2026年9月25日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」4章4節「永続する喜び」

「永続する喜び」


あなたがたは主にあっていつも喜びなさい。

繰り返して言いますが、喜びなさい。

(「フィリピの信徒への手紙」4章4節)

 

この箇所はキリスト信仰者の永続的な喜びについて語っています。

どうしたらそのようなことが可能なのでしょうか。

 

主の使徒の言っていることはおおげさなものではありません。

私たちが罪深い存在であり

キリスト信仰者には多くの様々な悲嘆があることを

使徒が忘れているわけではありません。


「いつも」と彼は書いています。

念を入れるように彼はそれを繰り返しています。

荒れ狂う波の表面下に深い永続する喜びがあるということです。

 

神様の子どもたちがいつもこのように喜んでいられるのは、

喜びをもたらす対象がこの世のものではないからです。


お金でも持ち物でもなく、

成功でも福祉でもなく、

感謝されることや栄光を求めることでもありません。


キリスト信仰者の喜びは主イエス様の中にあるのです。


それは、

罪の赦し、

神様に認められ受け入れていただける義、

神様の平和、

天の父なる神様に世話していただけること

についての喜びです。


それは、

イエス様を通して私たちキリスト信仰者が

救いの喜びにみちた死を迎えて天の御国へ入れていただける、

という内的な喜びなのです。

 

私たちを抱き上げ、運び、救ってくださる神様が私たちにおられるのです。

神様は私たちが「 夜の間に賛美を歌うようになさいます」

(「ヨブ記」35章10節より)。

 

(祈り)

喜びの御霊よ、

あなたの救いの喜びを私たちに再びお与えください。

この喜びがイエス様を通して、

恐れ、嘆き、鬱、失望に打ち勝てるようになさってください。

天のシオンへの旅を続けている者たちのもとから嘆きと溜息が逃げ去ること、

そして、彼らの上に永遠の喜びが留まることを、

どうか私たちに思い起こさせてください。

アーメン。

(関連聖句)「イザヤ書」12章

2026年9月7日月曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」3章20〜21節「低みから栄光へと」

「低みから栄光へと」

 

私たちの国籍は天国にあります。

そこから(来られる)救い主イエス・キリストを

私たちは待ち望んでいます。

この方は万物を御自身に従わせうる力の働きによって、

低みにある私たちの身体を

御自身の栄光の身体と似たかたちに変えてくださるのです。

(「フィリピの信徒への手紙」3章20〜21節)

 

キリストがこの世に再臨なさるときに起きる変化は

どれほど大きいものでしょうか!

この弱々しく衰え腐敗した私たちの身体が

キリストの栄光の身体と似たかたちに変えられる、と言うのですから。

 

「この朽ちるものが朽ちないものを着、

この死ぬものが死なないものを着ることになります。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章54節より)

 

弱さは力へ、衰えは完全さへ、嘆きは賛美へとかわります。

罪の支配はもはや消え失せ、悲嘆や死はもうありません。

 

このように主の使徒は言い切ることができました。

救い主御自身がそう約束してくださったからです。

 

天地を造り、万物を保ち、人を地の塵から造られたこの方は、

(イエス様を救い主として信じており洗礼を受けている)聖徒たちが

死んで土や塵に変わった身体を召還して、

御自身の栄光の身体に似たものに変えることが本当にできるのです。

神様に不可能なことは何もないからです。

使徒信条にあるように、

私は身体のよみがえりと永遠の命を信じます。

 

(祈り)主イエス様、

あなたが十字架の死によって私の罪も帳消しになさったことを

私にはっきりお示しになり、

私を活ける希望を持つ者として再生してくださったことを

あなたに感謝いたします。

疑いを追い払い、

あなたの約束に堅く信頼できるように、

どうか私を助けてください。

あなたの約束はすべて真(まこと)です。

アーメン。

(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」3章12〜21節

2026年8月27日木曜日

「力なき者に力を」「詩篇」103篇12節「限りない恵み」

「限りない恵み」

ちょうど東が西から遠いように、

主は私たちの咎を私たちから遠ざけてくださいます。

(「詩篇」103篇12節 )

 

東の方へとひたすら歩み続けても終わりがありません。

同じように、ひたすら西の方に行ったとしても終着点はありません。

 

聖霊様は神様による罪の赦しを説明するためにこのイメージを用いておられます。

 

神様の御前では私たちの罪は重大で嫌悪すべきものです。

天の父なる神様は愛する御子にあたかもこう言っておられるかのようです、

「私は世の罪を見たくない。

それらを片付けて私の目に触れないようにしなさい」。

 

イエス様は私たちの罪を御自身の身体で十字架へと運んでくださいました。

そして、それらの罪の受けるべき罰を

私たちの身代わりに引き受けて死んでくださいました。

その尊い血によってすべての罪を深淵へと溺れさせ、

もはや私たちを責め立てるために上ってこないようにしてくださったのです。

 

今も残っている唯一の罪は不信仰です。

不信仰はあらゆる罪の源です。

なぜなら、不信仰は罪の赦しを受け入れるのを拒み、

イエス様のあがないの血を踏みにじるものだからです。

しかし、この血の中で私たちは聖別されているのです。

 

罪の赦しを信じることは私たちを無為にはしません。

自分が重荷から解放された私たちは

他の人たちも彼らの重荷から解放されるように助けるようになるからです。

このように罪の赦しの力によって新しい弟子たちが生まれてきます。

そして、相手が誰であろうとも

隣り人を愛することの大切さを学ぶことになります。

神様は尊い代価を払って私たちの罪を取り除いてくださいました。

ですから、私たちはもはや故意に罪を行いたいとは思わないのです。

むしろ、日々の生活の中で罪を避けたり罪と戦ったりすることが

私たちにとって大切な課題になります。

 

(祈り)

主イエス様、あなたは私を罪から解放してくださいました。

どうか私があなたにふさわしく熱心に仕えることができるように

なさってください。アーメン。

(関連聖句)「イザヤ書」55章

2026年8月24日月曜日

「力なき者に力を」「詩篇」23篇4節より「暗い谷」

「暗い谷」

私はたとえ死の陰の谷を歩むとも、

わざわいを恐れません。

あなたが私と共におられるからです。

(「詩篇」23篇4節より)

 

御言葉も教えているように、私たちは皆いつか死ななければなりません。

お年寄りに残された人生の時間は(若い頃よりも)短くなっています。

「主よ、私の終りと私の(残された)日の長さがどれほどかを

私に知らせてください。

私は自分がいかにはかない存在であるかを知りたいのです」

(「詩篇」39篇5節)

と私たちは祈ります。

 

人々の死に対する態度は実に様々です。

死を忘れるよう努める人もいれば、死をのろう人もいます。

かと思えば、死を歓迎する人もいます。

死に対して威圧的な態度を取る人もいれば、

死という定めの前にうち崩れる人もいます。

 

キリスト信仰者も自然と死を遠ざけようとするものです。

しかし、キリスト信仰者である私たちはイエス様への信仰にあって

「私はたとえ死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。

あなたが私と共におられるからです」

と言い切ることができます。

さらに、主の使徒と共に

「死よ、勝利はどこにあるのか。死よ、棘はどこにあるのか」

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章55節)

と言うことさえできるのです。

 

イエス様の十字架と空の墓を通して、私たちは死の本当の姿を見ます。

死は永遠の光への扉なのです。

死を通して私たちは罪の桎梏から解放され、

もはや罪が私たちに染み付くことはなくなります。

私たちはずっと主と共にいることができるようになるのです。

私たちの身体もイエス様の栄光を受けた身体と似たものとされて復活するのです。

 

(祈り)

救いの朝がやって来ます。

死の国は威力を失います。

こうして命は死に勝ち、心臓は再び脈打ちはじめます。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」15章41〜57節

2026年8月18日火曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」12章9節より「自らを律しなさい」

「自らを律しなさい」 

悪を憎んで退け、善に親しみ結びつきなさい。

(「ローマの信徒への手紙」12章9節より)

 

「放縦や泥酔や世の煩いのせいであなたがたの心が鈍らないように、

よく我が身に気をつけなさい」(「ルカによる福音書」21章34節より)。


救い主は私たちに自分自身を律するよう勧告しておられます。

 

お腹がすいてご飯を食べたり、喉が渇いて水分を補給したり、

休憩したり、よい趣味を持ったりするのは自然な生き方です。

しかし、すべてにおいて私たちは、自分の健康や評判や全人生を

台無しにしないように気をつけなければなりません。


自制はとても大切です。

聖書が次のように教えている通りです、


「そして、あなたのすることはすべて、

言葉によっても行いによっても、

一切を主イエスの御名によってなし、

イエス様を通して父なる神様に感謝しなさい」

(「コロサイの信徒への手紙」3章17節)。

 

本当に私たちは自己を律する必要があります。

怠惰や浪費は罪です。

貪欲や金持ちになる欲望も罪です。

趣味や遊びに時間を使いすぎるのもよくありません。

かといって、

趣味や遊び自体を悪いものと決めつけるのも正しいとは言えません。

身だしなみに気をつけるのはよいことですが、

流行の虜になるのは愚かです。

キリスト信仰者として自律している人は

すべてを一緒くたにして容認しはしませんし、

それらに迎合することもありません。

 

「あなたがたは地上のものではなく上にあるものに思いを向けなさい」

(「コロサイの信徒への手紙」3章2節)。


あがなわれた者として私たちは

すべてにおいて救い主に喜ばれたいと望みます。


私たちは人間の作った規則に対して

何も考えないまま従う奴隷ではありませんが、

一方では、

キリスト信仰者としての自由を不当に乱用する者でもありません。

 

(祈り)主イエス様、

私たちが怒るときに、話すときに、遊ぶときに、

食べたり飲んだりするときに、

悲しいときや喜んでいるときに、

自分を律することができるように助けてください。

私たちが己に克ち、いつもあなたに喜ばれるように強めてください。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」10章27〜33節

2026年8月7日金曜日

「力なき者に力を」「エゼキエル書」33章11節より「神様の思い」

「神様の思い」

私をないがしろにする不義の人が死ぬのを私は喜びません。

むしろ、私をないがしろにする不義の人が

その道を離れて生きるようになるのを私は喜びます。

(「エゼキエル書」33章11節より)

 

聖なる神様は罪を憎まれます。

ひねくれた人間はこのことから

神様について、

人が困っていても知らん顔をしているような

憐れみをもたない厳しい存在である

という結論を下します。

 

しかし、神様は御言葉を通して

「私をないがしろにする不義の人が死ぬのを私は喜びません」

と言われます。

罪を罰する神様は、同時に愛と恵みの神様でもあられるからです。

 

神様はその独り子を世に遣わして罪人たちのすべての罪を負わせました。

イエス様の受苦と死によって全世界の罪はすでに罰を受けており、

人は皆、律法と罪の呪いから御子の血と引き換えにあがなわれています。

罪人が悔い改めて神様からの和解の申し出を受け入れるようにと

神様は今も望んでおられます。

罪人が悔い改めることを神様は喜んでくださいます。

天国にいる御使いたちも共に歓喜します。

 

罪を行う者は自分自身や隣り人を傷つけるだけでは済みません。

神様の心をも痛めるのです。

なぜなら、全能の主は一人たりとも滅びることを望んではおられないからです。

主は全世界に向けて

「地よ、地よ、地よ、主の御言葉を聴きなさい」

と叫んでおられます(「エレミヤ書」22章29節)。


「地の果てのすべての人よ、私の方に向き直りなさい、そうすれば救われます」

(「イザヤ書」45章22節より)。

これが、罪人一人一人に対して神様が抱いておられる思いなのです。

 

(祈り)信仰が弱まり、心が疑いに囚われた時、

あなたの恵みを私の心に輝かせ、不信仰に勝てるようにしてください。

イエス様、あなたの受苦とそれにより開かれた天の御国とを

どうか私にはっきりとお示しください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの黙示録」21章9〜27節

2026年8月3日月曜日

「力なき者に力を」「ゼカリヤ書」14章7節より「明るくなっていく夕べ」

「明るくなっていく夕べ」

夕暮れ時になっても、光があります。

(「ゼカリヤ書」14章7節より)

 

日が暮れるはずの時刻なのにまだ明るいのは不思議な気がします。

 

イエス様がこの世にお生まれになった時、

人々は夕べの暗闇の中を歩んでいました。

そのような彼らの上に大いなる光が照り輝き渡ったのです。


「私は世の光です。

私に従って来る者は闇の中を歩くことがなく、

命の光をもつことになります」

(「ヨハネによる福音書」8章12節より)。

 

キリスト教会を照らす福音の光を再び輝かせるために

神様がマルティン・ルターを御自分の器として選ばれた時にも、

ひたすら暗くなっていく夕暮れが辺りを覆っていました。

永遠の御言葉は今も私たちの只中にあります。

私たちの周りに

キリスト信仰を失ったり拒絶したり

不信仰に留まったりする人々が大勢いる現代でも

それは変わりません。

 

福音は今日も宣べ伝えられています。

罪人は今日も自分の重荷と共にイエス様の御許に行くことが許されています。

重荷を下ろしていただいた私たちの思いは

今日も神様の平和と喜びに満たされます。

イエス様が十字架で私たちの身代わりに死んでくださったおかげで、

罪人である私たちは恵みにより罪の赦しと命と救いをいただけるのです。

 

人生の黄昏にさしかかっても、辺りは明るいままです。

私たちが死の陰の中にいても、イエス様は光であり続けます。

イエス様は御業を途中で取り消すようなことはなさいません。

私たちが(死という)人生の最後の戦いの最中にある時にも、

イエス様は私たちを決してお忘れにはなりません。

 

イエス様は私たちを天の御国の故郷へと連れて行ってくださいます。

天の御国には夜がありません。

そこでは小羊が永遠に太陽であり、光そのものだからです。

 

(祈り)

主よ、私の道が死の谷へと下っていく時に、

あなたの十字架が私を照らして、

光の道から陰りが消えるようになさってください。

私たちが生きる時も死ぬ時も、どうか私のもとにいてください。

アーメン。

(関連聖句)「詩篇」27篇