2011年1月31日月曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」5月16日~20日

  
516

あなたたちは子供たちであるので、神様は「私のお父さん!」と叫ぶ御子の御霊を私たちの心に送られたのです
ガラテアの信徒への手紙46節)

人は、自分の罪が赦されていることだけではなく、また自分が神様の子供であり、確実に救いに与っており、喜び信頼にみちた心で神様を愛するお父さんびすることができ、そのようなお方として神様に祈れるのだということを、揺るがず疑わずに信じるときに、神様はこのような叫びを知ってくださいます。これについて私たちは、自分の命に対する確信よりもさらに大きな確信、この慰めを捨てたり疑ったりするくらいならどんな死に方でも喜んで受け入れる用意があるほどの確信を持たなければなりません



517

父が私の名において送ってくださる助け主、聖霊様、この方があなたたちにすべてを教え、あなたたちに私があなたたちに言ったことをすべて思い起こさせるでしょう[1]
ヨハネによる福音書1426節)

御言葉に触れるのは、たとえそれがいつも私たちを感動させるわけではないとしても、有益なよいことで。それにより、必要に応じて私たちの心が聞いた御言葉を思い出し正しく理解、その力と慰めを感じるようになります。それはちょうど、灰に覆われてくすぶっていた火の粉が、そこに空気を送り込んでやるとぱっと燃え上がるようなものです



518

イエス様は答えて彼に言われました、「もしも人が私を愛するならばその人は私の言葉を守るでしょう」
ヨハネによる福音書1423節より)

これはモーセの言葉でも律法の説教でもなく、キリストが私たちに対して示してくださった愛と恵みについての説教でこの恵みと愛は、キリスト私たちの罪を御自分の上に引き受けて御自分すべてを私たちに贈るために、と血をささげてくださったところにあらわれています。この御言葉は、それによって私たちが慰めを受け、それを通してキリストの愛を知るためのもので。もしも私たちがこのことを信じるなら、キリストが私たちに期待なさっているのは私たちが感謝しこの信仰と告白にとどまり、キリストの喜びと栄光となるために、言葉と行いによってキリストの王国を広げていくことである、とわかるでしょう。



519

もしもあなたがたが私を愛するなら、あなたがたは私の命令をまもるでしょう。そして私は、父が他の助け主をあなたがたに与えてくださるよう、父に祈るでしょう。それにより、この助け主があなたがたと共に永遠にいてくださるようになるためで。この真理の御霊をこの世は受け入れることができません。なぜならこの世はこの方を見も知りもしないからでしかし、あなたがたはこの方を知っています。なぜならこの方があなたがたのもとにとどまられ、またあなたがたのうちにおられるからで
ヨハネによる福音書141517節)

キリストが描き出しておられるように、聖霊様は恵みと慰めの御霊であるということを私たちは知り信じなければなりません。このように三位一体なる神様はあらゆる面から私たちを慰めてくださいます父様は聖霊様を与えることによって慰めてくださり、御子は聖霊様が私たちに与えられるように祈ることによって慰めてくださり、聖霊様は御自身が慰め主であることによって慰めてくださるのです



520

あなたたちもまた、キリストにあって真理の言葉、あなたたち救いの福音を聞そしてキリストを信じたときに、聖霊様の約束の証印を押されたのです。聖霊様は私たちがあがなわれ神様の栄光を賛美するためにと(神様の御国を)受け継ぐ保証であられます。
エフェソの信徒への手紙11314節)

福音は神様の恵みの「甘さ」についての愛らしい説教で。太陽光線があらゆるところを暖かくするのとじように、それが説教されまた聴かれるところに聖霊様を連れてくるほど、それは本当に甘いのです。


[1] 主動詞は皆未来形である。

2011年1月28日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」5月11日~15日

  
511
   
私たちが私たちに負い目のある者たちを赦した[1]ように、私たちにも私たちの負い目を赦してください。
マタイによる福音書612節)
   
神様が罪について話されるとき、それは大きひどい罪についてです。罪の赦しは遊びごとではなく全くの事実。もしもあなたがこのことを本当に理解しているなら、そこには二つの面があることに気がつくでしょう。あなたがどれほどしい人であったとしても、罪はあなたからあなたの聖さをすっかり奪い取ってしまいます。一方、罪の赦しは罪と怒りをすっかり覆い隠してくれます。このように、あなたの罪があなたを地獄へと追いやることも、あなたのしさがあなたを天国へと引き上げることもありません。このことを正しく理解している人こそ真に専門家の名にふさわしいのです。しかし、生涯にわたってこのことを学び続けるのを恥ずかしく思ったりしないために、私たちには皆謙虚になる理由があるでしょう

   
  
  
512
  
もしも私たちが「自分たちには罪がない」と言うなら、私たちは自分自身を欺いており、真理は私たちのうちにはありません
ヨハネの第の手紙18節)
  
クリスチャンを外から見える生活態度に基づいて評価することはできません。なぜならたとえ自分の良心に反するような罪の生活を公然と送っていない場合であっても、それで「その人には罪落ち度ないということにはならないからで。それゆえクリスチャンは日々「私たちの罪を赦してください」祈るのです。(中略)クリスチャンを知り正しく評価したい者は、それを信仰において行いなさい。
  
  
  
513
  
私たちを誘惑に引き入れないで、悪より救い出してください
マタイによる福音書613節)
  
神様が誘惑自体を取り除いたり無くしたりはされないにせよ、私たちに誘惑戦う力と強さを与えてくださるのは、誘惑へと引き入れることとはちがいます。私たちがこの身体のうちに生き悪魔が近くにいる限り誘惑に陥らない者はひとりもいないからで。事態は変わりようがありません。私たちは誘惑に苦しまなければならず、誘惑の中で生活さえしなければなりません。しかし私たちは、誘惑の中で罪に陥ってついには滅んでしまうことがないように祈るのです。それゆえ天のお父様に頼って心からこう願うよりほかに助けはありません、「愛する天のお父様、あなたは私が祈るように命じられました。私が誘惑の中で罪に落ち込まないようにしてください!」
  
  
  
514
  
あなたたちの心を騒がせてはいけません
ヨハネによる福音書141節より)
  
この慰めの御言葉は私たちの救い主の決別の辞全体に明瞭に響き渡っています。その辞のなかで、キリストは弟子たちに平和の遺言を残してくださいました、「なぜあなたたちは恐れ心騒がせているのですか。この私自身が『あなたたちの心を騒がせてはいけない』と、前にも言い今もまた言っているではありません。しかも私があなたたちに言うことを、私の父もまた言われているので。これに対して天国の天使たちも全員こう叫んでいます、「本当です!」
  
  
  
515
  
私たちを悪より救い出してください。
マタイによる福音書613節後半)
  
主の祈り」に神様は私たちが陥りうるあらゆる苦難を要約してくださいましそれは、私たちが祈りを怠る場合に理屈をつけてそれを正当化できなくするためで。また、私たちが祈りはすでに聞かれており、いつか必ず実現すると信じ、祈りに「アーメン」と言えるようになることも、力を与えます。揺るがない信仰は祈るときに風を切るような真似はせず、私たちの祈りを聞いてくださると約束された神様が決して偽りを言われないことを知っているからで
 

[1] 完了形。

2011年1月26日水曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」5月6日~10日

 
56
 
神様の御国は食べることや飲むことではなく、聖霊様における義と平和と喜びです
ローマの信徒への手紙1417節)

神様の御国は、キリストが忠実な王様として信仰者を支配し守り懲らしめ褒美を与え導くところであり、信仰者がキリストに信頼し喜んでキリストの父親的な懲罰を受け入れ従順にキリストに従うところです。それは、この世的な国はなく、時間に束縛された国でもなく霊的な御国で。それは食べることでも飲むことでもなくその他表面的なことでもなく、義であり人々の心や良心を慰めるものです。



57

信じて洗礼を受けた者は[1]救われるでしょう。しかし、信じない者は[2]滅びの宣告を受けるでしょう。
マルコによる福音書1616節)

悔い改めたときに私たちは単純に、洗礼において私たちに与えられた約束に戻り、洗礼の力に戻り堕落した私たちが見失ってしまっていた信仰に戻ります。悔い改める者は、なによりもまず、洗礼について考え、神様の約束を思い起こして、洗礼を受けていることを神様に感謝するべきです



58

信仰の祈りは病み疲れている者を救い、主が彼を立たせてくださいます[3]。もしもその人が罪を行っていたのであれば[4]、それはその人に対して赦されるでしょう。
ヤコブの手紙415節)

たとえ仮にあなたが全世界を悔い改めさせ、生き返らさせ、死なせ、自分や他のすべての者を天国へと連れて行ったり、奇跡を行うことができるとしても、あなたが神様の御心をそれより大切なものと見なさず、自分の意志を捨てて神様の御心に従わせ、「神様、これは私にはよいことだと思われますので、もしもそれがあなたの御心に適うならば実現しますように。もしも御心に適わないならば実現しませんように」と言うつもりがないならば、あなたはそのようなことを望むべきではありません



59

彼らは家に入って母マリアとにいる幼子に会い、ひれ伏して拝み、彼らの宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬といった贈り物をささげました。
マタイによる福音書211節)

私たちは東の国の博士たちが自分や他人の力によってキリストを見つけたなどと決して考えてはいけません。彼らはキリストを預言者の言葉と空に出現した星の助けによって見つけたので。これは、人間のあらゆる英知や理性、昨今では盲目な大学関係者が真理を教え正義を行うものと喧伝している「御霊や恵みの外側にある光」などというものが実はガラクタにすぎないと宣言しているのに等しいものです。実際のところ、人はキリストすなわち救いをもたらす真理を人間的な教えや助けによっては見つけることも知ることもできません。キリストを告知するのは聖書と神的な光」のみ。キリストもこう言われています、「ヨナの子シモン、あなたはさいわいです。これをあなたに明らかに示したのは、肉でも血でもなく天にいます私の父からでマタイによる福音書1617節)



510

主は彼に地の丘を乗り越えさせ、野の産物を食べさせ、岩から蜜を吸わせ、硬い岩からオリーブ油を吸わせられました。
申命記3213節)

これはどういう意味でしょうか。どのようにすれば硬い岩に蜜がたまりオリーブが生えるなどということがありうるでしょうか。しかしそのようになるので。最も美味しい実をつける穀類や木は硬い岩地に植えられており、そこで岩地から力と養分を吸い上げて大きくなるので。もしも石像が私たちの目の前で油や蜜を滴らせるなら、世界中が奇跡中の奇跡としてそれについて吹聴するでしょう。しかし、私たちは今も毎日このような植物が生え出る野原や田畑を通っているにもかかわらず、それを見もせず理解もしないので


[1] どちらもアオリスト分詞。
[2] アオリスト分詞。
[3] どちらの主動詞も未来形。
[4] 接続法完了形。