2013年3月25日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あなたは何をしないままやりすごしてしまいましたか (マタイによる福音書25章45節)(その1)



あなたは何をしないままやりすごしてしまいましたか
(「マタイによる福音書」2545節)(その1)
  
 
もしもあなたがここで
隣人のわきを素通りするなら、
その隣人は天国への路上で
あなたの前にあらわれることでしょう。
そして、あなたは天国の門の前で
もう一度その隣人のわきを
素通りしなければならなくなります。
   
  
盗人の名がすべて書き込まれている大きな一覧表には、
(隣人を助けるのに必要な)持ち物をもっているくせに、
困窮している隣人のことを
気にもかけないでいる者たち全員が含まれています。
  
  
貪欲な人間がなしうる役に立つよいことは、
死ぬことだけです。
なぜなら、貪欲な人は、生きている間は、
神様にも他の人にも自分に対してさえも、
まったく役に立たない存在だからです。
  
  
自分のために生きる生き方など
のろわれてしまうがよい!
私たちがいただいた贈り物が大きければ大きいほど、
それだけより深く私たちは、
他の人たちに仕えるために謙虚にへりくだらなければなりません。
それゆえ、真のキリスト信仰者は、
キリストがなさったように、皆に仕えます。
真のキリスト信仰者は、
主が与えてくださった賜物を鼻にかけたりなどはせず、
他の人たちを見下したりもしません。
 

2013年3月22日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 隣人を愛しなさい(ルカによる福音書10章27節)(その6)


  
隣人を愛しなさい(「ルカによる福音書」1027節)(その6)

 
 
信仰は、キリストを、
キリストのすべての宝物とともに、
あなた自身のものとしてもたらし、与えてくれます。
愛は、あなたを、
あなた自身のすべての持ち物とともに、
あなたの隣人に与えます。
キリスト信仰者の生活は、
信仰と愛というこの二つの中に、
きよく、全きものとして、包み込まれています。
それから、
この信仰と愛のゆえに、苦難と迫害がやってきます。
そして、そこから、
忍耐の中で希望が培われていきます。
   
   
キリスト信仰者が罪を憎む時には、
悪行とそれを行う人間とを区別します。
キリスト信仰者は悪行をなくそうと努力しますが、
それと同時に、
それを行った人間が失われてしまわないように努めます。
それゆえ、
キリスト信仰者は、相手が誰であれ、
人から逃げ出したり、人を避けたり、見捨てたり、軽んじたりはしません。
それとは逆に、
人を守り、人と喜んで付き合い、
人が悪行から解放されるように助け、
人を叱り、人に教え、人のために祈り、
人に対して忍耐をもつように、振舞います。
キリスト信仰者自身も、
他の人たちと同じような弱さの中にいるので、
前述した「人」に関することは、
すべてキリスト信仰者にもそのままあてはまります。
 

2013年3月20日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 隣人を愛しなさい(ルカによる福音書10章27節)(その5)


 
隣人を愛しなさい(「ルカによる福音書」1027節)(その5)

 
 
お金や物をもっていて、
妻や夫や子どもたちがいて、
家や屋敷がある、
ということは、
もしもそれらにあなたが振り回されず、
逆に、それらをきちんと管理していく場合には、
罪ではありません。
神様の御心は、
私たちが貪欲や心配にさいなまれながら
金銭や持ち物のとりこになることではなくて、
心配事を神様におまかせして、働くことです。
仕える者は召使いであって、
持ち物は自分のものではありません。
その人は
持ち物を自分の思い通りに使ってはいけないし、
その持ち物によって他の人に仕えてもいけないのです。
しかし、
もしも人が持ち物の所有者であるならば、
その持ち物は所有者であるその人に仕えます。
その人は、服のない人などを見るとき、
自分の持っているお金にこう言います、
「あそこに貧しい裸の男の人がいる。
あそこには病気の人がぐったりして寝ている。
お金たちよ、出てきなさい。
あなたたちはこれからあの人たちに仕えなければなりませんよ」。
自分の持ち物をこのように扱える人は、
その持ち物の(「奴隷」ではなく)「主人」です。
そして実際に、
真に純粋なキリスト信仰者はこのように行うものです。

2013年3月18日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 隣人を愛しなさい(ルカによる福音書10章27節)(その4)



隣人を愛しなさい(「ルカによる福音書」1027節)(その4)
  


「きれいな心」は、奉仕する心であり、
皆によいことなら何でも与えていくような心です。
神様は誰をも区別なさいません。
私が隣人を愛することを、神様は望んでおられます。
そしてそれは、
私の隣人が、友か敵か、義人か悪人か、
にはかかわりがありません。
たとえ隣人が私を傷つける悪人であったとしても、
その人が「私の隣人」であることにはかわりがありません。
言うまでもなく、
義人は多くの人から愛されて、
その人の周りには自然と人が集まってくるものです。
それとは反対に、
悪人は嫌われて、
誰もその人に寄り付こうとはしないものです。
しかし、これは、まだ「肉と血」[1]であって、真の愛ではありません。
この世とは異なり、
キリスト信仰者の愛は、人に左右されるものであってはなりません。
逆に、キリスト信仰者は次のように言わなければなりません、
「私はあなたを愛しています。
しかしそれは、
あなたが義人だからでも、あるいは悪人だからでもありません。
私の愛は、
自分自身と同じように隣人を愛するように、
と私に教えてくれた御言葉に基づいているのです」。


「憐れみ」とは何か、誰でもよく知っています。
それは、
隣人に不幸が訪れた時、
あたかもそれが自分の身の上に起こったかのように受け止めて、
苦しみを共にし、できうるかぎりその人を助けようとする心のことです。
ですから、隣人の窮乏と危機にのみ目を留めるようになさい。
そうすれば、まもなく、憐れみとは何であるか、わかってきます。
もしもあなたが神様に仕えたいと思い、
神様が喜んでくださる働きをしたいのなら、
ファリサイ派の人々がやるように自分自身の罪から逃げ出したりはしないで、
隣人の中に留まり、助言や、警告や、懲らしめや、慰めを彼らに与え、
また、彼らに対して忍耐をもち、教えていくべきなのです。
 

[1] 人間的な弱さに基づく行為のこと(訳者註)。

2013年3月15日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 隣人を愛しなさい(ルカによる福音書10章27節)(その3)


 
隣人を愛しなさい(「ルカによる福音書」1027節)(その3)
 
 

愛は、感謝されないことに気がつきません。
  
  
あなたは信仰によってキリストを知るようになりました。
「キリストを通してあなたは義とされている」ことを知ったのです。
ですから、あなたは善い行いをはじめなさい。
神様と隣人を愛し、祈り、感謝し、宣教し、賛美し、
神様の御名を告白しなさい。
善いことを行い、隣人に仕え、
あなたに与えられた職務を忠実に果たしなさい。
これらが真の善い行いです。
恵みによりキリストを通して自分の罪が赦された、
とわかった時に
信仰と心の喜びからあふれでてくる善きわざなのです。
     
     
キリスト信仰者の生活がどのようなものでなければならないか、
真理に基づき次のように簡潔に述べることができます。
キリスト信仰者は、
神様の御前で「善い心」をもち、
隣人に対して善意をもって接しなければなりません。
すべてはそこに含まれています。
 

2013年3月13日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 隣人を愛しなさい(ルカによる福音書10章27節)(その2)


 
隣人を愛しなさい(「ルカによる福音書」1027節)(その2)
 

 
イエス様を受け入れたキリスト信仰者が住んでいるところではどこであれ、
すべてのことは愛と理解のなかで行われます。
そこでは、隣人に対して悪いことを望む者はひとりもいません。
神様のものであるのが当然の栄光を神様にお返しして、
神様がすべてを私たちにくださっている「主」である、
と信仰告白する時に、
このことは実際に起きています。
この告白が人々の心をお互いへの愛で満たすので、
他の人々に対して怒ったり、嫉妬したり、傲慢に振舞ったり、
悪いことを望んだりすることはもはやなくなり、
皆が隣人に対してあらゆるよいことを望むようになるのです。
  
  
富める者たちの間では富める者に、
貧しい者たちの間では貧しい者になりなさい。
喜ぶ者たちと共に喜び、
泣く者たちと共に泣きなさい。
そうしてついには、
すべての人に対してすべての者になりなさい。
それは、
あなたが、
誰に対しても躓きにはならないで、
それぞれの人と仲直りし、
その人に合わせ、
皆に対して平等に振る舞い、
他の人も従うべき基準などではないことを、
誰もが認めるようになるためです。
これが真の「平和を愛する心」というものです。
この心は、
他の人たちの力や技量に合わせて行動し、
すべてを「よかった」と思いつづけ、
隣人のために苦しみを甘受することをやめません。
たとえそれによって
持ち物や誉れや命さえも失うことになったとしても。
 

2013年3月11日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 隣人を愛しなさい(ルカによる福音書10章27節)(その1)


 
隣人を愛しなさい(「ルカによる福音書」1027節)(その1)
  
 
どのように隣人を愛するべきか、
知りたいならば、
どのように自分を愛しているか、
ちゃんと調べてみれば、それがわかります。
  
  
キリスト信仰者は、
自己の良心においては、
(憐れむ愛に満ちた)「医者」でなければなりません。
しかし、実際の生活の中では、
兄弟姉妹の重荷を担う
(行動をともなう愛に満ちた)「馬」でなければなりません。
  
  
もしも父なる神様を失ってしまうならば、
まもなく、
まわりの人も自分の兄弟姉妹ではなくなってしまうことでしょう。
  
  
主キリストの御許に来る者に対して、
主は、
その人の「渇き」を癒すばかりではなく、
その人を「あふれ出る泉」に変えて、
聖霊様をそのさまざまな賜物と共にお与えになります。
それによって主は、
その人自身がキリストを通して助けを受けたのとちょうど同じように、
その人が他の人々にも影響を与えて、
彼らを慰め、強め、彼らに仕える者になるように、
整えたいと望まれています。
 

2013年3月8日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 善きわざは信仰の行いです(ヨハネによる福音書14章12節)(その3)


 
善きわざは信仰の行いです
(「ヨハネによる福音書」1412節)(その3)

 
 
よい行いや慈善行為は、
外に見せびらかさないで、
なされなければなりません。
よいことは、
密かに、
報酬を一切求めず、
神様の栄光のゆえに、
私たちの隣人の最善を考えて、
行うべきです。


よい行いは、どこからそれがわかるのでしょう。
「それには名前がない」ということからです。
こうして、何の区別も生じず、
どれかの行いを特別扱いすることも起こりません。
あなたは、何かを行い、
また、何かをやらずに済ませて生きています。
あなたは、できうるかぎりの一切のことによって、
隣人に尽くさなければなりません。
祈りや断食などだけが、
キリストがあなたのためにしてくださった行いではありません。
キリストは、あなたのために、
祈りと断食と他のあらゆる行いと苦しみと共に、
すべてを明け渡してくださったのです。
キリストには、
「あなたのもの」ではないものや、
あなたのためになされたのではないことは、
何もありません。
つまり、
あなたが施しをしたり祈ったりすることもまた、
あなたのよい行いではないのです。
そうではなく、
あなたが隣人のために自分をすっかり明け渡して、
隣人が必要としていることについて助けを差し伸べることこそが、
よい行いなのです。
施し、祈り、労苦、断食、助言、慰め、教え、
勧め、叱咤、弁護、衣服や食べ物の提供などを通して、
要するに、
その人のために苦しんで死ぬことによって、
あなたは隣人に仕えるのです。
 

2013年3月6日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 善きわざは信仰の行いです(ヨハネによる福音書14章12節)(その2)



善きわざは信仰の行いです
(「ヨハネによる福音書」1412節)(その2)

 
 
キリストが
何かを行われたり、苦しまれたりすることを見たり聞いたりする時、
キリストを、そのわざと苦しみとを全部含めて、
「あなた自身のもの」とみなしなさい。
そうすれば、あなたは、
あたかも自分で一切を行ったかのように、
キリストとみわざすべてに確信を持って頼ることができます。
  
  
善きわざをやり始めた者が救われるのではありません。
善きわざを行い続ける者が救われるのです。
嫌々ながら一二度善いことを行ってみても、たいしたことはないからです。
たゆまずに善いことを行い続け、
それに対して感謝されず、
逆に悪い仕打ちを受ける場合にも、
疲れ切ったりおびえたりしないことこそ、
辛く困難なことなのです。
  
  
「賜物」としてのキリストは、
あなたの信仰の栄養であり、あなたをクリスチャンにします。
「模範」としてのキリストは、
あなたを行いへと訓練します。
行いがあなたをクリスチャンにするのではなく、
すでにクリスチャンとされたあなたから行いが出てくるのです。
賜物と模範が互いに遠く隔たっているように、
信仰と行いもまた互いに遠く隔たっています。
信仰には何も「自分のもの」というのがありません。
あるのはキリストのみわざと命だけです。
それとは反対に、
行いには何かあなた自身から出てくるものがあります。
しかし、
それは「あなた自身のもの」であってはなりません。
あなたの行いは「隣人のもの」でなければならないのです。
  

2013年3月4日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 善きわざは信仰の行いです(ヨハネによる福音書14章12節)(その1)


 
善きわざは信仰の行いです
(「ヨハネによる福音書」1412節)(その1)
 
  
木が実をつけるのと同じような自然さで、よい行いが信仰からでてきます。
木が実をつけるよう無理やり命じられているわけではないのと同じように、
信仰者にも命令が与えられているわけではありません
(「テモテへの第一の手紙」15節)。
信仰者は、よいことを行うように要求されているわけではなく、
自分からすすんでそれを行うのです。
ちょうど、
信仰者が命令なしに
ひとりでに寝たり、食べたり、飲んだり、服を着たり、
見たり、聞いたり、話したり、歩いたり、立ったりするように。
  
  
人がよい行いをし、助け、諭し、ほかの人たちに分け与えなければならない、
というのは本当です。
しかし、それらの行為のゆえに
その人が「クリスチャン」と呼ばれるわけではありません。
なぜなら、
人が白いから白人と呼ばれ、黒いから黒人と呼ばれ、
偉大だから偉人と呼ばれるのと同じように、
私たちもまた、キリストのゆえにクリスチャンと呼ばれるのです。
このキリストが私たちのなかにおられ、
このキリストから私たちはすべてのよいものをいただいています。
もしも私がキリストのゆえにクリスチャンと名づけられているのならば、
自分自身の行いのゆえに私がクリスチャンと呼ばれるのではないことは、
明らかです。
これからわかるのは、
誰も自分の仕事のゆえにクリスチャンになるわけではない
ということです。