2011年5月30日月曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」12月16日~20日


1216

この方(イエス・キリスト)は水と血を通って来られた方[1]。水においてだけではなく、水と血においてで。御霊が証をなさっているのが[2]、このお方なのです。そして、御霊は真理で
ヨハネの第の手紙56節)

信仰において洗礼を受け入れる者は、キリストの血によって自分自身の罪から本当に清められます。私たちは罪の赦しを自分の行いによって手に入れるのではなく、神様の御子の死とその流された血によっていただくのでそして、この罪の赦しを神様は洗礼に結び付けてくださいました



1217

しかしたとえ義のために苦しむことがあってもあなたがたはさいわいです。彼らを恐れたり、うろたえたりしてはいけませんひたすら心の中で主キリストを聖とあがめなさい。誰であれあなたがた抱いている希望について説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしておきなさい
ペテロの第の手紙314節~15節より)

不幸な出来事で苦しめられていても、「神様賛美感謝あれ!」と言えるときには、私たちは主キリストを心の中で聖とあがめています。私たちは神様を聖なる方として賛美しなければなりません。神様の御言葉を信じるときに、私たちはそしてます。私たちが正義のために苦しむときに、神様は私たちを見捨てにはなりません。憐れみをもって私たちと共に歩み、私たちを助け、私たちの敵に復讐してくださいます



1218

あなたがたは、万軍の主であるこの方を聖としなければなりません。この方はあなたがたをおそれさせ、また、ふるえあがらせます。主はイスラエルのふたつの家にとって聖所、さまたげの、つまずきの岩となりエルサレムの住民にとって網となり、わなとなられます
イザヤ書81314節)

私たちは勇気をもち、世を恐れません。しかし、神様の御前で私たちはへりくだり、神様を畏れ、心の中で神様を聖としなければなりません。主が私たちに与えてくださるものが、よいものであろうとわるいものであろうと、栄光であろうと恥辱であろうと、幸福であろうと不幸であろうと、私たちはそれをよい聖なることとみなして、こう言います、「これは尊い聖所であり、本来はそのにいる資格もないのです」。



1219

エチオピア人はその皮膚をかえることができるというのでしょうか?豹はその斑点をかえることができるというのでしょうか?あなたがたもよいことができるというのでしょうか?それほどまでに、あなたたちは悪いことをするのになれてしまっているのです
エレミヤ書1323節)

これが原罪、生まれながら人間に染み付いている本当の罪の核心で。もしも原罪がなければ、本当の罪などは存在しないところで。ほかのすべての罪とは違い、これは行いによる罪ではありません。これは活動を続け、ほかのすべての罪を引き起こします。これは罪の中の罪でこの罪は時折行われるのではありません。人間がいるあらゆる場所、またあらゆる時間に、この罪もまた存在しています。(中略)人が自分の力で自分自身を自然に生むことができないのと同じように、人はこの原罪なしで生活した原罪から自分を解放することもできません。私たちの造り主なる神様のみそれが可能です。それゆえ、神様は私たちにまず律法を与え、それによって私たちがこの原罪を知り、恵みを渇望するようになさったのです。そして次に福音を与えて、それをとおして私たちに助けを提供してくださるのです



1220

私の兄弟たちよ、さまざまな試練にあったときに、それを非常に喜ばしいこととみなしなさい。周知のように、あなたがたの信仰が試されることによって忍耐が生み出されるからで
ヤコブの手紙124節)

聖徒たちにとって試練は食べ物や飲み物よりも必要なもので。それは彼らが畏れをもってへりくだり、神様の恵みにのみ頼ることを学ぶためで



[1] アオリスト分詞。継続的出来事とは反対に、出来事の一回性を強調する。アオリスト分詞自体はその出来事が過去か未来かを語らない。
[2] 現在分詞。

2011年5月27日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」12月11日~15日

 
1211

そして(イエス様は)彼らにひとつのたとえを話されまし「イチジクの木とすべての木とを見なさい。それらがすでに芽を出せば、あなたがたはそれを見てすでに夏が近いということを自分で知るので。このようにあなたがたも、これらのことが起こるのを見たなら、神様の御国が近いのだと知りなさい」
ルカによる福音書212931節)

太陽や月が暗くなり、海や風が荒れ、山や丘が崩れるとき、こう言いなさい、
夏が来ることを神様に感謝します!葉が芽を出し、花が咲くのが見えます」。この世の理性や知恵ある者のなかでこのように言うは誰もいません。彼らは死と滅びばかりが見えるところに、あがないと喜びを見出すことができないす。



1212

私の愛しい方は私のもの、私はその方のもの。
雅歌216節より)

キリストは私のもの、私はキリストのもの。キリストは、私が死にさらされるときに私の命、罪が誘惑してくるときに私の義、私が滅びにおびやかされるときに私の救いで。何が攻め立てて来ようがかまいません!私の前にキリストがおられるようにすれば、悪は私をとりこになどできません



1213

主は貧しくし、また富ませてくださいます
サムエル記上27節より)

なんと喜ばしい御言葉でしょうか!真のクリスチャンは皆、心の底から歌いなさい愛する神様、あなたはなんて不思議なお方なのでしょうか!あなたは私たちを不思議なやり方で支配しておられます。あなたは私たちを低めるときに高め罪人にするとに義とし、地獄に追いやるとに天国に連れて行、敗北の中に勝利を与え、死の中に命を与え、貧しくするに富ませ、僕として召すに主人に格上げしてくださいます



1214

誰が私たちをキリストの愛から引き離すですか?患難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですかそれともですか。「あなたのために私たちは一日中死に渡されており、屠られる羊のように見なされてい」と書いてあるとおりで。しかし、私たちを愛してくださった方によって、私たちはこれらすべてのことにおいて圧倒的な勝利を収めます
ローマの信徒への手紙83537節)

クリスチャンは救いの幸せに満ちていると同時に勇敢でもあります。クリスチャンは悪魔も不幸もおそれません。自分がキリストによってすべての主人であることを知っているからで



1215

あなたたちは信仰によって堅く立ち、この者(悪魔)に立ち向かいなさい。
ペテロの第の手紙59節より)

私は自分の中にある罪についても聖についても知りません。私の中には何もありません。まったく何もないのです。私が知っているのはキリストの義と神様の力のみで。私がもっているのは、キリストが与えてくださるもので。悪魔は罪についても聖についても自分のもとで人生の清算をしようとはしない魂の持ち主を見たときに、なんと思うでしょうか?それにできることといったら、何もない畑を耕すことだけ

2011年5月25日水曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」12月6日~10日

 

126

あなたがたの腰に帯が締められていて[1]明かり点されて[2]いるように。
ルカによる福音書1235節)

あなたがたは用意を整え目を覚ましていなさい。手に明かりをもち、それを絶やさないようにしなさい。いつ死ぬことになるかわからないからで自分が死の時の訪れ待つ身であることを忘れないように!私たちはあたかも永遠に生きるかのように働きましょう。しかし一方では、いつ死んでも大丈夫なように心を整えましょう。そのようにして私たちは腰に帯を締めた服装で花婿イエス様を待つことになるのです。この教えは私たちを地の塵の中に打ち倒し、悔い改めへと追いやります



127

あなたがたは、主人が婚礼から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開ける準備ができている人々のように待機していなさい。
ルカによる福音書1236節)

神様は私たちが腰に帯を締め御自分を待っているようにと、お命じになっていますそう神様が言われるのは、私たちの最善を思ってのことです。自分が腰に帯を締めていないことに気づいた人は、そのことを主に打ち明け、助けを求めなさい。そのような人に神様は憐れみによって罪の赦しの恵みと助けを与えてくださいます



128

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから(来られる)救い主、主イエス・キリストを私たちは待ち望んでいます
フィリピの信徒への手紙320節)

クリスチャンは自分の所属する家やグループや王国をこの世以外のところにもっています。あなたがたクリスチャンとして歩者として、この世的な不幸がもはやなく永遠の平和の中で生きていくことができる天の御国思いを向け、そちらへ歩んでいきなさい!



129

今のこのときの苦しみは、これから私たちに顕示されようとしている栄光とは比較にならない(ほど小さい)と私は思います
ローマの信徒への手紙818節)

もしも私たちがこの栄光を見るなら、私たちはさぞ立派に耐え忍ぶ殉教者となことでしょう!もしも川の向こう岸に金貨のつまった箱をもった男が立っていて「川を泳ぎ渡る勇気のある者はこの金貨をもらえるぞ!」と叫んだとすれば、すぐにでも真剣な水泳競争が始まることでしょう!



1210

それゆえ兄弟たちよ、主が帰って来られる[3]まで忍耐しなさい。見なさい、農夫は地の尊い実りを春の雨と秋の雨の時節まで忍耐強く待っています。あなたがたも、主の帰って来られる時が近づいた[4]のだから、忍耐し心を強めなさい
ヤコブの手紙578節)

神様はすべてのクリスチャンを「忍耐と慰めの学校」にお入れりますこの学校では私たちはいつも学びの途上にあり、すべてをすっかり学び終えるようなことは決してありません。聖書は悲惨や苦しみや死を消し去ったりはません。のため、忍耐が必要になるので。しかし、聖書は苦しみの只中にある私たちを慰め強め、倦まず弛まず私たちが前進できるように助けてくれます。私たちが勝利を得るまでずっとです。


[1] 完了分詞形
[2] 現在分詞形
[3] ギリシア語で「パルーシア」、「再臨」などと訳される。この世の終わりに主イエス・キリストが地上に帰ってこられる出来事をさす。
[4] 完了形