2012年2月29日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇118篇21節

 
私はあなたに感謝します。
あなたは私に答えて、
私の救いとなってくださったからです。
(「詩篇」11821節)
 
  
この歌詞は大きな喜びにみちています。
愛にあふれる神様であられるあなたが、
思いもよらない方法で、
また友に接するように、
私たちを支配してくださっているのは、
驚くべきことです。
 
あなたは私たちをへりくだらせる時に、
私たちを持ち上げてくださいます。
 
あなたは私たちを罪人にする時に、
私たちを義としてくださいます。
 
あなたは私たちが負ける時に、
私たちに勝利をあたえてくださいます。
 
あなたは私たちが苦境に立たされるのを許される時に、
私たちを慰めてくださいます。
 
あなたは私たちが嘆くようになさる時に、
私たちに喜びを与えてくださいます。
 
あなたは私たちが苦しみを耐えている時に、
私たちを強められます。
 
あなたは私たちに窮乏を与えられる時に、
私たちを豊かになさいます。
 
あなたは私たちを僕になさる時に、
私たちを主人にしてくださいます。
 
あなたはこれらに加えて
幾多の同様な奇跡を行ってくださっています。
それが、この聖書の箇所に含まれています。
そして、キリスト教会において、
「私はあなたに感謝します。
あなたは私を懲らしめ、
また助けてくださいましたから」、
という短い一節によって賛美されています。
  

2012年2月27日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネの第一の手紙4章16節より

 
神様は愛です。
そして、愛にとどまる人は神様にとどまり、
神様はその人にとどまってくださいます。
(「ヨハネの第一の手紙」416節より)
 
  
この御言葉を読んで、
「信仰だけではなく、愛もまた、私たちを義とするのではないか」、
と考える人もでてくるかもしれません。
しかし、使徒はここで、
「どのようにして私たちは神様の御前で義とされ、
神様の恵みにあずかるのか」、
とか、
「神様が私たちにキリストを通して与えてくださっている愛を、
どのようにして私たちは把握できるのか」、
といったことについて教えているのではありません。
それらは、信仰を通してのみ実現するものです。
使徒もこのすぐ前の箇所で、
「イエス様が神様の御子であることを告白する人のうちには、
神様がとどまってくださり、その人も神様のうちにとどまる」、
と言っている通りです(「ヨハネの第一の手紙」415節)。
使徒はここで、
私たちクリスチャンが互いに熱心に愛し合うように、
勧告しています。
愛を絵で表現したいなら、
神様御自身を描かなければならないでしょう。
使徒は神様と愛について、ふさわしいイメージを提供しています。
その目的は、
このすばらしいイメージを通して、
私たちを神様のみもとへとひきよせ、
私たちが互いに愛するよう鍛錬し、
嫉妬や怒りや喧嘩を避けるようになるためです。
  

2012年2月23日木曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネの第一の手紙4章16節より

 
神様は愛です。
そして、愛にとどまる者は神様にとどまり、
神様はその人にとどまってくださいます。
(「ヨハネの第一の手紙」416節より)
  
 
「神様は愛そのものである」と使徒ヨハネは言います。
もしもこれが本当だとしたら、
「愛にとどまる者は神様にとどまり、
神様はその人にとどまってくださる」
ことになるにちがいありません。
そういうわけですから、
愛を些細なこととはみなさないようにしなさい。
愛は神様御自身なのです。
そして、神様よりも高くて強いものは何もないのです。
パウロもまた力の限り愛を賛美し、それについて書いています
(「コリントの信徒への第一の手紙」13章)。
それにしても、
「神様は愛です」という御言葉ほどすばらしい言葉は他にありません。
神様は私たちの目の前で
愛を最高に愛らしく好ましい色彩によって描いておられます。
そして神様は、私たちが、
「心から人が神様と隣り人を愛するようになるときに、
その愛がどれほどすばらしいか」を考え、
そのような愛を追い求めるよう勧めておられます。
もしも使徒が
「愛は大きくて高価な宝物である」とか
「愛は壮大な王国である」とか
言うとしたら、
いったい誰がそのような愛を偉大なものと思わず、
求めもせずにいられましょうか?
愛は、この世の金銭や物や権力や知恵や義とは違います。
それは唯一の、永遠なる、
言葉では言い表せない善性であり、
あらゆるもののうちで最高の宝です。
そして、その愛の名は神様御自身です。
この神様からすべては発し存在するようになるのであり、
すべてはその同じ愛によって維持されています。
さらに、愛にとどまる人は神様にとどまり、
神様はその人にとどまってくださいます。
 

2012年2月20日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書3章8節

  
風は思いのままに吹きます。
そして、あなたはその音を聞くけれども、
それがどこから来てどこへ行くのか知りません。
御霊から生まれた者は皆、このような存在です。
(「ヨハネによる福音書」38節)
   
  
人はこの教えに勇気付けられて、
罪や試みに苦しめられているときにもこう言えます、
「私は確かに罪を通して腐敗したこの世の子だし、
死の宣告を受けた者でさえあるが、
私の主イエス・キリストが
私の罪を十字架に運ばれ、死に勝ち、
私を天のお父様と仲直りさせてくださったこと
知っており、また信じている。
このことのために私は洗礼を受けており、
私には永遠の命が約束されている。
それゆえ、私は勇気をもって神様に頼りたいと思う」。
このように新生した人間は、
十字架につけられたキリストへの信仰を通して、
罪や死や悪魔や世やあらゆる不幸を追い払います。
さらに、このような人は、
よい行いをし、神様に対し従順で、
召された職務を熱心かつ忠実に遂行し、
隣り人を愛し、もてる力に応じて助け、彼らに奉仕します。
真の信仰にはそのような行いが伴うものです。
(中略)
真摯なクリスチャンは皆、
聖霊様のそよぎに心を向け、それに聴き入り、
キリストが十字架で私たちの罪のために死んでくださったことを
信じます。
そして、そのような信仰を通して神様の子になり、
永遠の命を継ぐ者になるのです。
 

2012年2月15日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙11章33節

 
ああ、神様の富と知恵と知識の深さよ!
この方の裁きは窮めがたく、
この方の道は測りがたいものです。
(「ローマの信徒への手紙」1133節)
  
 
神様のお考えとご決定は非常な高みにあるので、
その幅広さや高さは
あらゆる人間と被造物世界の理解を超えるものです。
神様は御自分の善性をあふれるように与えて、
まったくの恵みと憐れみから、
神様には本来受け入れていただけるはずのない、
罪に閉じ込められているひどく苦しみ惨めな人、
つまり、
「自分などは真理を前にして
(神様の)永遠の怒りを受けて滅びるのが当然だ」、
と告白する人を選ばれました。
それは、彼らが、
「神様がどのような神性や御心をおもちのお方か」、
を知るためでした。
神様は御子を通して、
信じる人々に
永遠の命と救いを与えることを望んでおられます。
キリストを信じる人々は、
神様の真の御心とお考えの
底知れぬ深遠を目にする機会があるでしょう。
しかし、彼らはそれを、
鏡に映して見るようにして、
啓示された御言葉を通して、
信仰において把握することができるだけであり、
それ以上のことは、
自分の考えによっては決して理解できないのです。

2012年2月13日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨエル書3章5節

  
主の御名を呼ぶ者は皆、救われます。
(「ヨエル書」35節)
  
 
私たちはこの世での人生の間、
主を面と向かって見ることができません。
それゆえに、
主の「御名」と預言者は言っているのです。
私たちはこの世では「信仰の王国」の中で活きています。
神様の御名とは神様の御言葉のことです。
それを私たちは聴くのであり、
そこに私たちの富があります。
死ぬ時までは、
これを超えるものを何も私たちはもっていません。
しかし、死んだ後で、
私たちは主を面と向かって見ることになります。
「皆」という言葉に特に注目しましょう。
神様は、御自分を呼び求める者に対して、
自由な御意志により無償で約束してくださった救いから、
誰一人除外なさらないのです。
このことを知っておくのは、
御言葉の根拠なしに、
御言葉に反して吹聴されている
「恵みに関する選び」という、
あの危険な考え[1]を斥けるためにも大切です。
神様は私たちに御言葉を送ってくださるので、
誰あろう私たちこそが
恵みによって選ばれているのです。
私たちは、
神様がはっきりくださっている約束に信頼し、
救いを求めて神様の御名を呼び、
自分は救われる、と確信をもつべきです。
「私たちの救いの神様、
あなたの御名の栄光のゆえに、
私たちを助けてください。
あなたの御名のゆえに、
私たちを救ってください、
私たちの罪を赦してください」
(「詩篇」799節)。
 

[1] 人間的な基準によって、ある人は神様の恵みにあずかっているが、ある人はあずかっていない、と判別する考え方をさしているものと思われます(訳者注)。

2012年2月10日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨエル書3章5節

 
主の御名を呼ぶ者は皆、救われます。
(「ヨエル書」35節)
  
 
この御言葉に、私たちの救いのすべてはかかっています。
そのように素直に理解するべきです。
「救われる」と預言者ヨエルは言います。
それは、人が罪や死や地獄からあがないだされることです。
人はこうして、
この世での惨めな人生を通って、永遠の命へと入って行きます。
それはひとえに聖霊様のおかげです。
預言者ヨエルによれば、
聖霊様はあらゆる肉の上に注ぎだされており、
人が主の御名を呼ぶようにと働きかけてくださいます。
これはパウロも等しく強調したことです。
すなわち、
人は、律法の行いなしに、信仰を通してのみ義とされるのです。
なぜなら、
「救いを求めて主の御名を呼ぶこと」は「信じること」と同じだからです
(「ローマの信徒への手紙」10章)。
まず第一に、
福音を宣教する人々を派遣しなければなりません。
この派遣によって福音が他の人々に聞かれるようになります。
福音を聴くことによって、信仰が与えられます。
信仰は、救いを求めて主の御名を呼ぶ心を起こします。
そして、この呼び声は救いをもたらします。
キリストの王国は、
神様の御言葉に基づく信仰の王国であり、
そこで、私たちは、
自分の力によってではなく、
私たちがまだ敵であったときから
私たちを愛してくださっている
神様の「自由な恵み」によって、
救われるのです。
また、神様は、
私たちの心に聖霊様を送って、
私たちが救いを求めて御名を呼ぶように
働きかけてくださいます。
まさにそれゆえに、
私たちは救われるようになるのです。

2012年2月8日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙15章1節


しかし、 
私たち力のある者たちは、
力のない者たちの弱さを担うべきなのであり、
自分自身を喜ばせるべきではありません。
(「ローマの信徒への手紙」151節)
 
  
私たちは他人の欠点をいやいやながら耐えています。
そればかりか、
隣人に完全であることを要求しさえします。
それで、
他の人々からすっかり距離を置くことで平和と休息を得、
あらゆるいやなことから自由になろうとする人もでてきます。
これを実行できる力をもっている人の多くは、
隣人を退け、そうすることを自慢し、
「義のゆえに私はそうするのだ」、
などと言い放ちさえします。
その人は、
「悪人たちとではなく、
自分と同じような義なるよい人たちとだけ付き合いたい」、
と思っているのです。
このように振舞うのは、
自分を他の人々よりも優れているとみなしている者たち、
自分は正直な生活を送っており
(他の人々)より多くの恵みを受けていると思いこんでいる者たちです。
彼らは、
自分たちと異なるすべての人々を軽蔑し裁く一方で、
自分たちのことは宝石のようにみなすのです。

2012年2月6日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書10章14節

 
私はよい羊飼いです。
私は私の羊たちを知っており、
私の羊たちは私を知っています。
(「ヨハネによる福音書」1014節)
  
   
この羊飼いを知っているなら、
あなたは悪魔や死から守られてこう言うことができます、
  
「よくないことに、
私は神様の御命令を守らなかった。
でも、私は愛する主キリストの羽の下へと避難して、
この方が私の愛する羊飼いであり、
ビショップであり、
神様の御前で仲介者となり、
私をその無垢さで覆い守り、
私に義を賜ることを信じる。
なぜなら、
キリストは私が守れなかった律法を守ってくださり、
さらに私の行った罪という負債を
その血によってすっかり払ってくださったからだ。
キリストはその命を御自分の羊のためにささげられた。
ペテロもこう言っている、
「義なる方が悪人たちのために苦しんでくださった」
(「ペテロの第一の手紙」318節)」。
     
こうしてあなたは守られ、
悪魔もその地獄もあなたの平和をかき乱すことはできません。
もしもあなたが羊の群れと共にこの羊飼いを信じるなら、
忠実な羊飼いはあなたを置き去りにはせず、
あなたを助け守り支えてくださいます。
  


2012年2月3日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書16章8~9節

 
この方(慰め主なる聖霊様)が来られると、
世に対して罪と義と裁きについて明示なさいます。
「罪について」といったのは、
世は私を信じないからです。
(「ヨハネによる福音書」1689節)
 
  
いと高きお方が罪とみなされることを、私たちも罪と認めましょう。
ここで言われているように、不信仰は罪です。
ところで、「キリストを信じる」とはどういうことでしょうか?
それは、
「キリストが神様である」とか、
「キリストは天国で父なる神様と共に同じ力によって支配している」
ということを信じることだけではありません。
この程度なら他の多くの人たちも信じています。
キリストへの信仰の核心は、
「恵み深い神様なるキリストが、私の罪を取り去り、
私と父なる神様を仲直りさせてくださったおかげで、
私の罪はキリストに属し、
キリストの義は私に属するようになっている」、
と信じることです。
ここで「交換」が生じています。
世のすべての罪はキリストの上にあり、
キリストにおける父なる神様の義は、
私たちのすべての罪を飲み込みたいのです。
そして、この信仰こそが、
私をきよめて御父様に喜んで受け入れていただける存在にします。
たとえ義とされた信仰者の中に罪が残っていたとしても、
それらの罪は彼らの罪とはみなされず、
それらが彼らを滅ぼすことはできません。

2012年2月1日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヘブライの信徒への手紙12章6節

 
主は、
御自分が愛する者を鍛錬し、
御自分が受け入れる者を鞭打たれます。
(「ヘブライの信徒への手紙」126節)
 
  
一見すると神様は
クリスチャンにもクリスチャンではない人にも同じように接しておられ、
クリスチャンにはより悪いことが起こるようになさる
とさえ感じられることがあります。
 
しかし、神様は
クリスチャンを身内のものとして、
神をないがしろにする者を召使として
扱っておられるのです。
父親は息子を懲らしめることもありますが、
同時に息子にいつか継がせることになる宝を取り集めておくものです。
悪い不従順な召使は懲らしめを逃れることができますが、
そのかわり家から追い出されて、何も継がせてはもらえません。
  
まさにこうした理由から、
神様は、
神をないがしろにする者たちが何の妨げもなくやりたい放題にさせ、
御自分の愛する子供たちがこの世で辛く苦しい目にあうようになさるのだ
としか、私には思えません。