2012年7月28日土曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 聖で義なる神様(その2)



聖で義なる神様(その2)
 
 

貧しさ、侮蔑、危機、惨めさ、苦しみが
住み着いている谷底へと
眼差しを向ける者はいません。
逆に、誰もが
谷底にいる者たちから目を背けて逃げ、
彼らを嫌い、軽蔑し、
助けようとはしません。
空虚から何かを生み出すような造り主は、
人間の中にはひとりもいません。
それゆえ神様は、
谷底と危機と悲惨を見下ろして
谷底に落ちた人々の近くにいてくださる
唯一のお方なのです。

2012年7月21日土曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 聖で義なる神様(その1)


聖で義なる神様(その1) 
 
 
神様の隠された、おそるべき御意志を探ってはなりません。
全能なる神様のもっとも敬うべき奥義を崇拝するのと同じようにして、
神様の御意志を敬いつつ崇拝するべきです。
この奥義は、神様御自身にのみ属することがらであり、
私たち人間からは厳重に覆い隠されています。
自分の心を問いただして探ってみなさい。
そうすれば、あなたは、
自分の心が神様のみに留まることができるかできないか、
気が付くはずです。
もしもあなたに何かが欠けていたり、
あなたが危機の中にいる時でも、
神様からよいことのみを待ち望む心をもっているのなら、
また、
神様からのものではないことをすべてやりすごすことができるのなら、
あなたはちゃんと唯一の正しい神様をいただいていることになります。
  
  
神様は主です。
神様がなさるのは、
下方にある者を持ち上げ、上方にある者を引き下ろし、
ひとつに固着しているものをこわし、こわれたものをなおすことだけです。
  
  
尊敬することは、愛することよりもはるかに高尚なことです。
なぜなら、尊敬することは、
ちょうど隠された全能者に対するように、
愛ばかりではなく、
自律やへりくだりや敬意もその中に含んでいるからです。
  
  
神様は、すべてを空虚から創造なさいます。
神様は、絶望している者を確信に満ちた者になさいます。
神様は、侮られている者を名をとどろかせる者になさいます。
神様は、悪評をこうむっている者を大きな賛美を受ける者になさいます。
神様は、罪人を義とし、死を命に変えてくださいます。


神様が起こしあげてくださるのは、見捨てられた者だけです。
神様が癒されるのは、病気の者だけです。
神様が目を見えるようになさるのは、目の見えない者だけです。
神様が活きる者になさるのは、死んだ者だけです。
神様が義となさるのは、罪人だけです。
神様が賢くなさるのは、愚かな者だけです。
 

2012年7月12日木曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 私の大きな罪(その3)


 
「私の大きな罪」(その3)
 
 
神様は、
御自分の恵みをへりくだった者にしかお与えにはなりません。
すなわち、
飢えている者、渇いている者、空虚な者、貧しい者、罪人、
周りからあざ笑われている者に対してだけです。
神様は、
金持ちや知者や聖人の美しい言葉や偉業などには目を留めません。
なぜなら、
そういう人たちの間では、
神様の栄光は無意味なものになってしまうからです。
神様がごらんになるのは、
最初に述べたような人たちの、
神様を願い求める心や祈りのみです。
神様は、もはや彼らの祈りを聞き捨てにはなさいません。
神様は、満足しきっている者をもっとも軽蔑しておられます。
なぜなら、そうした者は神様の恵みを慕い求めないからです。
彼らは、
自分が神様に何かを与えることができ、
何か偉大なことができるので、
その結果として(神様が)自分たちから得るはずの
賛美や栄光よりももっと多くの賛美や栄光を、
逆に自分たちが神様からもらうのが当然である、
とさえ思い込んでいるのです。


今、私たちは、
実際に所有しているものよりも多くの負債を、
神様に対して負っています。
それゆえ、私たちが神様に支払うことができるのは、
「自分が罪人である」というへりくだった心であり、
神様が義なるお方であることを告白しながら、
私たちがもっているすべてのものと
私たち自身を差し出すことだけです。
どのように神様の御心が私たちに対して働きかけるかには関わりなく、
このように神様にすべてをおささげするという態度は、
私たちがもちうる最高の義であり、
正しいささげもの、全焼のささげものです。

2012年7月6日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 私の大きな罪(その2)



「私の大きな罪」(その2) 
 
 
もしもあなたがまず自分の中で、また人々の前で、
「主があなたに望んでおられるような存在」にならないのなら、
あなたは神様とキリストの中で
「自分が望むような存在」にはなれません。
ところが主は今、あなたが自分の中で
「あなたが実際にその通りであるような存在」、
すなわち罪人にならなければならない、と望んでおられます。
あなたは生まれながらに、
「神様の怒りの子」という名前や地位を与えられています。
ところが、もしもあなたが
自分はこの通りの存在であると実感したなら、
そのときあなたは神様の御目には
「自分がそうありたいと望んでいた存在」になっているのです。
すなわち、あなたは
「聖で、義で、偽りのない存在」になっているのです。
  
  
洗礼者ヨハネとその声は、
キリストよりも先に来なければなりませんでした
(「マルコによる福音書」114節)。
それは、
民が恵みを必要とし願い求めるようにするために、
民を準備して、民の罪を明るみに出すためでした。
しかし、自分が罪人であることを認めない者たちは、
まだ恵みをいただく準備ができていません。
彼らは、神様の遣わした人々や神様に仕える人々を
神様の御言葉と共に受け入れようとはしません。
  
  
「愚かさ」とは、
人が自分自身のことを知ることができず、
自分がまったく健康である、と思い込んでいるところにあります。