9月1日
イエス様は彼に言われました、「もしもあなたが完全になりたいのならば、行ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは宝を天にもつことになるでしょう」。
(「マタイによる福音書」19章21節より)
この若者はパリサイ人たちの間で気持ちよく過ごせたことでしょう。彼らもまた聖く正しい存在そのものたろうとしたからです。しかし、キリストの御許では偽善者は誰も歓迎されません。キリストは貧しく弱く痛みを負った罪人、誇るべきものが何もないような人々を捜しておられるからです。それとは違うタイプの「聖人」をキリストは優しい言葉で受け入れたりせず、逆に彼らを恥じ入らせ、彼らが罪人であることを示されます、ちょうどキリストがこの若者からその自負すべき美点をすべて取り去られたように。
9月2日
(「ヨハネによる福音書」20章21(後半)、23節)
私共説教者はキリストの職務にあって、「罪を叱責し、罪を赦す」ことを通して主なる神様をお助けしています。罪を叱責しない説教者は、地獄を開き天国を閉じています。同様なことは、罪を赦さない説教者も行っているのです。それゆえ、「罪を叱責し、罪を赦す」というこの両面を説教しなければなりません。
9月3日
すべてはこの方から、この方を通して、この方へと存在するのです。この方に栄光が永遠にありますように、アーメン。
(「ローマの信徒への手紙」11章36節)
父と子と聖霊がどのようにして唯一の神様でありうるか、などと私たちは疑ってはなりません。それは頭では決して理解できないことがらだからです。ですから、神様が御言葉の中で話され証されていることで満足することにしましょう。私たちは三つの「ペルソナ」(「位格」御父、御子、御霊のこと)すべてが、すなわち全神性が惨めな人間たちを罪や死や悪魔の支配から解放して、神様の御国へ、義へ、永遠の命へと助けようとされているのを目にします。そして、そのとき、神様の三位一体性が、神様の御前で私たちが恐れることなく喜びの心を持たせてくれるような深い慰めに満ちた奥義であることがわかります。
9月4日
私はこの世代を何にたとえましょうか。それは、広場に座って「私たちはあなたたちのために笛を吹いたのにあなたたちは踊ってくれなかった、私たちは死を嘆く歌を歌ったのに、あなたたちは胸を打ちたたいて悲しんでくれなかった」、と言いながら互いに叫び交わしている子供たちに似ています。
(「マタイによる福音書」11章16~17節)
私たちが律法を説教しても福音を説教しても、この世は手の施しようがありません。苛立ちに満ちたこの世を喜ばせたり悲しませたりすることはできません。この世は自分の罪を認めようとはせず、慰めを受け入れようともしないからです。この世は盲目でもありたくないし、目が見えるようになろうともしないのです。
9月5日
十字架の言葉は、滅ぶ者たちにとっては愚かですが、救われる私たちにとっては神様の力です。「私は賢い者たちの賢さを滅ぼし理解のある者たちの理解をなくするでしょう」、と書いてある通りです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」1章18~19節)
この世は、キリストについての説教を除けば、ほかのどんな説教でも受け入れます。そのわけは、キリストについての説教はどこで宣べ伝えられたとしても、それが唯一の真理であることを認めるように要求するからです。キリストについての説教は、「賢者は愚か者であり、聖人は罪人であり、金持ちは破滅した者である」、と宣言します。それで彼らは驚き怪しみ、怒り狂うのです。