2012年12月21日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 屈服して、罪を告白し、罪の赦しをいただきなさい!



屈服して、罪を告白し、罪の赦しをいただきなさい!

公ではない場で、個人的に
牧師あるいは誰か信仰の兄弟姉妹に罪の告白をし、
告白を聴いた相手が神様の御前で告白者に罪の赦しを宣言することを、
「告解」と呼びます。
私は告解というやり方が奪われることを望みません。
たとえ、「全世界の財宝をやるから告解するのをあきらめろ」、
と言われても、それに従うつもりはまったくありません。
なぜなら、告解がどれほど大きな慰めと力を与えてくれるか、
私はよく知っているからです。
悪魔との戦いに明け暮れている者以外は、
告解が何を実現するか、知りません。
もしも告解が私の命を保ってくれなかったら、
悪魔はとうの昔に私を窒息死させていたことでしょう。
  
  
告解とは、信仰の兄弟姉妹の誰かに心を開くことです。
具体的には、その人と二人きりになれる所に行って、
その人に自分の切迫した問題や悩みを話し、
その人を通して(神様から)、
自分の心を落ち着けてくれる慰めの言葉を聴く、ということです。
  
  
罪を告白する相手は、人ではなく、神様なる主キリストです。
罪の赦しの宣言をするのは、人間の言葉ではなく、キリストです。
キリストは、御自分に仕える者の口を通して、罪を赦してくださいます。
  
  
罪を罪と告白しないところには、助けも助言もありはしません。
本当は病気なのに自分が健康だと思いこんでいる人は、
医者をさがしたりはしないものだからです。

2012年12月19日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 この世的な付き合いを避けなさい!(コリントの信徒への第二の手紙6章14節)


 
この世的な付き合いを避けなさい!
(「コリントの信徒への第二の手紙」614節)
  
 
「私の魂を苦境から助け出してください!」
詩篇の書き手はこの御言葉によって、
自分自身が敵や偉人たちから守られるだけではなく、
彼らとの交流から完全に解放されるように、
導きをこいねがっています。
  
  
ある時、使徒ヨハネは
異端教師ケリントスが公衆浴場にいるのを見て、
自分の弟子たちにこう言ったそうです、
「あの人間の巻き添えを食らって
私たちも滅ぼされることのないように、
すみやかにここから立ち去ろう」。
こうヨハネが言い終わるやいなや、
公衆浴場の建物は真理の敵を滅ぼして崩壊してしまった、
ということです。
  
  
義なる人たちだけと交流を持つのは難しくありませんが、
悪い者たちと付き合って自分が悪に染まらずにすむのは困難です。
   

2012年12月17日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 もう罪を犯してはなりません!(ヨハネによる福音書5章14節)


 
もう罪を犯してはなりません!(「ヨハネによる福音書」514節)
  
 
キリストは御自分のみわざによって、
私たちのために救いの恵みを確保してくださったばかりではなく、
聖霊様の賜物も備えてくださいました。
それは、
私たちが罪の赦しをいただくだけではなく、
罪を行うことを止めるようになるためでもあるのです。
  
  
主なる神様、
罪が赦されているだけでは、十分ではありません。
私は、罪が完全に消し去られ、死に絶え、
埋葬されることを、望んでいます。
  
  
パウロは、
自分自身の中にも、またすべてのクリスチャンの中にも、
まだ「霊の汚れ」(神様についての間違った思い込みなど)や、
「肉の汚れ」(悪い欲望など)が残っていること、
それゆえ、
私たちはできるかぎり熱心に、聖霊様の力によって、
このような汚れからきよめられるように
努力しなければならないことを証しています。
なぜなら罪は、
信じている私たちをもはや裁くことはできないとはいえ、
依然として私たちの中に残存しているので、
神様が要求なさっているほどには、
心から信じたり愛したり
神様に避けどころを求めたりはできないようにして、
私たちを苦しめ妨げているからです。
罪は、
私たちがきれいになったり、善い人になったり、
物静かにはなれないように、邪魔しているのです。
私たち自身はそうありたいと望んでいるにもかかわらず。
  
  
洗礼が罪を犯す自由を与えるような「道」を、
私はあなたに教えた覚えはありません。
そうではなく、
キリストの血のゆえにあなたの罪は赦されており、
あなたは救いの恵みにあずかることになったのです。
実にそれは、
今あなたが新しい生活を営み、
罪を捨て去るようになるためなのです。

2012年12月12日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 日々の悔い改め(その4)


 
日々の悔い改め(その4)

 
 
私は無力です。
腐敗し悲嘆に暮れた心は落ち着きなく動き回り、
自分の中には病んだ惨めな状態しか見出しません。
そして、自分が打ち砕かれ
屈服させられているのを見せ付けられます。
ライオンが雄たけびを上げたり唸ったりするように、
私も苦しい心の中で激しく泣いています。
心が悲しみに満ち、
ため息ばかりついているときには、
そのような心の持ち主は
もう我慢できなくなり、
嘆きが破裂して、
吼えるしかしようがなくなります。
しかし実は、
これこそが罪を悔いるまったき心なのです。
  

2012年12月10日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 日々の悔い改め(その3)


  
日々の悔い改め(その3)
 
 
次のようなことを人が知って心から告白することは、
「悔い改めのわざ」と呼ばれます。
私たちは自分が罪の中で受胎し生まれ、
それゆえ、自然に神様の怒りの下にいる子どもであり、
自分自身のせいで永遠の滅びの中に落ちるのが当然な存在です。
また、どのような「わざ」も取るに足りないものであり、
それどころか、さらに事態を悪化させるものです。
なぜなら、本来ならキリストおひとりにのみ属するはずの事柄を
それらのわざによって実現できる、と人は考えるからです。
キリストこそが神様と人との間の唯一の仲裁者です。
この方を通してのみ、私たちには罪の赦しがあります。
他のルートによっては、人は決して罪から解放されません。
懲罰として自分を死ぬほど痛めつけたとしてもだめです。
なぜなら、キリストへの信仰によっていただけるのは、
罪の赦しであって、罪の賠償ではありませんし、
賜物であって、報酬ではないからです。
神様がまったくの「救いの恵み」から、キリストのゆえに、
私にくださる「贈り物」について、
私のような取るに足りない人間がその代価を払うことはできないし、
神様からそれを報酬として受け取ることもできるわけがありません。
真の悔い改めとはつまり、次のことです。
自分が神様の御前では呪われた罪人であることを
確信させてくれる神様の御言葉を、私は信じます。
そして、私は神様に対して耳をふさいできたこと、
神様の戒めを敬わず、詳しく調べることもせず、
その大きな命令も小さな命令も守らないで生きてきたことが
ひどい生活だったことを、心から反省します。
けれども、私は絶望したりはしません。
キリストから救いの恵みと助けを求めるよう、
私は自分自身をキリストの御許へと連れて行きました。
そして実際に、救いの恵みと助けとをキリストからいただいたことを、
私は堅く信じています。
 

2012年12月7日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 日々の悔い改め(その2)


  
日々の悔い改め(その2)

  
  
「神様、あなたの善性のゆえに私を憐れんでください」
(「詩篇」513節)。
   
正直に罪を悔いる心の持ち主が目にする自分の現実は、
自身の罪と(善悪を見分ける)良心の惨めな状態以外の何物でもありません。
それゆえ、自分の中からまだ何かよい助言や活動を見出す者は、
上掲の「詩篇」の御言葉を真剣に口にすることができません。
その人は自分の中から助けをさがしているので、
自分がまったく惨めな存在であることに気付いていません。
その人は神様の憐れみ深さを感じてはいるものの、
依然として、ある程度は自分自身の中にも慰めを得ているのです。
  
  
嘆きや悲しみは、それぞれ「誕生」の瞬間です。
その時、新しい人が生まれ、古い人は死にます。
   

2012年12月5日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 日々の悔い改め(その1)


  
日々の悔い改め(その1)
 
  
どんな石も、どんな鋼鉄も、
どのダイヤモンドも、
またこの地上のどんな物質も、
(自分の罪を)悔い改めない人間の心ほど堅くはありません。
  
  
もしも身体が、心底から悔い改めて、
真理によって心が燃え始めた魂に対して従順ならば、
身体は、あたかも雪のように、
一時間もしないうちに溶け失せてしまうに違いありません。
  
  
泣くことは仕事よりも重労働であり、
苦しむことはあらゆる行いを超えるものです。
  
  
ペテロは激しく泣きました(「ルカによる福音書」2262節)。
これは悔い改めが始まったことを示しています。
心が自分の罪に気付き、それを本当に悪質なものとみなすので、
それらの罪に何の欲望ももたず、それらの罪の中に留まることもなく、
逆に、自分が神様の御心に従って生きてこなかったことを
心から悲しむようになります。
それから、その人は神様の御言葉と約束の中に留まり、こう言います、
「主よ、あなたの御子イエス・キリストのゆえに、私を憐れんでください」。
これこそが真の悔い改めです。
すなわち、罪を恐れ、へりくだって、
信仰によって主キリストとその受難から慰めを自分にいただくのです。
  

2012年12月3日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 汚れた心はきれいにしなければなりません!(その4)


 
汚れた心はきれいにしなければなりません!(その4)

 
 
「そうして、彼らは舟と父親をその場に残し、
イエス様に従いました」、と福音書には書かれています
(「マルコによる福音書」120節)。
ということは、
イエス様に従うためには、
持ち物や結婚相手や子どもたちを
置き去りにしなければならないのでしょうか。
それはまったく違います。
この御言葉の意味は次の通りです。
あなたは心の中で、
自分の家と結婚相手と子どもたちを
置き去りにしなければなりません。
それは、
神様がお定めになった通りに、
あなたが彼らのところにいて、
彼らと共に生計を営み、
彼らに仕えている場合でも同じです。
しかしあなたは、
心を落ち着けて、自らすすんで、
神様のために、何時であろうとも、
すべてを投げ出す用意を整えておかなければなりません。
大切なのは、
心がそれらのものによって束縛されないようにすることです。
そして、貪欲や執着から、
また神様以外の何かに助けを求めて頼ることから、
心を分離してきれいに保つことです。
  
                                                                                                           
心がきれいな時には、
教会は畑や市場と同じぐらいによい場所だと私は感じます。
そのような時には、
「聖なる場所や行い」とか、
あるいは「聖ではない場所や行い」とか、
私が名づける特定の場所や行いは、もはや存在しません。
なぜなら、聖さが心の中に来訪しているからです。