10月21日
目の見えない人たちは再び見えるようになり、足の萎えている人たちは歩き、ライ病にかかっている人たちは清くなり、耳の聞こえない人たちは聞こえ、そして、死んだ人たちは生き返り、貧しい人たちには福音が伝えられています。
(「マタイによる福音書」11章5節)
「福音」とは、キリストについて宣べ伝えることです。この福音は罪人にこう言います、「私の子よ、安心して喜びなさい。恐れてはいけません。キリストは、貧しい惨めな悲しみの心の持ち主たちにところに、恵みを伝えて与えるために来られたのですから。この方はあなたのために、神様にふさわしい永遠の清さを捨てて、あなたの罪を洗い落とし、あなたを神様と仲直りさせ、御自分を犠牲にしてあなたに罪の赦しと永遠の命を確保し、贈り届けてくださったのです」。
10月22日
(「エフェソの信徒への手紙」5章15~16節)
神様から離れ去る者は死に支配されるようになってしまいます。神様のみもとに戻らない者は死のもとに留まりつづけることになります。神様なしで命を誇ることはすべて、死を隠そうとすることです。キリストの中にある命をもっていない者は皆、すでに死滅しています。暗闇の中を歩み暗闇に支配されている彼らの中に、どうして命がありうるでしょうか!
10月23日
彼らは言いました、「長官、あの惑わす者がまだ生きていたときに『私は三日後に甦る』と言ったのを私たちは思い出しました」。
(「マタイによる福音書」27章63節)
イエス様の御言葉は、あたかも刺のように彼らの心の中につきささっていました。彼らは心底怖くなりました、「もしもそれが本当だったとしたら?もしも彼が本物のメシアで、死者の中から甦ったのだとしたら!そうしたら、私たちはどうなってしまうんだろう?」。彼らが信じようとしなかったキリストの御言葉は、燃える火や蝕む虫のように、彼らの心を苦しめました。彼らはそれを信じることもできず、かといって軽んじることもできませんでした。御言葉の敵は皆、このような目に遭うのです。
10月24日
義なる私の僕はその知識によって多くの人を義とし、また彼らの不義をその身に引き受けます。
(「イザヤ書」53章11節より)
ここでは再び「キリストを知ることによってのみ、人は義とされる」理由が述べられています。預言者イザヤが言っているように、キリストは、私たちの不義をひとりで自らの上に引き受けてくださった神様の僕です。それゆえ、私たちはこのキリスト教の「義」の定義にゆるがずに留まらなければなりません。それは、私たちが絶望して、キリストが恐るべき裁判官や処刑執行官であるかのような間違った思い込みに陥ったりしないためです。
10月25日
(「創世記」4章10節)
「神様はアベルの死後もアベルの世話をとてもよくしてくださった」、とモーセは語っています。すなわち、神様は、頼まれたわけでもないのに、アベルの血に突き動かされて復讐なさり、この世で生きていたときのアベルになさったことよりもよいことを、死んだ後のアベルに対してしてくださっているのです。これによってモーセは、神様は信仰者をその生存中にお見捨てにならないのと同様に、その死後もお見捨てにならないことを示しているのです。