2011年5月2日月曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」10月21日~25日

 
1021

目の見えない人たちは再び見えるようになり、足の萎えている人たちは歩、ライ病にかかっている人たちは清くなり、耳の聞こえない人たちは聞こえ、そして死んだ人たちは生き返り、貧しい人たちは福音が伝えられています
マタイによる福音書115節)

福音」とキリストについて宣べ伝えることで。この福音は罪人にこう言います、「私の子よ、安心して喜びなさい。恐れてはいけません。キリストは、貧しい惨め悲しみのの持ち主たちにところに、恵みを伝えて与えるために来られたのですから。この方はあなたのために、神様にふさわしい永遠の清さ捨てて、あなたの罪を洗い落とし、あなたを神様と仲直りさせ、御自分を犠牲にしてあなたに罪の赦しと永遠の命を確保し贈り届けてくださったので



1022 

あなたがたは自分が賢くない者のようにではなく賢い者のように歩んでいるかどうか、よく注目しなさい。備えられた時[1]を活かして用いなさい。この時代[2]は悪い時代だからで
エフェソの信徒への手紙51516節)

神様から離れ去る者は死に支配されるようになってしまいます。神様のみもとに戻らない者は死のもとに留まりつづけることになります。神様なしで命を誇ることはすべて、死を隠そうとすることで。キリストの中にある命をもっていない者は皆、すでに死滅しています。暗闇の中を歩暗闇に支配されている彼らの中にどうして命がありうるでしょうか!



1023

彼らは言いまし「長官、あの惑わす者がまだ生きていたときに『私は三日後に甦る』と言ったのを私たちは思い出しました」
マタイによる福音書2763節)

イエス様の御言葉は、あたかも刺のように彼らの心の中につきささってまし彼らは心底怖くなりまし「もしもそれが本当だったとしたら?もしも彼が本物のメシアで、死者の中から甦ったのだとしたら!そうしたら、私たちはどうなってしまうんだろう?」。彼らが信じようとしなかったキリストの御言葉は、燃える火や蝕む虫のように、彼らの心を苦しめました。彼らはそれを信じることもできず、かといって軽んじることもできませんでした。御言葉の敵は皆、このような目に遭うので



1024

義なる私の僕はその知識によって多くの人を義とし、また彼らの不義をその身に引き受けます
イザヤ書5311節より)

ここで再び「キリストを知ることによってのみ義とされる」理由が述べられてます。預言者イザヤが言っているように、キリストは私たちの不義をひとりで自らの上に引き受けてくださった神様の僕で。それゆえ、私たちはこのキリスト教「義」の定義にゆるがずに留まらなければなりません。それは、私たちが絶望してキリストが恐るべき裁判官や処刑執行官であるかのような間違った思い込みに陥ったりしないためで



1025

主は言われました、「あなたはなんということをしたのですか!あなたの弟の血が地から私に対して叫んでいます[3]
創世記410節)

神様はアベルの死後もアベルの世話をとてもよくしてくださった」、とモーセは語っています。すなわち神様は、頼まれたわけでもないのに、アベルの血に突き動かされて復讐なさり、この世で生きていたときのアベルになさったことよりもよいことを、死んだ後のアベルに対してしてくださっているのです。これによってモーセは、神様は信仰者をその生存中にお見捨てにならないのと同様に、その死後もお見捨てにならないことを示しているので 


[1] ギリシア語では、カイロス
[2] あるいは「日々」。
[3] 現在分詞。