2026年1月29日木曜日

「力なき者に力を」「創世記」29章2節より「活きた水」

「活きた水」

彼(ヤコブ)が見ると、なんと野に井戸があったではありませんか。

(「創世記」292節より)

 

清涼な水のありがたみを知っているのは喉が渇いている者だけです。

ハランへの旅路で疲れ果て喉が渇いていたヤコブは井戸を見つけ、

その水を飲んで元気を取り戻すことができました。

 

清涼な水を感謝するべきです。

それがいつでも手に入るとは限らないからです。

しかし、このような水と比べて、

主の教会で神様の純粋な御言葉から湧き出る「活ける水」のほうを

私たちはより深く感謝するべきなのです。

信仰によってイエス様に避け所を求めるとき、

イエス様は「命の水」をくださいます。

それはイエス様の御名と血における罪の赦しです。

 

私たちキリスト信仰者には、

聖なる洗礼と主の聖餐を通して、

この活ける水、命と救いの水が分配されます。

 

「あなたがたは喜びをもって救いの井戸から水を汲みます」

(「イザヤ書」123節)。

 

「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来なさい」

(「イザヤ書」551節より)。

 

「御霊も花嫁も言いました、「来なさい」。

また、聴く者も「来なさい」と言いなさい。

渇いている者はここに来なさい。

命の水を欲する者は価なしにそれを受け取りなさい」

(「ヨハネの黙示録」2217節)。

 

泉から水が湧き出る井戸だけが「よい井戸」なのです。

その井戸からは新鮮な水がなくなることがありません。

神様の恵みとはまさにそういうものです。

 

(祈り)聖霊様、

私を命の水の新鮮な泉へのもとへ連れて行ってください。

私の魂の焼け付くような渇きを癒す水を

私がいつも飲めるように助けてください。

明快に溌剌と私が渇いている人たちを皆、

この水のもとに招くことができるようにどうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「創世記」2914

2026年1月19日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」6章20節より 「嵐が静まる」

「嵐が静まる」

私です。恐れることはありません。

(「ヨハネによる福音書」620節より)

 

弟子たちが嵐の只中にいた時にイエス様は来てくださいました。

ところが、彼らはイエス様が水の上を歩いて近づいてくるのを見て

恐ろしくなり、叫びました。

その時、彼らは聞き慣れた声が「私です」と話しかけるのを聴きました。

恐怖は消え、嵐は止みました。

そして彼らは岸へと着きました。

 

イエス様を信じる人たちは今でもこのようなことを経験しています。

嵐が人生を脅かしています。

自分であがいてみてもどうにもなりません。

希望も消え失せます。

治療が難しい病気、身近な人の死、

気が滅入り窮乏する無職の状態などは

この困難な航海の一例です。

このようにキリスト信仰者は試練に直面します。

 

嵐の夜に、イエス様はやって来られます。

さまざまな試練を通して、主は

「私です。恐れることはありません」

と言ってくださいます。

私たちはその時に嵐が神様からのものであったことを理解します。

イエス様が共にいてくださることは

私たちの良心の呵責を鎮め、

私たちに罪の赦しによる平和をもたらします。

 

私たちは主の御声を聴きます。

人生でのいかなる嵐のような出来事も

決して偶然に起こるのではありません。

そこには主がおられます。

私を愛し御自分を私のためにささげてくださったお方が。

 

私たちが救い主に頼る大切さを学ぶために

苦しみは与えられるのです。

イエス様が「私のもの」になってくださっているのですから、

私は滅びはしません。

 

(祈り)嵐の夜に、

私(イエス様)はあなたのところに来て船に乗り込みます。

どよめく風を再び鎮めます。

私は天国の港へと船の舵を取ります。

私ははじめであり、おわりなのです。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」61521

2026年1月9日金曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」1章20節より「自然、神様の聖所」

「自然、神様の聖所」 

神様の見えない性質、すなわち、神様の永遠の力と神性とは、

天地創造このかた被造物において知られていて明らかに認められるからです。 

(「ローマの信徒への手紙」120節より)

 

神様の造られたこの世界は

神様の力と知恵と栄光について私たちに教えてくれます。

 

私たちの救い主は山の上でしばしば夜を過ごされました。

人がイエス様と出会うのは自然の只中であることが多かったのです。

イエス様は湖のほとりに佇まれたり、

山や麦畑や空の鳥や野の花について話されたりしました。

イエス様は自然の教えを説明なさり、穀物や種の秘密を知っておられました。

 

私たちもまた水の畔や山や公園といった自然の中に休みや憩いを求めます。

私たちはそれらの中に全世界の創り主を見出しているでしょうか。

私たちは主のみわざを海や植物の美しさや風の音の中に認めているでしょうか。

神様が造られたこの世界の不思議な命の中に主の語りかけを聴き、

主が共におられることを感じ取っていますか。

きっとあなたはそれを見て聴いて不思議に思ったことがあるでしょう。

 

それでも、

聖書を通して主が個人的に語りかけてくださることを

あなたは必要としているのです。

子どもの素直な心をもつ者たちに対し、

御言葉を通して主は御自分を啓示なさいます。

主はイエス様においてその十字架を通して語りかけられ、

罪人たちに恵みを宣教なさいます。

イエス様が埋葬されたはずの墓が

三日目には空になっていたことが証しているように、

イエス様が死に勝って復活なさったことを主は語っておられます。

 

(祈り)主なる神様が語られる時、私はそれを聴き取る者でありたいです。

聴く耳と理解して受け入れる心とをどうか私にお与えください。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」19

2025年12月5日金曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」21章11節 「神様は自然の中で語りかけられる」

「神様は自然の中で語りかけられる」

また複数の大地震があり、あちこちに飢饉や疫病が起り、

いろいろと恐ろしいことや天からの凄まじいしるしがあるでしょう。 

(「ルカによる福音書」2111節)

 

御自分の本当のお姿と全能さとを人々が公に認めるようにするために、

神様は人間が見て驚愕を覚えるようなやりかたで語られることがあります。


人々が福音に対して心を閉ざす場合に、

神様は彼らが逃げられないようなやりかたで彼らに語りかけられるのです。


神様の御声は自然の力の中に響き渡っています。

万物は神様の御意志に服従しています。


このことは、神様の子どもたちにとっては益となり、

神様に敵対する者たちにとっては恐怖をもたらします。

 

神様のお許しの下に自然の諸力が揺り動かされる時、自然界は震撼します。


地震はひどい破壊をもたらし、

火山の噴火は地球全体の大気圏に影響を与える場合があります。

洪水は川岸やデルタ地帯を消滅させます。

大嵐は土地を広範囲にわたって荒廃させます。

干ばつは深刻な飢饉を引き起こします。

新型の病気は今も子どもや大人の命を奪っています。

すべてこれらの出来事には神様からの警告の声が反響しています。

それは、人々が罪を悔いて主を信じるようになるようにと招く声です。

 

今まで挙げた例や他の恐ろしい出来事は

「恵みの時」が短いことや「世の終わり」が速やかに到来することを

私たちに教えてくれます。

ですから、福音のうちに神様の救いの御声を聴きましょう。


キリストにあって神様は、全世界を御自分と和解させてくださり、

御自分で用意なさったこの和解を私たちが受け入れるようにと

願い続けておられます。

ですから、どうか主イエス様を、

イエス様を通していただける罪の赦し、命、救いを受け入れてください。

 

(祈り)隠れておられる神様、

あなたは多くのやりかたで私たちに語りかけておられます。

あなたの御許には罪の赦しが満ち溢れています。

それは、皆があなたを畏れ敬い信じるようになるためです。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」212533

2025年11月28日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」18章21節より「赦しなさい」

「赦しなさい」

主よ、

兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度赦さねばなりませんか。

七度までですか。

(「マタイによる福音書」1821節より)

 

罪深い者として私たちは

日々イエス様の救いの御業に守りを求めて逃げ込みます。

そして、憐れみ深い神様は

毎日イエス様のゆえに私たちの罪を赦してくださいます。

 

隣り人が私たちに対して罪を犯す時、

私たちは心からその人を赦しているでしょうか。


「赦す」と口ではよく言うものの、

実際には赦していないことがあります。


私たちは隣り人の罪を覚えていて、

さらにはそれについて他の人にも話しさえします。


例えば、再び喧嘩になると今までの喧嘩の内容も全部蒸し返されます。


人間とはそういうものです。


私たちは他の人の罪をしつこく覚えているくせに、

自分の罪はすっかり忘れてしまうのです。

 

ペテロは「自分は十分憐れみ深い」と考えていたことでしょう。

七回までも相手の罪を赦すことにしたからです。


当時の理解によれば、三回も罪を赦せば十分であるとされていました。


イエス様のお答えにある「77度」(あるいは770倍)は

「絶えざる罪の赦し」を意味しています。

この罪の赦しには制限も条件もありません。

まさしくこのように神様は罪を赦してくださったし、赦してくださるのです。


このことは私たちを慰めると同時に恥じ入らせもします。

私たちも同じように行うべきだからです。


また、私たちの隣り人も私たちの犯した罪を赦さなければならないのであり、

その量たるや、

私たちが赦すべき隣り人の犯した罪の量と同じくらいか、

あるいはおそらくそれ以上にのぼることでしょう。

 

(祈り)神様、

恵みの王座の御前で私たちがあなたに近づくことが許されていることを

あなたに感謝します。

また、あなたは罪の赦しを豊かに与えてくださいます。

そのことについても感謝します。

私たちに対して罪を犯した者たちを

私たちが心から赦すことができるように

どうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「コロサイの信徒への手紙」31217

2025年11月17日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」5章46節「もっと愛しなさい」

「もっと愛しなさい」 

あなたがたを愛する者たちをあなたがたが愛したとしても、

なんの報いがありましょうか。

取税人たちもそれと同じことをしているではないですか。 

(「マタイによる福音書」546節)

 

キリスト信仰者はすべてに関して世の子らよりも多くのよい行いをし、

またよりよい生きかたをしなければならないのでしょうか。

キリストを信じていない人が

「自分はキリスト教徒と同じようによい人間である」と言い切る場合に、

むしろキリスト信仰者のほうにこそ

反省すべき課題があるということになるのでしょうか。

 

救い主は御言葉を通してまさにこのことに言及しておられるのです。

もしも私たちが自分らを愛してくれる人々だけを愛するのなら、

私たちのその愛は「交換し合う商品」のようなものではありませんか。

「私はあなたに、そしてあなたは私にあげます。これでおあいこですね」

といった具合にです。

しかし、これは愛の見せかけを装った利己主義にすぎません。

 

キリスト信仰者の愛は、

神様の御子が私たちのために死んでくださった十字架から、

その力を得ています。

神様はその独り子をお与えになるほど、

この惨めな世を深く愛してくださいました。

しかも、人間のほうからのお返しの愛を受けることがなかったのです。

ここにキリスト教の愛の模範と力があります。

あなたの愛の行いに対して、

相手からは何の報いも見返りも期待するべきではありません。

感謝されることさえ期待するべきではないのです。

それゆえ、

私たちは神様の御許から真っ先に溢れてくる愛の源泉のすぐ近くに

常に留まっている必要があります。

 

(祈り)

愛そのものなる主よ、

あなたは十字架で罪人たちのために死んでくださいました。

愛する主よ、

あなたは天の御国の救いそのものです。

愛する主よ、

あなたはこの救いを他の全ての人々にも整えてくださいました。

愛なる主よ、

私は自分自身を永遠にあなたにささげます。

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」13

2025年11月13日木曜日

「力なき者に力を」「詩篇」36篇8節「このお方の守りの中で」

「このお方の守りの中で」

神様、あなたの憐れみはいかに尊いことでしょう。

人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得ます。

(「詩篇」368節)

 

私たちは不平を言うのに慣れすぎています。

感謝の心を持って一日を過ごすのは稀です。

自分に何が欠けているかばかりを考えて、

毎日いただいている恵みと祝福のありがたみを忘れています。

心の安らぎのない時には、

神様が私たちに必要な日用の糧のすべてを満たしてくださっていることを

思い起こしません。

イエス様が十字架の死によって

私たちを罪と死からあがなってくださったことも忘れています。

 

日々、私たちは罪の赦しを受け取ることが許されており、

恐れを抱かずに、天の御父様の御前でゆったりくつろいでよいのです。

 

神様は私たちを御自分の翼のかげに覆い隠されることで毎日守っておられます。

このことについて私たちは感謝するべきです。

 

せわしないこの世で、毎時、毎瞬、私たちは危険にさらされ続けています。

たとえ朝に家を出る時には健康であった場合でも、

その同じ夜には体が不自由になっていたり、

あるいは死んでしまったりするかもしれないことを

私たちは知る由もないからです。

 

私たちは神様に完全に依存して生きています。

私たちはこのお方を信頼していますか。

御自身の愛する御子のゆえに、

私たちは「このお方のもの」とされています。

このお方は私たちを

御子の尊い血によって買い取られた者として扱っておられます。

神様は私たちのことをこれまでも実によく面倒を見てこられたのですから、

終わりまで私たちの世話をしてくださることでしょう。

 

神様のお許しがないままに私たちの上に起こる出来事は何もありません。

神様は御自分を愛する者たちと共に働いて

万事を彼らの益となるようにしてくださるのです

(「ローマの信徒への手紙」828節より)。

 

(祈り)

私の魂よ、主に感謝しなさい。

私の内なるすべてのものよ、その聖なる御名に感謝しなさい。

私の魂よ、主に感謝しなさい。

そのすべての善き御業を忘れてはいけません。

主はあなたのすべての不義を赦し、

あなたのすべての病を癒してくださるのです。

(「詩篇」10313節)

(関連聖句)「詩篇」91