2011年3月31日木曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」9月1日~5日

    
9月1日
   
イエス様は彼に言われまし「もしもあなたが完全になりたのならば、行ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは宝を天にもつことになるでしょう」
マタイによる福音書1921節より)
 
この若者はパリサイ人たちの間で気持ちよく過ごせたことしょ彼らもまた聖く正しい存在そのものたろうとしたからで。しかしキリストの御許では偽善者は誰も歓迎されません。キリストは貧しく弱く痛みを負った罪人、誇るべきものが何もないような人々を捜しておられるからで。それとは違うタイプの「聖人をキリストは優しい言葉受け入れたりせず、逆に彼らを恥じ入らせ、彼らが罪人であることを示されます、ちょうどキリストがこの若者からその自負すべき美点すべて取り去られたように。
  
  
 
92
 
お父様が私を遣わされたように、もあなたがたを遣わします。あなたがたが罪を赦す人たちは罪が赦されており[1]、あなたがたが罪を赦さない人たちは罪が赦されていません[2]
ヨハネによる福音書2021(後半)、23節)

私共説教者はキリストの職務にあって、「罪を叱責し罪を赦すことを通して主なる神様をお助けしています。罪を叱責しない説教者は、地獄を開き天国を閉じています。同様なことは、罪を赦さない説教者も行っているので。それゆえ、「罪を叱責し罪を赦すというこの両を説教しなければなりません。
 
 
 
93
  
すべてはこの方から、この方を通して、この方へと存在するので。この方に栄光が永遠にありますように、アーメン。
ローマの信徒への手紙1136節)
  
父と子と聖霊がどのようにして唯一の神様でありうるか、などと私たちは疑ってはなりません。それは頭では決して理解できないことがらだからです。ですから、神様が御言葉の中で話され証されていること満足することにしましょう私たちは三つのペルソナ」(「位格」御父、御子、御霊のこと)すべてすなわち全神性が惨めな人間たちを罪や死や悪魔の支配から解放して神様の国へ義へ永遠の命へと助けようとされているのを目にします。そして、そのとき、神の三位一体性、神様の御前で私たち恐れることなく喜びの心を持たせてくれるような深い慰めに満ちた奥義あることがわかります
 
  
  
94
 
私はこの世代を何にたとえましょうか。それは、広場に座って「私たちはあなたたちのために笛を吹いたのにあなたたちは踊ってくれなかった、私たちは死を嘆く歌を歌ったのに、あなたたちは胸を打ちたたいて悲しんでくれなかったと言いながら互いに叫び交わしている子供たちに似ています
マタイによる福音書111617節)
  
私たちが律法を説教しても福音を説教してもこの世は手の施しようがありません。苛立ちに満ちたこの世を喜ばせたり悲しませたりすることはできません。この世は自分の罪を認めようとはせず、慰めを受け入れようとしないからです。この世は盲目でもありたくないし、目が見えるようになろうしないのです
  
  
 
95
  
十字架の言葉は、滅ぶ者たちにとっては愚かでが、救われる私たちにとっては神様の力で。「私は賢い者たちの賢さを滅ぼし理解のある者たちの理解をなくするでしょう」と書いてある通りで
コリントの信徒への第の手紙11819節)
 
この世は、キリストについての説教を除けば、ほかのどんな説教でも受け入れます。そのわけは、キリストについての説教はどこで宣べ伝えられたとしてもそれが唯一の真理であることを認めるように要求するからで。キリストについての説教は、「賢者愚か者であり、聖人罪人であり、金持ちは破滅した者である」、と宣言します。それで彼らは驚き怪しみ、怒り狂うので
 

[1] 完了形。
[2] 完了形。

2011年3月28日月曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」8月26日~31日

  
826

あなたたちは高ぶった思いを抱かず、低い立場にある人たちと共に交りをもちなさい。自分が思慮深いなどと思ってはなりません
ローマの信徒への手紙1216節より)

当然ながらこの世ではいろいろな差異があります。ある人は高い地位へと召されある人は低い地位へと召されます「黄ではありえず、でもありえません。しかしこのような地位の差異がいたるところにある中で、個々人の態度は同じでなければなりません。いろいろな差異がある中で、神様もまた低い立場にある人にも高い立場にある人にも同じように御霊を与えて、働かれています。中略高い立場に就く人がいることは不可欠であり、不幸を招くものではありません。しかし、高い立場を欲望、それに心を向け、それを誇示すること、高い立場にない人たちを犠牲にして奢り高ぶることは、異邦人的な振る舞いで



827

もしもあなたたちがある人たちの罪を赦すなら[1]、それらの罪は彼らに対して赦されているので[2]
ヨハネによる福音書2023節より)

私たちは告解(ラテン語でabsolutio)について、ローマ教皇の神学者たちのようには教えません。彼ら告解のためには罪を列挙しなければならず、またそれによって罪が赦され告解を受けるに値する者になる教えます。彼らはこう言います、「あなたの悔悛と告解のゆえに、私はあなたがの罪から解放されたことを宣言します」。これはまちがいです。福音の慰めをよりよく聴き取るようにし、そうして罪の赦しを強く信じるように、告解を正しく用いなければなりません。



828

彼らをご覧になってイエス様は彼らに「あなたがたは行って自分自身を祭司たちに見せなさい」と言われました。すると、そこへ行く途中彼らは清くされました。彼らのうちの一人は、自分が癒されたのを知って、大きな声で神様を賛美しながら戻ってきました。そしてイエス様に感謝しつつその足元に顔を伏して拝みました。彼はサマリア人でた。
ルカによる福音書171416節)

私たちは、まず神様が善なるお方であることをはっきり信頼し信じ、人から感謝されないこと耐えて、感謝するときに、本物のクリスチャンなの。このようにクリスチャンの人生は善の中を(悪を通して)終わりまで歩むので。復讐を求めず、信仰や愛や希望の中で成長し、神様支配きと復讐委ねます。



829

見よ、神様は私の救いで
イザヤ書122節前半)

今や私には信頼しているお方がいます、すなわち、もう怒ってはおらず、あらゆる危険や悪から解放してくださる神様で



830

私は神様に信頼し、怯えません。主なる神様は私の力、私の歌であり、私のために救いとなってくださいました。
イザヤ書122節後半)

こういうものが良心の平和と休息で良心は神様とは仲直りできており、キリストは解放者、守護者であることを知っているからで。もしも私がいまだに恐れているとすれば、それは悪魔の誘惑か、私の中の古い人のせいで



831

互いに兄弟愛をもって優しく愛し合いなさい。互いに敬意をもって接することについて競いなさい。
ローマの信徒への手紙1210節)

友情のこもった兄弟愛に満ちた愛が、隣人に対してどんなことを耐え、寛容であろうとするか、母親の子供に対する自然な接し方から学びなさい。そのようにキリストはなさったし、クリスチャンにさえ見えず汚らしく頼りなく痛ましげな罪人である私たちに対して、今もなおなさっています。私たちが痛ましいほど弱っているにもかかわらず、キリストの愛は私たちをクリスチャンにしてくださっているので


[1] 接続法アオリスト。
[2] 受動態完了形。