は(罪の赦しの)恵みに、そして主イエス様、

あなたに常に信頼したいと思います。

あなたが私の罪の負債を払ってくださったのですから。

(罪の赦しの)恵みだけが、命にも死にも助けを差し伸べます。

(罪の赦しの)恵みは(私たちを)力強く運んでくれます。アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」32031

2021年9月6日月曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」22章32節 「とりなし祈ってくださる大いなるお方」

 「とりなし祈ってくださる大いなるお方」

私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。

ですから、あなたが(私のもとに)再び戻ってきたときには、

あなたの兄弟たちを力づけてやりなさい」。

(「ルカによる福音書」2232節)

 

ペテロは自分の信仰を誇示し、誓いの言葉さえ口にしましたが、

無残にも不信仰に落ち込んでしまいます。

そのような彼は臆病者でもあり英雄でもあったと言えるでしょうし、

私たちの同情をそそうところも併せ持っています。

人間として彼は私たちと同じような存在だからです。

 

かつてペテロに襲いかかったようにして、

サタンは神様の子どもたちひとりひとりのことも付け狙っています。

サタンはすでに自分の手中にある者たちのことは圧迫しません。

その一方では、

吠え猛る獅子のように神様の子どもたちを呑み込もうと探し回っています

(「ペテロの第一の手紙」58節より)。

サタンはペテロの長所や短所を利用して、

穀物に対してするように彼のことを篩(ふるい)にかけました。

そしてペテロは躓いてしまったのです。

 

それでも、ペテロは後ほど主の御許に戻りました。

彼は後悔し非常に苦しみましたが、絶望はしませんでした。

彼はイエス様の愛が彼の罪よりも大きいことを知っていたからです。

 

なぜペテロの信仰はなくならなかったのでしょうか。

それは「私はあなたのために祈りました」

とイエス様が言ってくださったからです。

自ら辛い苦しみの最中にありながらも、

イエス様はペテロを覚えて彼のために祈ってくださいました。

その祈りがペテロを救ったのです。

「主は振り向いてペテロを見つめられました」

(「ルカによる福音書」2261節より)。

そのまなざしはどれほど多くのことをペテロに語りかけたことでしょうか。

 

イエス様は今日も変わることなく私たちのために祈っておられます。

たしかにサタンは私たちのことも篩(ふるい)にかけます。

時として私たちはぐらついて躓いてしまうこともあります。

しかし、そうであっても私たちは絶望しません。

私たちはイエス様の血によってあがなわれているからです。

イエス様の方へと向きを変えた私たちをイエス様は出迎えてくださいます。

イエス様は私たちのために祈ってくださるのです。

 

(祈り)イエス様、

あなたが天の父なる神様の御許で私たちを出迎えてくださり、

私たちのために祈ってくださっていることを感謝します。アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」223134

2021年8月20日金曜日

「力なき者に力を」「マルコによる福音書」16章19節「キリストの支配」

「キリストの支配」

主イエス様は彼らに語り終ってから、天にあげられ、神様の右に座られました。 

(「マルコによる福音書」1619節)

 

「神様の右に座る」というのはどういう意味でしょうか。

イエス様御自身が予言してこう言っておられます、

「人の子は今からのち、力ある神様の右に座するでしょう」

(「ルカによる福音書」2269節)。

この比喩的な表現をルターは巧みに説明しています。

「「私の右側に」(「詩篇」1101節より)という言葉は

イエス様が父なる神様と対等なお方であることを表しています。

というのは、

イエス様が座られている場所は神様の上でも足元でもなく、

イエス様と同等のお方、父なる神様の右側だからです。

それゆえ、

天はイエス様の玉座であり、地はイエス様の足台なのです

(「使徒言行録」749節より)。

イエス様が言われている通りに

「私には、天においても地においても、すべての権威が与えられています」

(「マタイによる福音書」2818節より)ということです」(ルター)。

 

すべてを支配なさっているこのような全能の救い主がおられるのですから、

私たちは何も恐れを抱く必要がありません。

救い主はあなたの世話をしてくださいます。

怖がったり、慌てたりしないようにしなさい。

救い主はあらゆる悪から救い出してくださいます。

イエス様はあらゆる悪の攻撃を阻止してくださいます。

あなたが死ぬ時がきたら、

イエス様はあなたをこの嘆きの谷から天国へと引き取ってくださいます。

そうして、あなたもイエス様がおられるところにいるようになるのです。

それなのに、

あなたはどうして悲嘆したり心を騒がせたりしているのですか。

 

(祈り)どうか今、私の信仰を強め、私の希望を支えてください。

旅人の私をあなたが導いて運んでくださらなければ、私にはもう力がないのです。

あなたの恵みによってのみ、私はその希望の地、喜びの地を見ることができます。

アーメン。

(関連聖句)「エフェソの信徒への手紙」11523

 

2021年8月17日火曜日

「力なき者に力を」「列王記上」19章4節「疲れた人に力を」

 「疲れた人に力を」

エリヤは一日分の道のりほど荒野に入って行き、

ハリエニシダの木の下に座し、

自分の魂に死を求めて言いました、

「主よ、もう十分です。

私の命をお取りください。

私は父祖たちにまさる者ではありません」。

(「列王記上」194節)

 

エリヤはすっかり疲れ果ててしまい、

働き続けようとしてもその力がもう残っていませんでした。

仕事で疲れること自体はよいのですが、

仕事にうんざりしてしまうのは危ないことです。

 

肉体や精神を行使する労働は有益ですし、神様の御心にも適っています。

イエス様も働き疲れたときには休息なさいました。

そして弟子たちを閑散とした場所に連れて行って休ませてくださいました。

イエス様は働き疲れた人々を休ませるために御許に招かれるのです。

 

時として私たちは預言者エリヤのように

自分自身の仕事や人生に飽き飽きしてしまうことがあります。

生活の心配を抱えた父親や母親も、

それと同じような思いをすることがあるでしょう。

牧師や教師も、困難な状況の中でいろいろとうまく行かずに、

やる気を失う場合があるでしょう。

若者の場合には、人生の重圧という試練にあうことがあるかもしれません。

 

しかし今、私たちは

この世のハリエニシダの木の下に座っているだけではいけません。

ゴルゴタの十字架のもとで憩うべきなのです。

イエス様に十字架の死に至る苦しみを肩代わりさせたのは私たちです。

イエス様は私たちのために疲労なさったのです。

しかし、イエス様は贖いの御業に倦むことがありませんでした。

イエス様はそれを終わりまで成し遂げられ、

その成果として私たちに永遠の救いを用意してくださったのです。

聖霊様はこう言われます、

「あなたがたは魂が疲れて弱り果ててしまわないために、

御自分に対する罪人たちのこのような反抗を耐え忍んでくださった方のことを

思いみるべきです」(「ヘブライの信徒への手紙」123節)。

イエス様は疲れた人々に力を与えてくださいます。

 

(祈り)イエス様、私が疲れきって希望を失ったりしないように、

あなたのなかで休むことを覚えさせてください。アーメン。

(関連聖句)「列王記上」1918

 

2021年7月30日金曜日

「力なき者に力を」「ヤコブの手紙」5章16節より「祈りながら働きなさい」

「祈りながら働きなさい」

義人の祈りは大いに力があり、効果のあるものです。 

(「ヤコブの手紙」516節より)

 

祈りながら働きなさい。

心から主に向かって生きようとする人にとって、これはよい指針です。

枯れることがない力の泉から力を汲みなさい。

そして神様がくださった才能を神様にお仕えするために用いなさい。

 

「祈って働きなさい」というこのよく知られたフレーズは

誤解を生む場合もあります。

たとえば祈りと仕事を別のことと考えてしまうという誤解です。

おそらく私たちは祈りを簡単で些細なこととみなし、

仕事を大変で疲れることとみなしているのかもしれません。

 

誰もが祈れるわけではありません。

キリスト信仰者だけが御霊と真理において祈ることができるのです。

キリスト信仰者はイエス様の御名によって三位一体なるまことの神様に祈り、

天の父なる神様はイエス様のゆえに祈りを聴いてくださると確信しています。

「ヤコブの手紙」に書いてあるように、

イエス様を信じる者だけが義なる祈り人です。

というのは、

イエス様のあがないの血がその人をすべての罪から清めてくれたからです。

信仰を通してその人はキリストの義を身に着けています。 

 

イエス様を信じる人も祈りの御霊を必要としています。

祈りを通して戦い、ヤコブのように

「私を祝福してくださるまで、私はあなたを離しません」

(「創世記」3227節)と叫ぶようになる時があります。

 

祈りは特権です。

天の父なる神様はイエス様のゆえに私たちの願うものを与えてくださいます。

神様は私たちが願いまた理解している以上のことを与えてくださいます。

すべてを神様はまったくの恵みから与えてくださるのです。

 

(祈り)真理の御霊よ、あなたの御心の通りに祈れるように、

どうか私たちを教えてください。アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」18117

2021年7月28日水曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」21章28節「わが身を正しなさい」

 「わが身を正しなさい」

これらの事が起りはじめたら、わが身を正し、頭を上に向けなさい。

あなたがたの解放が近づいているのですから。

(「ルカによる福音書」2128節)

 

イエス様は死なれる二日前に、

この世界と全人類の終末について強い言葉で語られました。

ちょうど悲嘆の後には喜びが、夜の後には朝が来るように、

イエス様は裁きと滅びについて、

そして信仰と希望について話されました。

 

イエス様は時間の世界を超えて永遠の世界をごらんになります。

人間的な希望がすべて潰えてしまった時にこそ

身を正して頭を上に向けるように、

とイエス様は弟子たちを励ましておられます。

キリストを信じる人々はキリストの右側に、

信じない人々は左側にはっきり分けられる日の到来を

私たちは勇気を持って待ち望むことができます。

 

救い主と共に私たちも、

神様がこの世界の歩みを支配し導いておられるありさまを見ることができます。

今はまだ隠されているある目的の成就のために

神様は万象を動かしておられるのです。

救い主の数多くの予言はすでに実現してきましたし、

これからもまたすべて必ず実現します。

 

来るべき裁きについての救い主の予言は来るべき世界の輝きを放っています。

裁きの日に逃げ込むことができる安全な場所が、

私たちには救い主の中に確保されています。

救い主のあがないのみわざのおかげで与えられた衣に身を包んでいる私たちは、

救い主の御許から追い払われることがありません。

私たちは自分に用意された御国の中へと移り住むことができるのです。

 

(祈り)イエス様、私たちが目を覚ましていて

希望を守り続けることができるように、どうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」25113

2021年7月26日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」1章9節 「世の光」

「世の光」 

すべての人を照すまことの光があって、世に来ようとしていました。  

(「ヨハネによる福音書」19節)

 

もしも太陽がもう照らなくなれば、永遠の暗闇が世界を覆うことになります。

その場合には生命もまた存在しなくなることでしょう。 

 

イエス様なしで生きている人々は完全な暗闇の中にいます。

私たちは目の不自由な人たちのことを

さぞかしいろいろ不便で大変だろう同情するものですが、

それよりもはるかにかわいそうなのはキリストなしで生きている人々です。

彼らは目が見えず霊的に死んでいます。


このような状態で生きているとき、

人はキリストを通して救ってくださる神様の愛を知りません。


人はこのような状態で生きているとき、

人生の終わりとともに地獄の永遠の暗闇の中に倒れ落ちていきます。

 

しかしごらんなさい、光がこの世に来たのです!

イエス様はこの世の光、まことの光です。

イエス様は御自分の御言葉を重んじるすべての人を照らしてくださいます。

私たちはイエス様を通して神様を知り、聖霊様をいただきます。

聖霊様は福音の御言葉によって私たちの心を照らしてくださるので、

私たちはイエス様が自分たちの救い主であるとわかり、

イエス様に従うようになります。

 

なぜこの世の人々は不信仰の中に生きているのでしょうか。

聖書はこう言っています、

「その裁きというのは、光がこの世に来たのに、

人々はその行いが悪いために光よりも闇の方を愛したことです」

(「ヨハネによる福音書」319節)。

「彼らの場合、この世の「神」が不信仰な者たちの思いをくらませて、

神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを見えなくしているのです」

 (「コリントの信徒への第二の手紙」44節)。

 

(祈り)主イエス様、

あなたの福音をこの世の暗闇の中で光り輝かせてください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」81220

2021年7月22日木曜日

「力なき者に力を」「使徒言行録」21章13節「別れの時」

「別れの時」 

その時パウロは答えました、

「あなたがたは泣いたり私の心をくじいたりして

いったいどうしようというのです。

私は主イエス様の御名のためなら、

エルサレムで縛られるだけでなく死ぬことをも覚悟しているのですから」。  

(「使徒言行録」2113節)

 

別れの時は私たち皆にとって負債のようなものです。

遅かれ早かれそれは一人一人の上に訪れます。

別れの涙によって友人たちが彼の心をくじこうとしている、

とパウロは心情を吐露しています。

 

愛する者がこの世から去る時が近づいてくる時、

最も激しく痛みを覚える瞬間は別れの時です。

もしも私たちに救いの幸いに満ちた再会の希望がないならば、

その別れは慰めのまったくない辛いだけの出来事になってしまうでしょう。

 

しかし、イエス様を信じる人には救いの喜びに満ちた活ける希望があります。

イエス様を信じる人はすでに死から命へと移っており、

永遠に生きることになるからです。

 

このような希望を持っているので、

キリスト信仰者たちは別れの挨拶の涙をぬぐいます。

そして、もはや別れによって曇らされることがない、

救いの喜びに満ちた出会いに思いを馳せるのです。

彼らは神様の愛の輝きの中で生きます。

彼らは救い主と共に罪のない天の御国での生活を永遠に喜んで享受します。

ですから、イエス様を信じる人々は別れの時に

「また会いましょう!」と言うのです。

彼らは天の御国への旅路にあり、

愛する家族や友人たち皆と天の御国で再会します。

またそこでは見知らぬ人々同士も知り合いになるのです。

 

(祈り)忠実で憐れみ深い主よ、

天の御国への旅路を歩んでいるすべての者をどうか導いてください。

そしてこの旅を終えた後、

さまざまな時代に生きた人々が

天の御国で感謝の歌を捧げることになりますように。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの黙示録」21

2021年7月19日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」16章16節「しばらくの間」

「しばらくの間」

しばらくすれば、あなたがたはもう私を見なくなります。

しかし、またしばらくすれば、私を見るようになります。 

(「ヨハネによる福音書」1616節)

 

イエス様は墓の中にしばらくの間だけおられました。

その後で、弟子たちはイエス様を再び見ることができるようになりました。

それと同じように、

私たちのこの世での旅もしばらくの間だけです。

それが70年間続くのか、それとも80年間続くのか、わかりませんが、

ともかくそれはわずかな間です。

それから、私たちはイエス様を面と向かって見ることができるようになります。

これは大いなる恵みです。

 

今日、私たちはここにいます。

明日、私たちの住まい(身体)は私たちをもう知らなくなるかもしれません。

 

「生きることに意味があるのだろうか」と人は考える時があります。

しかし、私たちが

「またしばらくすれば、私を見るようになります」

というイエス様の約束が実現するのを待ち続けるならば、

私たちの人生は真に尊く、その目的は大いなるものになります。

それに対して、この世にいる間、

私たちがイエス様もなく永遠の命の望みもなく生きる場合には、

生まれなかったほうがまだましだったことにさえなるでしょう。

 

神様の救いの恵みは、しばらくの間だけ私たちに提供されています。

もしもそれを不信仰によって拒絶するならば、

イエス様とは永遠に別れ別れになる場所(すなわち地獄)に

落ちてしまうことになります。

しかし、この世でイエス様と共に生きる人々は

イエス様と共に永遠に生きることになるのです。

私たちの十字架や試練、周囲からのさげすみや迫害、この世的な賜物は、

しばらくの間だけ続くものです。

また、この世において神様の御国で働けるのもわずかの間だけです。

その後で、救いの喜びに満ちた永遠の世界が始まります。

そしてその時が来ると、

私たちは救い主をいつも面と向かって見つめることができるようになります。

 

(祈り)主よ、本当に「しばらくの間」だけです!

私たちが知恵の心を得るために、

また私たちが自分らに与えられた日々(時間)を正しく数えられるように、

どうか私たちを教え導いてください(「詩篇」9012節)。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」90