11月6日
私は信じます。それゆえ、私は語るのです。
(「詩篇」116篇10節より)
「キリストへの信仰」は黙っていることができません。他の人たちもはっきり理解できるようになるのを助けるために、信仰は知っていることを宣べ伝えます。「私は信じます。それゆえ、私は語るのです」。信仰はあまりに善良で憐れみに満ちているため、このように貴重な贈り物を独り占めしておくことができません。ところが信仰が語り始めると、不信仰な偽善者たちは怒り始めます。
11月7日
イエス様はこれに対して言われました、「そこまででよいです」。そして(その僕の)耳に手を触れて、癒してくださいました。
(「ルカによる福音書」22章51節)
神様は私たちの悪い行いをよいものに変えることができます。私は不適切な計画を下手に立てて、その結果やっかいな問題が起き、しかもそこから抜け出せる希望がなくなって、恐怖のどん底に落とされたものでした。しかし、主は私のせいで生じた過失を修復して、すべてを再びよいものにしてくださいました。このようにして、主は御自分の聖徒たちを導いてくださいます。
11月8日
主は振り返り、ペテロを見つめました。そのときペテロは、「今日鶏が鳴く前に、あなたは私を3度知らないと言うでしょう」、と言われた主のお言葉を思い出しました。
(「ルカによる福音書」22章61~62節)
自分を正しく知り、高慢にならないために、この例を心に刻みなさい。私たちが自分自身の悪さを自覚するためには、ある人(ここではペテロ)の罪が他の人を悔い改めへと導くものにならなければならないことがしばしばあるものです。
11月9日
キリストが肉[1]において苦しまれたのですから、あなたがたも同じ思いをもって武装しなさい。肉において苦しんでいる者は罪を止めているからです。それは、(あなたがたが)人間たちの多様な欲望のためではなく、神様の御心のために、肉において残されている時間を活かすためです。
(「ペテロの第一の手紙」4章1~2節)
自分のせいかあるいは他の人のせいで私たちに降りかかる不幸も、さらには私の悪い行いも、結果的に私たちの最善となるように役立つことになります。どのようにしてそうなるのか、あなたは訊きたいかもしれません。それは、神様を大切にする正しい人が自分の罪深さを見て恥じ入り、より熱心に心を込めて祈るべく、神様に助けを求めてへりくだることによって、そのようになっていくのです。
11月10日
自由な者として、しかしその自由を悪を覆い隠す口実に用いる者としてではなく、神様の僕として(行動しなさい)。
(「ペテロの第一の手紙」2章16節)
クリスチャンは次のように言ってはいけません、「律法から自由になっているのだから、自分のやりたいことを私は今やるんだ」。クリスチャンはそれとは正反対の仕方で話しまた行動しなければなりません、すなわち、今の自由の状態から、かつて律法や神様の怒りの下で苦しめられていた罪の奴隷状態へと逆戻りしたり、命から死へとふたたび落ち込んだりしないために、クリスチャンとして罪を恐れて避けなければなりません。