2012年3月30日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書14章26節より

 
父が私の名によって送ってくださる、
慰め主なる聖霊は、
あなたがたにすべてを教え、
私があなたがたに言っておいたすべてのことを思い起こさせます。
(「ヨハネによる福音書」1426節より)
  
  
確かに私たちは「聖霊様の説教」である神様の御言葉を聴いていますが、
それがいつも人の心を打ち、
信じて受け入れられるというわけではありません。
聖霊様の働きによって
御言葉を自分のものとし、すすんで聴く者でさえ、
かならず御言葉の実を結ぶとは限りません。
御言葉によって
悔い改めたり、慰められたり、支えられたりしないまま、
長い時がたってしまうこともしばしばあることでしょう。
とりわけ、
これといった苦しみや危険もなく、
波風も立たずのんびりと過ぎていく人生の場合には、
そうなってしまうことでしょう。
それはちょうど、
キリストが取り去られる前の使徒たちのようです。
その時には、
「キリストが肉体をともなって弟子たちと共にいてくださる」
という類の慰めしか弟子たちは考えません。
それゆえ、私たちは、
困難や危険に直面した時には、
真の慰めを慕い求めて、
嘆息するようにならなければならないのです。
そうしてはじめて、
聖霊様はその職務を遂行され、力を発揮されます。
すなわち、私たちの心を教えて、
説教が取り上げた御言葉を私たちに思い起こさせてくださるのです。
そういうわけで、
御言葉を聴いてそれを心に蒔くのは有益なよいことです。
御言葉はいつも心に響くわけではありませんが、
聖霊様はその御言葉が必要な「ある時」に、
かつて聴いたことがあるその御言葉を
私たちの心に思い起こさせてくださいます。
それはあたかも、
しばらくの間は消えそうになっていたのに、
それをかき混ぜて空気を送り込んでやるとまた燃え始める炭のようです。
ですから、
御言葉を聴いてすぐに
その実(つまり具体的な効果)を感じないからといって、
御言葉を
無力なものだとか、無駄に説教されたものだとか、
みなさないように、
また、
何か他のものに助けを求めたりしないように注意しなさい。

2012年3月28日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙2章21節より

 
もしも律法を通して義とされるのなら、
キリストは無駄に死なれたことになります。
(「ガラテアの信徒への手紙」221節より)
 
  
この御言葉はとくに迫力があります。
ここでパウロは人間の力や理性や知恵などには見向きもしません。
たとえそれらがどれほど偉大だったとしてもです。
それらが偉大であればあるほど、より容易に人は自分を欺くものです。
パウロははっきりこう言います、
「もしも義が律法によって手に入るのなら」。
たとえ神様の律法が助けに駆けつけても、
人間の理性なるものは、私たちを義とせず、
逆に義から引き離し、キリストを捨てます。
というのは、
かりに律法が義をもたらすなら、
キリストは無駄に死なれたことになるからです。
単純に、
キリストの死をあらゆる律法に対置してごらんなさい。
パウロと同様に、
十字架につけられたイエス・キリスト以外のことを
知ろうなどとは考えないようにしなさい。
そうすれば、
キリストの傍らで、すべてがその輝きを失ってしまいます。
そしてあなたは、
御言葉を正しく学んだ義で聖なる者となり、
あなたを清い御言葉と信仰の中で守られる聖霊様をいただきます。
ところが、
もしもキリストを見失ってしまうなら、
すべては無駄になってしまうのです。

2012年3月26日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇124篇8節

 
私たちの助けは主の御名にあります。
この主が天と地を造られたのです。
(「詩篇」1248節)
 
  
この御言葉は私たちに、
罪と死とあらゆる危険とに対する助けは
「主の御名」にしかないことを教えています。
主の御名がなければ、あらゆる罪と侮りと誤謬に陥ってしまうからです。
私たちの助けは主の御名にあります。
それは私たちをあらゆる悪から守り、
世や悪魔に対して私たちの信仰と命を保ってくれます。
この一節は、すべての詩篇と同じく、
神様はその聖徒を試練に遭わせ、
彼らがまるで大水の中に飲まれたかのように
深い苦しみと危機に巻き込まれるようになさり、
しまいには彼らが「もうだめだ」と
あきらめるようにさえなさることを、
私たちに教えています。
一方では、神様は、
御自分の民をしまいまで捨てたままにはされない、
という慰めを与えてくださっています。
御自分の民をエジプトのかまどで辛い試練に遭わせたのは、
「古い人」をその行いとともに死に至らせ、
私たちが主なる神様からのみ助けを捜し求めるようになる、
という御心を神様は私たちにお示しになりたいのです。
このことはあらゆる経験や試練が証していることでもあります。
なぜなら、
考えたり学んだりするだけでクリスチャンになる人は誰もおらず、
実地に訓練を受ける必要があるからです。
つまり、
クリスチャンは自分の十字架を負わなければならないということです。
その十字架は私たち自身の肉(人間としての本質)を
あまりに取るに足りないものにするので、
人は自分の力を疑うようになり、神様の助けに頼って、
それを根気強くゆるがぬ希望をもって待ち望むようになります。
そして、これが神様の恵み深い御心なのです。
私たちは神様をそれとは違うような方だと勝手に想像してはいけません。
苦しんでいる私たちを助け出し
絶望やその他の不幸から救い出してくださるお方として、
私たちは神様を理解しなければなりません。
この教えを知っている人は、信仰の戦いにおいて半ば勝利したも同然です。
しかし、
この教えについて何も知らず、試練にあって悪魔の意志に屈する人は、
絶望するか、あるいは助けをどこか別のところから捜し求めるようになります。

2012年3月22日木曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書5章5節

 
シモンは答えてこう言いました、
「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。
しかし、お言葉ですから、網をおろしてみます」。
(「ルカによる福音書」55節)
 
  
ペテロのように
一晩中仕事をして何の成果も得られないときには、
試練に遭うものです。
そういうことがあると、
私たちはすぐに心配になり、
愚痴をもらし、忍耐がなくなり、
「全部を放り出してどこかに行ってしまいたい」、と考えるものです。
しかし、私たちはこのような試みに隙を与えずに、
絶えず与えられた仕事を忠実に果たし、
仕事の成果については神様御自身にお任せしましょう。
なぜなら、私たちは、
御言葉に忠実な善良な義なる人々が何をやってもうまくいかないことを、
しばしば目にしているからです。
しかも、それとは逆に、
神様に反抗している悪い人々が
すべてにおいて彼らの希望通りに成功したりしています。
しかし、このような状態は長くは続きません。
はじめに失敗した人はしまいには成功し、
はじめに成功した人はしまいにはうまくいかなくなるからです。
あなたが不遇な目にあう場合には、
忍耐をもって仕事を続け、疲れ切ってしまわないようにしなさい。
御言葉への忠実を貫いて失敗するほうが、
御言葉を無視して成功するよりもよいことだからです。
 

2012年3月19日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書5章5節

 
シモンは答えてこう言いました、
「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。
しかし、お言葉ですから、網をおろしてみます」。
(「ルカによる福音書」55節)
 
  
これはすばらしい信仰のあらわれです。
ここでのペテロのように
自分の考えにいっさいとらわれずに、
ただ御言葉のみにしっかりとつながることができるなら、
どんなによいでしょうか。
主人が召使に「これをしなさい」と命じて、
召使がその通りにするならば、
主人はそれを喜びます。
たとえ召使が失敗しても、
主人はそれで怒ったりはしません。
しかし、それとは逆に、
もしも召使が主人よりも賢くあろうとし、
「ご主人様、それはだめです。
私も前にやってみましたが、うまくいきませんでした。
だから、私はそうしたくありません」、
などと言うならば、
主人の機嫌を損なうことになります。
それゆえ、
私たちが神様と御言葉に対して
ここでのペテロのように接することを、
神様はすばらしい栄光とみなしてくださいます。
そして、
たとえ理性がいまだに私たちを他のほうに向かわせようとしても、
私たちは立ち止まり、こう言うのです、
「理性よ、お前はあちこちに揺れ動いているが、
ここに神様の御言葉と戒めがあるのだ。
そこに私はとどまりたい。
そして、こうして御言葉にとどまれるならば、
私たちの主も天の御使いたちも皆喜んでくださるのだ」。
  

2012年3月16日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書14章1節

 
あなたがたは神様を信じなさい、
そして、私を信じなさい。
(「ヨハネによる福音書」141節)
 
  
信仰について間違ったことをせず、
正しいことを行いたいと望む者は、
神様が恵みと救いを備えてくださった場所、
神様を見い出すことができる場所から始めるようにしなさい。
そうしないと、
誤りをおかして信仰と行いの意味もなくしてしまうのは
まず確実だからです。
その人は、自分を欺いて、
何か自分の行いに頼って神様の恵みを得ようとします。
しかし、真のクリスチャンは次のように言うものです、
「ここに私の神様がおられます。
私は、イエス・キリストと一体であられるこの方をおいて、
他の神を信じたりはしません。
この方に私は信頼します。
その時、自分には真の神様がおられることを私は知ります。
もしも私にこの方がいてくださるのなら、
私は悪魔や世に対して強い態度をとり、
それらを軽蔑することができます。
もしも悪魔が私の持ち物や栄光や霊や血を私から奪うとしても、
私には命と死と世と万物の主なるキリストがおられます。
たとえ悪魔が私を脅かして私の良心に重くのしかかってきても、
悪魔は何の勝利も得ません。
ここに私が信じている私の主がおられるからです。
もしも私がこの方を信じるならば、
私は神様を信じることになります。
この方御自身こそが、まことの神様だからです」。
   

2012年3月14日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙3章2節

 
私は次のことだけをあなたがたから訊きたいのです。
あなたがたが御霊を受けたのは、
律法の行いによってですか、
それとも信仰をもって聴いたからですか?
(「ガラテアの信徒へ手紙」32節)
 
  
この証によってパウロは、
ガラテアの信徒たちが御霊を受けたのは、
律法の行いによるのではなく、
福音の説教を通してであった、
という明らかな体験を
彼ら自身否定できなくなるようにしました。
 
パウロはこう言っているのです、
「あなたがたは、
律法を通して御霊を受けたとは言えないはずです。
律法の下で律法の行いをしていたとき、
あなたがたは聖霊様を一度も受けてはいなかったのですから。
あなたがたがまだ何の行いもせず実を結ばなかったときに、
信仰の説教である福音があなたがたのもとにやってきました。
それを信仰をもって聴くことを通して
あなたがたは聖霊様をいただいたのです。
というのは、
福音書記者ルカが「使徒の働き」(1044節および196節)の中で、
聖霊様はペテロやパウロの説教の働きによって
御言葉を聴いた人々の上に来てくださり、
御霊を受けた人々はさまざまな賜物をいただき、
異言で話すようにもなった、
と証しているからです。 
そういうわけですから、
あなたがたが何かよいことをしたり
福音の働きによって何か実を結んだりするよりも前の時点で、
聖霊様があなたがたに
信仰をもって聴くことを通してのみ与えられているのは、
明らかです」。

2012年3月12日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 マタイによる福音書6章14節

 
もしもあなたがたが
人々に対して彼らの罪過を赦すならば、
あなたがたの天のお父様も
あなたがたに対して罪の赦しを与えてくださるでしょう。
(「マタイによる福音書」614節)
 
  
キリストはここで罪の赦しを、
私たちも罪の赦しを与えることに結び付けておられます。
それは、
クリスチャンが互いに愛し合い、
信仰と主からいただいた罪の赦しに心を留めて、
休みなく隣人に罪の赦しを与えていくことを義務付けるためです。
こうして私たちが隣人に対して意地の悪いことをせず、
愛の中で生きていくように、
また、たとえ私たちが何か悪いことをされても
(この世ではそういうことがよくありますが)、
いつも相手の罪を赦す習慣を身につけるためです。
しかし、これとは逆の態度をとる場合、
私たちには罪の赦しが与えられないことを、
知っておくべきです。
こうして堅く強い紐が作られ、
それによって私たちはひとつにされるのです。
それは、
私たちが互いの意見の違いのせいで紐をだいなしにはせず、
愛をもって互いを耐え忍び、
一致した心を保つようになるためです。
これが実現するとき、
クリスチャンは正しく信じ愛する完全な存在になります。
クリスチャンの中にある他の欠点は拭い去られ、
完全にその罪が赦されます。
 

2012年3月9日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 コリントの信徒への第一の手紙15章34節

 
目覚めて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。
(「コリントの信徒への第一の手紙」1534節)
  
 
使徒は、
私たちが「悪い交わり」に気をつけるよう、
この御言葉を書いています。
前節でも使徒は、
「悪い交わりは良い習慣をそこなう」、
と言っています。
私たちが惑わされないためにどう行動するべきか、
使徒は示しています。
「寝ぼけたり、のろのろと怠惰になったりして、
神様をあざけり惑わす者どもに隙を与えたり、
戸を開いたりしないように、
気をつけなさい」、
と使徒は言いたいのです。
こうした誘惑から守られ、
自分のもっているものを失わないようにしたいのなら、
神様の御言葉を熱心に学び実行に移すため、
目覚めて身を正さなければなりません。
悪い惑わす者どもが近づいて来れないように、
あなたがたは御言葉によって守られます。
悪い策略を防いだり、この世でそれについて耳にするのは、
自分でどうにかできるものではありません。
しかし、そういう時に行うべきことは、
誘惑に機会を与えず、
自分の身を守るよう目を覚ましていることです。
なぜなら、
悪魔は休みなく、
あなたをいたるところであらゆる方面から試みるからです。
それゆえ、あなたもまた、
立っていようが座っていようが、
家にいようが旅行していようが、
人々と付き合っているときにはどこであれ、
神様の御言葉によって武装し、
目を覚ましていなければなりません。
ちょうど神様も御自分の民に命じて、
律法を目の留まるあらゆるところに
書きとめさせたのと同じようにです。
それは、
彼らがいつでもそれらを見て、
あらゆる試みや悪行から守られるためなのです。

2012年3月7日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 使徒の働き20章30~31節

 
あなたがたの中からも、
曲がったことを言って弟子たちを自分の方に引き寄せようとする
男どもが出てくることでしょう。
ですから、目を覚ましていなさい。
そして、私が3年間、夜も昼も涙をもって、
一人一人に絶えず助言を与えたことを覚えていてください。
(「使徒の働き」203031節)
 
  
もしも分派分裂がなければ、
私たちは怠惰になり寝ぼけて、
しまいには、信仰も御言葉も曇り錆びてしまうでしょう。
ところが、今出現している分派分裂は、
いわば私たちや私たちの信仰や教えをピカピカに磨き上げて、
鏡のように滑らかに光を反射するようにさえします。
私たちは分派分裂を通して悪魔やその考えを知り、
それとうまく戦うことができるようになります。
結果的に、御言葉自体がそれらを通じて
どんどん明瞭に前面に出されることになるので、
多くの人が公になった争いを通して真理を知り、真理の中で強められます。
神様の御言葉はいつでも非常な効力をもっています。
それゆえ、神様は御言葉を強力な手段として用いて、
悪魔や世を駆り立てて御言葉に反抗させ、
そうして御言葉の力と価値を公に示し、
虚偽が恥じ入るようになさるのです。
 

2012年3月2日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書6章35節

 
イエス様は彼らに言われました、
「私は命のパンです。
私のもとに来る者は決して飢えることがなく、
私を信じる者は決して渇くことがありません」。
(「ヨハネによる福音書」635節)
 
  
これはとても力強い御言葉です。
キリストは神様の与えてくださったパンや食べ物であり、
それを食べることによって永遠に活き、満腹になるので、
決して飢えたり渇いたりしなくなる、というメッセージは、
聖書全体でも類を見ない鋭さをもっています。
「私のもとに来る者は」、とキリストはとてもやさしく語り始められます。
そしてそれを、
「私を信じる者は皆」、という意味であると説明してくださいます。
キリストのみもとに来ることは、キリストを信じることです。
そして、キリストを信じることは、
(キリストという)パンを「自分のもの」としてそれを食べることです。
しかし、キリストはここで
教会の聖餐式における食べることや飲むことを
さしておられるわけではありません。
なぜなら、
キリストを食べること、
キリストのみもとへ行くこと、
そしてキリストを信じることは、
すべて同じ事柄だからです。