8月26日
あなたたちは高ぶった思いを抱かずに、低い立場にある人たちと共に交りをもちなさい。自分が思慮深いなどと思ってはなりません。
(「ローマの信徒への手紙」12章16節より)
当然ながらこの世ではいろいろな差異があります。ある人は高い地位へと召され、ある人は低い地位へと召されます。皆が「黄金」ではありえず、皆が「藁」でもありえません。しかしこのような地位の差異がいたるところにある中で、個々人の態度は同じでなければなりません。いろいろな差異がある中で、神様もまた低い立場にある人にも高い立場にある人にも同じように御霊を与えて、働かれています。(中略)高い立場に就く人がいることは不可欠であり、不幸を招くものではありません。しかし、高い立場を欲望し、それに心を向け、それを誇示することや、高い立場にない人たちを犠牲にして奢り高ぶることは、異邦人的な振る舞いです。
8月27日
(「ヨハネによる福音書」20章23節より)
私たちは告解(ラテン語でabsolutio)について、ローマ教皇の神学者たちのようには教えません。彼らは、「告解のためには罪を列挙しなければならず、またそれによって罪が赦され告解を受けるに値する者になる」と教えます。彼らはこう言います、「あなたの悔悛と告解のゆえに、私はあなたがその罪から解放されたことを宣言します」。これはまちがいです。福音の慰めをよりよく聴き取るようにし、そうして罪の赦しを強く信じるように、告解を正しく用いなければなりません。
8月28日
彼らをご覧になって、イエス様は彼らに「あなたがたは行って自分自身を祭司たちに見せなさい」と言われました。すると、そこへ行く途中で彼らは清くされました。彼らのうちの一人は、自分が癒されたのを知って、大きな声で神様を賛美しながら戻ってきました。そしてイエス様に感謝しつつ、その足元に顔を伏して拝みました。彼はサマリア人でした。
(「ルカによる福音書」17章14~16節)
私たちは、まず神様が善なるお方であることをはっきり信頼して信じ、人から感謝されないことを耐えて、感謝するときに、本物のクリスチャンなのです。このようにクリスチャンの人生は善の中を(悪を通して)終わりまで歩むのです。復讐を求めず、信仰や愛や希望の中で成長し、神様に支配と裁きと復讐を委ねます。
8月29日
見よ、神様は私の救いです。
(「イザヤ書」12章2節前半)
今や私には信頼しているお方がいます、すなわち、もう怒ってはおらず、あらゆる危険や悪から解放してくださる神様です。
8月30日
私は神様に信頼し、怯えません。主なる神様は私の力、私の歌であり、私のために救いとなってくださいました。
(「イザヤ書」12章2節後半)
こういうものが良心の平和と休息です。良心は神様とは仲直りできており、キリストは解放者、守護者であることを知っているからです。もしも私がいまだに恐れているとすれば、それは悪魔の誘惑か、私の中の古い人のせいです。
8月31日
互いに兄弟愛をもって優しく愛し合いなさい。互いに敬意をもって接することについて競いなさい。
(「ローマの信徒への手紙」12章10節)
友情のこもった兄弟愛に満ちた愛が、隣人に対してどんなことを耐え、寛容であろうとするか、母親の子供に対する自然な接し方から学びなさい。そのようにキリストはなさったし、クリスチャンにさえ見えず、汚らしく、頼りなく、痛ましげな罪人である私たちに対して、今もなおなさっています。私たちが痛ましいほど弱っているにもかかわらず、キリストの愛は私たちをクリスチャンにしてくださっているのです。