2021年7月30日金曜日

「力なき者に力を」「ヤコブの手紙」5章16節より「祈りながら働きなさい」

「祈りながら働きなさい」

義人の祈りは大いに力があり、効果のあるものです。 

(「ヤコブの手紙」516節より)

 

祈りながら働きなさい。

心から主に向かって生きようとする人にとって、これはよい指針です。

枯れることがない力の泉から力を汲みなさい。

そして神様がくださった才能を神様にお仕えするために用いなさい。

 

「祈って働きなさい」というこのよく知られたフレーズは

誤解を生む場合もあります。

たとえば祈りと仕事を別のことと考えてしまうという誤解です。

おそらく私たちは祈りを簡単で些細なこととみなし、

仕事を大変で疲れることとみなしているのかもしれません。

 

誰もが祈れるわけではありません。

キリスト信仰者だけが御霊と真理において祈ることができるのです。

キリスト信仰者はイエス様の御名によって三位一体なるまことの神様に祈り、

天の父なる神様はイエス様のゆえに祈りを聴いてくださると確信しています。

「ヤコブの手紙」に書いてあるように、

イエス様を信じる者だけが義なる祈り人です。

というのは、

イエス様のあがないの血がその人をすべての罪から清めてくれたからです。

信仰を通してその人はキリストの義を身に着けています。 

 

イエス様を信じる人も祈りの御霊を必要としています。

祈りを通して戦い、ヤコブのように

「私を祝福してくださるまで、私はあなたを離しません」

(「創世記」3227節)と叫ぶようになる時があります。

 

祈りは特権です。

天の父なる神様はイエス様のゆえに私たちの願うものを与えてくださいます。

神様は私たちが願いまた理解している以上のことを与えてくださいます。

すべてを神様はまったくの恵みから与えてくださるのです。

 

(祈り)真理の御霊よ、あなたの御心の通りに祈れるように、

どうか私たちを教えてください。アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」18117

2021年7月28日水曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」21章28節「わが身を正しなさい」

 「わが身を正しなさい」

これらの事が起りはじめたら、わが身を正し、頭を上に向けなさい。

あなたがたの解放が近づいているのですから。

(「ルカによる福音書」2128節)

 

イエス様は死なれる二日前に、

この世界と全人類の終末について強い言葉で語られました。

ちょうど悲嘆の後には喜びが、夜の後には朝が来るように、

イエス様は裁きと滅びについて、

そして信仰と希望について話されました。

 

イエス様は時間の世界を超えて永遠の世界をごらんになります。

人間的な希望がすべて潰えてしまった時にこそ

身を正して頭を上に向けるように、

とイエス様は弟子たちを励ましておられます。

キリストを信じる人々はキリストの右側に、

信じない人々は左側にはっきり分けられる日の到来を

私たちは勇気を持って待ち望むことができます。

 

救い主と共に私たちも、

神様がこの世界の歩みを支配し導いておられるありさまを見ることができます。

今はまだ隠されているある目的の成就のために

神様は万象を動かしておられるのです。

救い主の数多くの予言はすでに実現してきましたし、

これからもまたすべて必ず実現します。

 

来るべき裁きについての救い主の予言は来るべき世界の輝きを放っています。

裁きの日に逃げ込むことができる安全な場所が、

私たちには救い主の中に確保されています。

救い主のあがないのみわざのおかげで与えられた衣に身を包んでいる私たちは、

救い主の御許から追い払われることがありません。

私たちは自分に用意された御国の中へと移り住むことができるのです。

 

(祈り)イエス様、私たちが目を覚ましていて

希望を守り続けることができるように、どうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」25113

2021年7月26日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」1章9節 「世の光」

「世の光」 

すべての人を照すまことの光があって、世に来ようとしていました。  

(「ヨハネによる福音書」19節)

 

もしも太陽がもう照らなくなれば、永遠の暗闇が世界を覆うことになります。

その場合には生命もまた存在しなくなることでしょう。 

 

イエス様なしで生きている人々は完全な暗闇の中にいます。

私たちは目の不自由な人たちのことを

さぞかしいろいろ不便で大変だろう同情するものですが、

それよりもはるかにかわいそうなのはキリストなしで生きている人々です。

彼らは目が見えず霊的に死んでいます。


このような状態で生きているとき、

人はキリストを通して救ってくださる神様の愛を知りません。


人はこのような状態で生きているとき、

人生の終わりとともに地獄の永遠の暗闇の中に倒れ落ちていきます。

 

しかしごらんなさい、光がこの世に来たのです!

イエス様はこの世の光、まことの光です。

イエス様は御自分の御言葉を重んじるすべての人を照らしてくださいます。

私たちはイエス様を通して神様を知り、聖霊様をいただきます。

聖霊様は福音の御言葉によって私たちの心を照らしてくださるので、

私たちはイエス様が自分たちの救い主であるとわかり、

イエス様に従うようになります。

 

なぜこの世の人々は不信仰の中に生きているのでしょうか。

聖書はこう言っています、

「その裁きというのは、光がこの世に来たのに、

人々はその行いが悪いために光よりも闇の方を愛したことです」

(「ヨハネによる福音書」319節)。

「彼らの場合、この世の「神」が不信仰な者たちの思いをくらませて、

神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを見えなくしているのです」

 (「コリントの信徒への第二の手紙」44節)。

 

(祈り)主イエス様、

あなたの福音をこの世の暗闇の中で光り輝かせてください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」81220

2021年7月22日木曜日

「力なき者に力を」「使徒言行録」21章13節「別れの時」

「別れの時」 

その時パウロは答えました、

「あなたがたは泣いたり私の心をくじいたりして

いったいどうしようというのです。

私は主イエス様の御名のためなら、

エルサレムで縛られるだけでなく死ぬことをも覚悟しているのですから」。  

(「使徒言行録」2113節)

 

別れの時は私たち皆にとって負債のようなものです。

遅かれ早かれそれは一人一人の上に訪れます。

別れの涙によって友人たちが彼の心をくじこうとしている、

とパウロは心情を吐露しています。

 

愛する者がこの世から去る時が近づいてくる時、

最も激しく痛みを覚える瞬間は別れの時です。

もしも私たちに救いの幸いに満ちた再会の希望がないならば、

その別れは慰めのまったくない辛いだけの出来事になってしまうでしょう。

 

しかし、イエス様を信じる人には救いの喜びに満ちた活ける希望があります。

イエス様を信じる人はすでに死から命へと移っており、

永遠に生きることになるからです。

 

このような希望を持っているので、

キリスト信仰者たちは別れの挨拶の涙をぬぐいます。

そして、もはや別れによって曇らされることがない、

救いの喜びに満ちた出会いに思いを馳せるのです。

彼らは神様の愛の輝きの中で生きます。

彼らは救い主と共に罪のない天の御国での生活を永遠に喜んで享受します。

ですから、イエス様を信じる人々は別れの時に

「また会いましょう!」と言うのです。

彼らは天の御国への旅路にあり、

愛する家族や友人たち皆と天の御国で再会します。

またそこでは見知らぬ人々同士も知り合いになるのです。

 

(祈り)忠実で憐れみ深い主よ、

天の御国への旅路を歩んでいるすべての者をどうか導いてください。

そしてこの旅を終えた後、

さまざまな時代に生きた人々が

天の御国で感謝の歌を捧げることになりますように。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの黙示録」21

2021年7月19日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」16章16節「しばらくの間」

「しばらくの間」

しばらくすれば、あなたがたはもう私を見なくなります。

しかし、またしばらくすれば、私を見るようになります。 

(「ヨハネによる福音書」1616節)

 

イエス様は墓の中にしばらくの間だけおられました。

その後で、弟子たちはイエス様を再び見ることができるようになりました。

それと同じように、

私たちのこの世での旅もしばらくの間だけです。

それが70年間続くのか、それとも80年間続くのか、わかりませんが、

ともかくそれはわずかな間です。

それから、私たちはイエス様を面と向かって見ることができるようになります。

これは大いなる恵みです。

 

今日、私たちはここにいます。

明日、私たちの住まい(身体)は私たちをもう知らなくなるかもしれません。

 

「生きることに意味があるのだろうか」と人は考える時があります。

しかし、私たちが

「またしばらくすれば、私を見るようになります」

というイエス様の約束が実現するのを待ち続けるならば、

私たちの人生は真に尊く、その目的は大いなるものになります。

それに対して、この世にいる間、

私たちがイエス様もなく永遠の命の望みもなく生きる場合には、

生まれなかったほうがまだましだったことにさえなるでしょう。

 

神様の救いの恵みは、しばらくの間だけ私たちに提供されています。

もしもそれを不信仰によって拒絶するならば、

イエス様とは永遠に別れ別れになる場所(すなわち地獄)に

落ちてしまうことになります。

しかし、この世でイエス様と共に生きる人々は

イエス様と共に永遠に生きることになるのです。

私たちの十字架や試練、周囲からのさげすみや迫害、この世的な賜物は、

しばらくの間だけ続くものです。

また、この世において神様の御国で働けるのもわずかの間だけです。

その後で、救いの喜びに満ちた永遠の世界が始まります。

そしてその時が来ると、

私たちは救い主をいつも面と向かって見つめることができるようになります。

 

(祈り)主よ、本当に「しばらくの間」だけです!

私たちが知恵の心を得るために、

また私たちが自分らに与えられた日々(時間)を正しく数えられるように、

どうか私たちを教え導いてください(「詩篇」9012節)。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」90

2021年7月5日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」9章24節 「娘は眠っています」

 「娘は眠っています」

 

「あちらへ行っていなさい。

少女は死んだのではない。眠っているだけです」

とイエス様は言われました。

すると人々はイエス様をあざ笑い始めました[1]  

(「マタイによる福音書」924節)

 

この少女の父親ヤイロと同じ信仰を彼の友人たちはもっていませんでした。

ヤイロはイエス様こそが死を統べる主であることを信じました。

 

死は、この世の人々にとって一切を終わらせる冷酷な力です。

彼らには希望がありません。

ところが、イエス様を信じる者にとって

死は終わりではなく真の命の始まりなのです。

死は、罪の世から栄光の王が統べる輝きに満ちた全き世界への扉です。

 

神様の御言葉は、神様の御子を信じて生き信じて死ぬ者皆に

天の御国の賜物を継承させることを約束しています。

彼らはイエス様を通して救いにあずかります。

十字架で死なれたことにより、

イエス様は私たちを永遠の死の状態から救い出してくださいました。

これは完全なる恵みであり賜物です。

 

私たちのこの世での住まい(私たちの身体)は次第に朽ちていき、

いつかは潰えます。

その時はゆっくり近づいてくる場合もあるし、突然そうなる場合もあります。

しかしキリスト信仰者には、

人間の手で作られたものではない永遠の住まいが天国に用意されています。

そこに移り住んで主といつも共にいられるようになるその日は、

救いの日なのです。

やっと実家に帰ってくることができた日だからです。

 

(祈り)主イエス様、あなたが死者から復活なさったことによって、

あなたは私たちを活きた希望を持つ者として新たに生んでくださったことを

あなたに感謝します。

完全なる従順と尊い血によって

あなたは神の義を全人類のために確保してくださいました。

私たちが常にあなたのうちにあり

この義をたしかに自分のものとしていただいていることが

はっきりわかるような真摯な生き方ができるように、

どうか私たちを助けてください。アーメン。

(関連聖句)「テモテの第一の手紙」218節 



[1] ギリシア語原文の動詞は未完了過去形。