2021年2月26日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」20章19節「あなたがたに平和があるように」

「あなたがたに平和があるように」 

その日、すなわち一週の初めの日の夕方、

弟子たちはユダヤ人たちをおそれて

自分たちのいる場所の戸をみな閉めていると、

イエス様が入って来られて彼らの中に立ち、

「あなたがたに平和があるように」と言われました。

(「ヨハネによる福音書」2019節)

 

よみがえられたイエス様が弟子たちに向かって

「あなたがたに平和があるように」と言ってくださったのは

実に喜ばしいことでした。

彼らは神様の与えてくださる平和を自らの罪のゆえに失っていたからです。

「イエスなど私は知らない」と言い放った者もいれば、

イエス様を見捨てて逃げた者もおり、

捕らえられたイエス様のはるか後方から敵に混じってついていった者もいました。

また彼らは皆、イエス様の復活を疑いもしました。

 

しかし、彼らを厳しく断罪するのはやめましょう。

私たちもまた同じことをしたからです。

私たちは沈黙することでイエス様を拒みましたし、

イエス様の御言葉を疑いもしました。

本来なら堂々と人々の前に出るべき時に、

イエス様を見捨て、敵の中にまぎれこみ、こそこそと隠れました。

御言葉に基づかず人間が勝手に考えた意見によって、

他の人たちがキリスト教信仰の道に入るのを妨げました。

救い主についての証もしませんでした。

イエス様に対して忠実ではなく、罪を犯しました。

 

しかし、ここでイエス様が駆けつけます。

十字架の血によって神様と人との間に和解を築き上げ、

この和解のもたらした平和を宣言なさいます。

神聖なる律法の要求する一切のことを私たちに代わって満たされたのです。

イエス様の平和の挨拶は弟子たちに大きな喜びをもたらしました。

イエス様はこの平和を私たちの心にも与えることを望んでおられます。

「あなたがたに平和があるように」と平和の君は呼びかけてくださいます。

 

(祈り)憐れみ深い神様、

私たちの不実、疑念、無気力、臆病をどうかお赦しください。

イエス様の十字架を憎悪する人々から、

どうか私たちが遠ざかれるようにお助けください。

また、あなたの救いの喜びを私たちにもお与えください。

どうか私たちをあなたの真理の勇気ある証人となさってください。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」243648

2021年2月19日金曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」23章46節「イエス様について語りなさい」

 「イエス様について語りなさい」 

そのとき、イエス様は声高く叫んで

「御父様、私の霊を御手にゆだねます」と言われ、

息を引きとられました。  

(「ルカによる福音書」2346節)

 

私たちの罪はイエス様のゴルゴタの十字架での苦しみを

おぞましいものにしました。

私たちのうちの誰一人、その責任を逃れることはできません。

私たちは全員、イエス様を十字架につけた者なのです。

私たちをその罪からあがなうため、

イエス様は苦しみの杯をその最後の一滴に至るまで

すっかり飲み干してくださいました。

御父は御子をお見捨てになりました。

それは、神様が私たちをお見捨てになることが

決して起こらないようにするためでした。

 

すべてはもう用意ができています。

死の瞬間にイエス様は自らの霊を天の父の御手にゆだねられます。

イエス様の死のおかげによって、

私たちもまた天の父なる神様のことを自分らの霊的な父親として

「天にましますわれらの父よ」(主の祈り)と

呼びかけることができるようになりました。

 

私もまたいつかは死ななければなりません。

そうなるのも遠い未来のことではないかもしれません。

しかし、その時が来ても私は恐れる必要がありません。

なぜなら、イエス様が十字架の死によって

私を天の父なる神様と和解させてくださっているからです。

イエス様と同じように私も「御父様、私の霊を御手にゆだねます」

とはっきり言うことができます。

天は私に対しても開かれているのです。

 

このことについて、

私は他の人たちにもためらうことなく話しに行かなければなりません。

彼らもまたイエス様の血によってあがなわれた人々なのですから。

私はイエス様について話します。

罪が赦されていること、

天の楽園の扉が開かれていること、

について話します。

世界中の多くの人々はまだこのことについて聞いたことがありません。

私は前にもまして、あなたの御国が来ますように、

そして、イエス様の愛が私の口や手や財布を開かせてくださるように

と祈ります。

私自身、イエス様の愛を受けている者です。

ですから、私がこのように祈るのは当然なのです。

 

(祈り)天の御父様、

あなたがイエス・キリストを通して私たちに罪の赦しをくださった

私たちの御父であることを私が他の人々にも語ることができるように、

どうか私に聖霊様をお与えください。アーメン。


(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」11831

2021年2月12日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」19章30節「成し遂げられた」

「成し遂げられた」 

すると、イエス様はそのぶどう酒を受けて

「成し遂げられた」と言われてから頭をたれて息をひきとられました。

(「ヨハネによる福音書」1930節)

 

イエス様の苦難はもうすぐ過ぎ去ろうとしています。

今ここでイエス様は、

地獄に落ちるのが当然であるはずの全人類にとって

決定的な意味を持つ言葉を口にされます。

その言葉の持つ意味は、

本来なら自分の罪深さのゆえに地獄に落ちるのが当たり前であるはずの

私にとっても同じです。

 

「成し遂げられた!」とイエス様は叫ばれます。

私たちの代わりに私たちの罪を取り去る方として来られた

イエス様のみわざのすべてが成し遂げられたのです。

私たちのために、神様の聖なる律法が全うされたのです。救いは私たちのためにすっかり用意されました。私たちの罪は帳消しにされたので、死の力は滅ぼされました。

サタンの頭は砕かれました。

天国への道は開かれました。

すべては完全に成し遂げられました。

 

聖なる神様の御前で罪深い存在である人間が

義とされて立つことができるようにするために必要なすべてことを、

イエス様がおひとりでそのみわざを通して獲得してくださったのです。

こうして用意された救いを喜ぼうではありませんか!

 

今や私たちには神様を愛し神様にお仕えする自由が与えられており、

生涯を通じて神様のために生きて行くという自由を得ています。

今や「生きること」そのものに意味があるのです。

私たちは「イエス様のもの」とされているので、

めいめいが自らの十字架を担ってイエス様に従って歩むことを希求します。

「この方がすべての人のために死なれたのは、

生きている者たちがもはや自分自身のためにではなく、

自分たちのために死なれ復活させられた方のために

生きるようになるためです」

(「コリントの信徒への第二の手紙」515節)。

 

(祈り)天の御父様、

信仰の導き手であられその完成者でもあられるイエス様を

どうか私が常に仰ぎ見るようになさってください。

そして「イエス様のかたち」に似た者となるように、

どうか私を新たにしてください。アーメン。

(「ヘブライの信徒への手紙」122節も参照してください(訳者註))。

(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」51421