2012年9月28日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 「聖書を読みすぎる」ということはありえません(その1)


信仰の立派な戦い

「聖書を読みすぎる」ということはありえません(その1)
  
 
「聖書を読みすぎる」ということは決してありえません。
読んだことがらを「あまりにもよく読みすぎる」
ということはありえません。
よく読んだことがらを「あまりにもよく理解してしまう」
ということもありえません。
よく理解したことがらを「あまりにもよく学び尽くす」
ということもないです。
よく学んだことがらに「あまりにもよく生活の中で従っていく」
ということもありえないのです。
   
   
仕事をしたり、機械を動かしたり、書物を利用することは
昼夜休みなく続けられています。
しかし、聖書を紐解くことはそうではありません。
あたかもそんな必要がまるでないかのように。
  
  
聖書を一度全部読み通す程度の敬意を聖書に示す用意のある者も、
瞬く間に聖書をすっかりマスターしたつもりになってしまいます。
まるで聖書ほどあっという間に学べてしまうような書物は
この世の中には他に存在しないかのようです。
 
  
しかし、聖書には、人々が思い込んでいるのとはちがって、
人間が読み取ることができるような言葉は実はないのです。
聖書にあるのは命の御言葉のみです。
それらの御言葉は、
私たちが想像を膨らませるためではなくて、
御言葉に従って生き、活動していくためのものなのです。

2012年9月26日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あなたの罪は赦されています(その3)


 
あなたの罪は赦されています(その3) 
 
 
「罪の赦し」という言葉の中に、
キリストの御国全体が入っています。
ということは、
キリストの御国には、罪があるのです。
しかし、もしもそこに罪があるのなら、
何が罪かを知ることができるはずです。
何が罪かを学んだあとには、
すぐに罪の赦しと恵みとが手の届くところにやってきます。
しかし、罪の赦しが来ないうちには、
すべてはまったくの罪です。
  
私は、
自分自身の中にあるものはすべて滅ぶものであることを知って、
そのことを告白する必要があります。
そうしなければ、
罪の赦しはあなたのもとに留まることができません。
  
罪が私たちからなくなるということはありません。
問題なのは、
私たちはそれを知らないでいるということです。
しかし、私たちが罪を知ってそれを告白するとき、
私たちにはすぐに罪の赦しがあるのです。
 

2012年9月24日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あなたの罪は赦されています(その2)



あなたの罪は赦されています(その2)

 
 
主よ、
私はあなたの罪です。
あなたは私の義です。
それゆえ、私は喜んでいます。
私は恐れません。
なぜなら、
私の罪はあなたの義よりも大きくはなく、
あなたの義には勝てないからです。
また、
あなたの義は私が罪人であり続けることを
放ってはおかれないからです。
主よ、あなたを賛美します。
あなたは永遠に忠実な神様です。
アーメン。
  
  
サタンは、
もしも人々が自分自身の惨めな状態を知ってしまう場合には、
誰もその王国に引き止めておくことはできないことを、
知っています。
悪魔は、
自分の惨めさに気付き助けを求めて叫ぶ人を
神様が必ずすぐに憐れんでくだる方であることを、
知っています。
また、
「神様は打ち砕かれた心の持ち主のそばにおられる」
(「詩篇」3419節)ので、
神様はそのような人に必ず助けを差し伸べてくださることを、
知っています。
  
  
神様の目には、
「罪の赦し」という私たちの義が映っています。

2012年9月21日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あなたの罪は赦されています(その1)



あなたの罪は赦されています(その1)
   
  
イエス・キリストは、まことの神様であり、
御父様から永遠の中でお生まれになりました。
イエス様はまた、まことの人間であり、
処女マリアからお生まれになりました。
このイエス様が、私の主です。
主は、地獄への裁きを受けた私をあがないだし、
あらゆる罪や死や悪魔の支配から解放してくださいました。
主はそれを、
金や銀によってではなく、
聖なる尊い御自分の血によって、
また罪なくして受けた苦しみと死によって、
成し遂げてくださいました。
それは、
私が「主のもの」となり、
主の御国で、主の僕として生活し、
罪の存在しない永遠の義と救いの中で、
主に仕えるためです。
主が死から復活して、
永遠に生きていて、
支配していらっしゃるからです。
   
   
「罪の赦しへの信仰」は、
誰かが弾丸の入った銃口をあなたに向けて撃とうとするときに、
あなたが、
「そんなことは何の意味もない」
と信じ、またそう言わなければならない、
ということにたとえられます。
   
   
たとえあなたが自分の中に多くの大きな罪しか感じなくても、
それらはもはや罪ではないのです。
なぜなら、あなたには、
それらの罪に対して
罪の力と毒を奪い去る貴重な解毒剤があるからです。
この薬とは、「罪の赦し」という言葉です。
ところが、
罪の赦しがない場合には、罪は残り続けます。
そして、
何をやったとしても、
一番小さい罪にさえ何の効果もありません。

2012年9月19日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 世に勝つ信仰(ヨハネによる第一の手紙5章4節)(その5)


 
世に勝つ信仰 
(「ヨハネによる第一の手紙」54節)(その5)

  
  
もしも正しく信じているならば、
私たちはすでに救われて天国にいるかのようになるでしょう。
  
  
あなたは、
もしも信じているならば、それについて話すことでしょう。
もしも話すなら、そのために苦しむことになるでしょう。
もしも苦しむなら、それから慰めを受けるでしょう。
なぜなら、
信仰と信仰告白と十字架とは互いにかかわりがあり、
真のクリスチャンに伴うものだからです。
  
  
信仰はすべてにおいて必要不可欠です。
信仰はすべてを軽く、善く、愛らしいものにします。
牢獄にいても、
死の荒波にさらされていても、
それは同じです。
実際その通りであると、殉教者たちは証しています。
  
  
たとえあなたが
全世界の快適な贅沢を味わうことができたとしても、
信仰がなければ、
それは重苦しく、悪く、失望に満ちた人生です。
実際その通りであると、権勢を誇った大金持ちたちは証しています。
彼らの人生はいつでも最も惨めなものでした。 

2012年9月17日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 世に勝つ信仰(ヨハネによる第一の手紙5章4節)(その4)



世に勝つ信仰 
(「ヨハネによる第一の手紙」54節)(その4)
 
 
私たちを引き寄せ、御言葉を与え、
御言葉を通して聖霊様と信仰を与えてくださるのは、
天の御父様です。
聖霊様と信仰は、
そのどちらも神様からの賜物です。
私たちの仕事や力の結果ではありません。
  
  
もしも私たちが神様に、「聖霊様をください」、と祈るなら、
神様は喜んで聖霊様を与えてくださいます。
「御言葉を聞けば、すぐにそれを信じることができる」、
などと思い込み、傲慢にならないように注意しなさい。
さもないと、
「よい行いをするのは難しいけど、信じることはすぐに習得できる」、
などと考えるようになってしまいます。
  
  
試練もなく、悲しいこともなく、
へりくだる必要もなかった人々は、
信仰を取るに足りないこととみなします。
しかし、
彼らの信仰が試され、
間違った教えを見分ける必要に迫られ、
危機の最中で自分を慰めなければならない時が来ると、
歌は消え、
誰も家でくつろいではいられなくなります。
  
  
信じない人は、
「水の流れを渡りたいと思いながらも、
船を信頼するのを恐れているため、
結局自分のいるところにとどまりつづける人」、
に似ています。
信じない人は決して救われません。
なぜなら、
その人は、船に乗り込んで水の流れを渡りたいとは思わないからです。

2012年9月14日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 世に勝つ信仰(ヨハネによる第一の手紙5章4節)(その3)


  
世に勝つ信仰 
(「ヨハネによる第一の手紙」54節)(その3)

 
 
神様はその人自身を通して
偉大なみわざを成し遂げたいと望まれている、
という確信を失わないようにしなさい。
  
  
神様があなたに何を望まれているか、
揺るがず、疑わず、
注意を凝らさなければなりません。
神様はあなたに対しても
偉大なみわざを行いたいと望んでおられることを、
あなたは強く信じなければなりません。
  
  
あなたがたは信じなければなりません。
こう聞くとあなたがたはすぐに、
「私は自分から信じ始めることにしたい」、
と言うでしょう。
あなたがたは、
信仰とは、
あなたがた自身の仕事や力や行いのことであるかのように思い込み、
あまりにも安易に「行い」に走ってしまいます。
しかし、それではいけないのです。
あなたはこのことを神様にゆだねなければなりません。
自分を信じてはいけないのです。
  
  
信仰は
神様からの賜物であり、
神様の力であることを、
まず始めに学びなさい。
それは、
神様おひとりのみに栄光を帰するためであり、
誰も自分の力を誇ることのないためです。
 

2012年9月12日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 世に勝つ信仰(ヨハネによる第一の手紙5章4節)(その2)



世に勝つ信仰 
(「ヨハネによる第一の手紙」54節)(その2)
 

 
信仰が最高に力強く素晴らしい状態にあるのは、
嘆きや苦しみが最も辛い時にほかなりません。


信仰は活きており、働いており、熱心で、偉大なことです。
それゆえ、
それが善いことを行わないでいることは、到底不可能です。
信仰は、
「善いことをどうしてもやらなければならないのか」、
などとぼやいたりはしません。
そんなことを口にする前に、
すでに信仰は善きわざを働きの中で行っているのです。
  
  
信仰は光です。
理性が暗さを増していき、恥に陥るときに、
この光は私たちを導き、暗闇の中で私たちのために輝きます。
  
  
私はしばしば二つの信仰について話してきました。
あるタイプの「信仰」は次のようなものです。
あなたはキリストを、
福音全体に描かれ啓示されている通りに信じてはいますが、
あなた自身については、そのようなお方としては信じてはいません。
あなたは、
自分がキリストからすべてをいただいているのか、
それともこれからいただくのか、
確信がもてません。
こうした「信仰」は無きに等しいものです。
それでは、
キリストを味わったり、
キリストに対して「素晴らしいお方だなあ」
という感情や愛をいだいたりすることが、
決してできません。
それは
「キリストを取り扱う信仰」ではありますが、
「キリストへの信仰」ではありません。
そのような「信仰」は
悪魔にも、神様をないがしろにしている者たちにもあります。
あなたの救いは、
あなたがキリストを「義人たちのキリスト」であると
信じることにはありません。
そうではなく、
あなたがキリストを「自分自身のキリスト」として
信じるところにあるのです。
この信仰こそが、
キリストをあなたにとって愛するお方とし、
キリストがあなたの心の中で愛らしく感じられるようにするのです。
その結果、
何の強制もなしに、愛とよい行いとが生れてきます。
もしもそれらが生れない場合には、信仰もそこにはないのです。
  

2012年9月10日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 世に勝つ信仰(ヨハネによる第一の手紙5章4節)(その1)


 
世に勝つ信仰 
「ヨハネによる第一の手紙」54節のルターの説明(その1)
  
 
信仰は、神様の恵みへの生き生きとした大胆な信頼です。
信仰は、確信に満ちているので、
神様の恵みに頼り切って
千回死ぬのもいとわないほどです。
  
  
神様の恵みを知って信頼するとき、
人は、神様やすべての被造物に対して、
びくびくせずに心から喜ぶ者にしていただけます。
   
   
神様の恵みを知ってそれに信頼する人は、
神様への愛から、
神様への賛美のあらわれとして、
無理強いされなくても、
すべてに対してよいことを行いたくなり、
すべてに仕え、
すべてを耐えます。
それゆえ、
行いと信仰を互いに分け隔てるのは不可能です。
それはちょうど
火が燃えていることと火が輝いていることとを
分けることができないのと同じです。
  
  
私たちには、
信仰よりもよいものをさがす必要がありません。
信仰から目をそらさないようにしましょう。
私たちの信仰が成長して強められていくためです。
なぜなら、
信仰の成長は、
信仰の誕生と同じように、
なくてはならないものだからです。
ただし、
これらすべてのことは神様のみわざなのです。
  
  
わずかな「ミルクの信仰」は、まだひよわなものです。
本当の試練がやってくると、
それによって信仰が試されますが、
神様から信仰を強めていただく必要があります。
そうしなければ、
そのわずかな信仰は試練に耐えることができません。
 

2012年9月7日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 律法を成就されたキリスト(マタイによる福音書5章17節)(その3)


 
律法を成就されたキリスト
「マタイによる福音書」517節のルターの説明(その3)

 
 
クリスチャンは「ごくまれな鳥」です。
「クリスチャンの自由」の意味を
本当にわかっている人はごくわずかです。
多くの人は、
それが肉的な(欲求を満たす)自由であると誤解しています。
しかし、
本来それは良心と魂の自由なのです。
あなたは心や善悪の判断力が清くも義しくもありません。
ですから、もし清く義しくなり救われたいのなら、
王なるイエス・キリストを通してのみ、
自分が清く義しくなり救われることを、
あなたは告白しなければなりません。
あなたのために十字架で流してくださったキリストの血を通して、
あなたはそうした者になれるのです。
そして、それこそがあなたを自由にします。
  
  
クリスチャンはすべてにおいて自由な主人であり、
誰の僕でもありません。
一方では、
クリスチャンにはすべてに仕える義務があり、
すべての僕です。
  
  
神様との関係では、
あなたはすべてにおいて信仰を通して自由です。
しかし、
人々との関係では、
あなたは愛のゆえにすべての僕です。

2012年9月5日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 律法を成就されたキリスト(マタイによる福音書5章17節)(その2)


  
律法を成就されたキリスト
「マタイによる福音書」517節のルターの説明(その2)

 
 
もしもキリストが私や全世界の罪を
御自分の上に引き受けてくださらなかったとしたら、
律法はキリストに対して何の権限ももたなかったことでしょう。
なぜなら、律法は罪人のみを裁くものだからです。
しかし、キリストは
「救いの幸せに満ちた交換売買」を行ってくださいました。
イエス様は私たちの罪深さを引き受け、
そのかわりに、
罪なく勝利に満ちた自分自身を私たちにプレゼントしてくださったのです。
「キリストを着る者」[1]として、
私たちは律法ののろいから解放されています。
  
  
金の指輪に宝石がちりばめられているように、
クリスチャンの心の中には、律法の主なるキリストがいてくださいます。
  
  
キリストは、
律法に対して律法となり、
罪に対して罪となり、
死に対して死となってくださいました。
それは、
キリストが私たちを律法ののろいからあがないだして、
義とし、
罪や死から救い出して、
活きる者とするためです。
   
  
キリストはあなたを自由にするために解放してくださいました
(「ガラテアの信徒への手紙」51節)。
 


[1]「ガラテアの信徒への手紙」327節にこうあります、「キリスト(の中)へと洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです」(訳者註)。

2012年9月3日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 律法を成就されたキリスト(マタイによる福音書5章17節)(その1)


 
律法を成就されたキリスト
「マタイによる福音書」517節のルターの説明(その1)
  
  
律法は病気を明示し、福音は薬を与えてくれます。


律法は、私たちが何をするべきか、を教え、
それと反対に、
福音は、神様は何を与えたいと思われているか、を教えてくれます。
  

律法は光です。
律法が照らし出し啓示するのは、
神様の恵みではなく、
永遠の命をいただけるようにするような義でもありません。
律法が明示するのは、
罪であり、私たちの惨めな状態であり、
死であり、神様の怒りと裁きです。
福音は律法とはまったく異なる光です。
福音は、明るくし、活気を与え、
慰め、怯えた心を立ち直させてくれます。
  
  
律法は、人を懲らしめますが、
自分自身のためにそうするのではありません。
その目的は、人をキリストの御許へと追いやるためです。
もしも生徒を懲らしめてばかりいて、
彼らに何も教えない教育者がいたとしたら、
どんなにひどいことでしょう。