2017年3月24日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「箴言」15章13~15節(その3)

喜ぶ心は顔を明るくします。
しかし、心に憂いがあると、霊は打ちのめされます。
聡明な者の心は知識を求めますが、
愚か者の口は愚昧なことを糧とします。
惨めな者にとっては毎日が辛い日々ですが、
愉快な心はあたかも永遠に続く祝宴のようです。
(「箴言」151315節)(その3)
  

主よ、
ごらんのように、私は空っぽの器のようです。
どうかこの器を満たしてください!

私は信仰が弱い者です。
どうか私を強めてください!

私の愛は冷え切っています。
どうか私の心を燃え上がらせてください!

私の愛が隣り人に向かって(勢いよく)流れ出ていくようにしてください。

私には強くて堅い信仰はありません。
時には疑い、あなたに完全に頼り切ることができません。

主よ、私を助けてください。
私の信仰を増してください。
私があなたに信頼できるようになさってください。

私は貧しく、あなたは豊かな方です。
あなたは惨めな人々を憐れむために来てくださいました。
私は罪人で、あなたは義なる方です。
私は自分自身の罪に苦しめられています。
あなたのうちには豊かな義があります。
私はあなたの御許に留まります。
私はあなたに与えるべき立場ではなく、
あなたからいただく立場にあるからです。

アーメン。

2017年3月17日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「箴言」15章13~15節(その2)

喜ぶ心は顔を明るくします。
しかし、心に憂いがあると、
霊は打ちのめされます。
聡明な者の心は知識を求めますが、
愚か者の口は愚昧なことを糧とします。
惨めな者にとっては毎日が辛い日々ですが、
愉快な心はあたかも永遠に続く祝宴のようです。
(「箴言」151315節)(その2)
 
キリスト信仰者ならではの知恵と教えは、
「自分の身には何も悪いことが起こりようがない」
という確固とした勇気をもたせてくれます。(中略)
なぜなら、キリスト信仰者には御言葉があるからです。
それに加えて、
彼らは心からの罪の告白をした時に牧師を通して
神様から罪の赦しを宣言していただけるからです。
また、
彼らには洗礼があり、罪の赦しがあり、永遠の命の約束があるからです。

キリスト信仰者が信仰と愛の中に留まるためには、
遭遇する様々な試練に対峙するために、
恐れを知らない大いなる勇気が(前提条件として)要求されます。
「力強い愛」という名称ほど
このような勇気にふさわしい呼び名が他にありうるでしょうか。
愛は他のあらゆることに対して優位に立つからです。


心からおびえや苦痛を追い払い、
ついには死さえもいとわず、
それどころか、
死を「心から歓迎されるべき客」として受け入れるような勇気が、
私は自分に欲しいです。

2017年3月10日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「箴言」15章13~15節(その1)

喜ぶ心は顔を明るくします。
しかし、心に憂いがあると、霊は打ちのめされます。
聡明な者の心は知識を求めますが、
愚か者の口は愚昧なことを糧とします。
惨めな者にとっては毎日が辛い日々ですが、
愉快な心はあたかも永遠に続く祝宴のようです。
(「箴言」151315節)(その1)
 

この世的な快活さは、頼りにしている蓄えが手元にある間だけしかもちません。
それゆえ、
「財産は快活にする」(ドイツ語で ”Gut macht Mut.”)などと言われたりします。
つまり、
この快活さはマモン(財産)とこの世の権力に基づいている、ということです。
この快活さは硬直した尊大さをもっており、世俗的な事柄を鼻にかけます。
しかし、キリスト信仰者は神様のみを信頼します。
キリスト信仰者には、おひとり神様のほかには
「貯蓄」も「手持ちの現金」もないからです。
神様に依り頼みつつ、
キリスト信仰者はあらゆる悪に雄々しく立ち向かい、
この世のものとはまったく異なる心と快活さを手に入れます。

もうだめだと思えるような最悪の危険の中にいる時こそ、
キリスト信仰者は勇敢であらねばならない、
ということを私たちは学ぶべきです。
武器や力に頼って大胆になり勇敢ぶるのは愚かしいことです。
それとは逆に、(武器という)確実に頼りになる防御がなくなれば、
希望もなくしてしまうからです。
ところが、キリスト信仰者は、
危険が迫る時には、毅然として希望をもちつづけるよう、
またそれとは逆に、
万事うまく行っている時には、高慢にならず畏れの心をもつように、
と命じられています。