2013年4月29日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 永遠の命の御言葉(ヨハネによる福音書6章68節)(その1)


 
永遠の命の御言葉(「ヨハネによる福音書」668節)(その1)
  

この世での命は、永遠の命のかけらです。


福音が私たちの時代に世界にひろめている光は、
私たちの主イエス・キリストのすばらしい再臨を保証する「しるし」です。
その光は、永遠の昼間と義の太陽に先立つ朝焼けのようなものです。
  
  
私たちの主なる神様は、すでにこの世での命にも、
すてきな贈り物を惜しみなく与えてくださっています。
すべてが完全になる永遠の命では、
いったいどんなことが起こるのでしょうか。
  
  
キリスト信仰者は、「この世での命」を、
目をつむってか、あるいは細目で眺めるべきです。
しかし、来るべき「永遠の命」のことは、
大きく目を開けて、輝く光のなかで見つめるべきです。
また、キリスト信仰者は、
この世では、「左手」だけで、
しかし、
天国の命では、「右手」で、
魂全体で、心を込めて、生きるべきです。
常にキリスト信仰者は、
天国の命を確信をもって待ち望まなければなりません。

2013年4月26日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 死は命への扉です(ヨハネによる福音書8章51節)(その2)


 
死は命への扉です(「ヨハネによる福音書」851節)(その2)

 
 
死に打ち勝つだけではなくて、決して死ななくなる、
という効き目がある薬を調合できる薬屋は、
すばらしい薬屋と言えるでしょう。
人は皆、死なねばなりません。
しかし、
心に神様の御言葉を保ち信じている人は死を見ることがない、
というのは大いなる奇跡です。
神様の御言葉は、
それを信仰により心に堅く納めておくならば、
死を永遠の命に変えるほど強力な薬なのです。


「私の御言葉を保つものは決して死ぬことがない」、
と主が言われているように、死は命のはじまりです。
目の前に命だけがあるとき、死を見ることがどうしてありえましょうか。
その時、夜は昼間のように澄みわたり、明るく輝いています。
始まろうとしている命の光と輝きは、
その時に存在しなくなる死よりもはるかに澄みわたり、
輝きに満ちているからです。


私たちのこの世での命は、「死ぬこと」にほかなりません。
もっとも私たちは、そのことをふだん考えもしないで生きています。
正しい視点からすれば、
私たちの命と死とは互いに遠く隔たっているわけではありません。
ベッドにもぐりこむ時、そこから再び起き上がれるか、私は知りません。
テーブルに座る時、そこから再び立ち上がれるか、私は知りません。
要するに私たちは、起きている時も寝ている時も、
死ぬ時と同様に、生きることに関しては不確かです。
ただ、習慣化していることは、
なじみが薄いもうひとつのこと(死と命)にくらべて、
それほど不思議には見えないだけです。
     
   
キリストを通して死は打ち勝たれ、全世界は無に等しくされました。
その結果今残っているのは「絵に描かれた死」だけですが、
それは矛先をへし折られているため、
キリスト信仰者を傷つけることはできません。
 
 

2013年4月24日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 死は命への扉です(ヨハネによる福音書8章51節)(その1)


 
死は命への扉です(「ヨハネによる福音書」851節)(その1)
  
 
私たちは死ななければならないし、死を苦しまなければなりません。
しかし、
神様の御言葉の中に留まる者は、死を知る必要がありません。
その人は、夢を見ているかのように、この世から離れていきます。
「私は死ぬ」ではなく、
「私は眠りに就かなければならない」
という言葉こそが似つかわしいように。
  
  
敵は私たちを死によっておびやかします。
しかし、
もしも敵にまともな理解力があるのならば、
敵は私たちを命によって脅すことでしょう。
なぜなら、
キリストが復活なさったため、
死は罪と死自身との終わりにすぎないものになっていることを、
私たちは知っており、それを誇りとし。喜んでいるからです。
  
  
神様の御前でキリストの御名と御言葉のゆえに死ぬのは、
尊くすばらしいことです。
なぜなら、
私たちはいつかは死ぬ身であり、
結局は罪のゆえに死ななければならないからです。
しかし、
もしも私たちがキリストの御言葉のゆえに死に、
御言葉を自由に告白するならば、
その時、
私たちはあらゆるうちでもっとも光栄な死をむかえることになります。

2013年4月22日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 苦難をとおして神様の御国の中へ(使徒の働き14章22節)(その2)



苦難をとおして神様の御国の中へ(「使徒の働き」1422節)(その2)
 
 
「敵は私の命を地に打ち砕きました」(「詩篇」1433節)。
要するに、敵は栄光をまとって生きており、
社会の上層部を独占して威張っています。
彼らはそうした外見にもとづき、
人々の見ている前でも目立つ上座にのぼります。
それゆえ、私は完全に屈服させられ、
人々の目には見捨てられ蔑まれた存在とならなければなりません。
なぜなら、こうした御言葉によって預言者は、
恵みとキリストの中に生きている人が
いかに取るに足りない存在に見えるか、
示そうとしているからです。
その人に敬意を払う者は誰もいません。
その人は皆の侮蔑の対象となり、
「役立たずの失格者」、
「人々がふつう行うあらゆることに関して危険極まりない人物」
というレッテルを貼られます。
このような目にまだあったことがなく、
その人の善い行い、言葉、決断、計画を
「無用の害悪だ」と嘲笑する敵がまだいない人は、
実はまだキリストの御許に来てはいません。
ただし、「自分自身」が自分の敵になって、
本来なら他の敵がその人に対してやるべきこと(侮蔑など)を、
自分に対して行う場合には、話は別です。
その時、人は、
自分のあらゆる善いわざ、言葉、仕事、生活、そして自分自身を
「役立たずの道化」とみなすでしょう。
そして、心から正直に、また徹底的に、
自分をそのような者としてとらえることでしょう。
  
 
この世の王国、つまり悪魔の王国は、違反と罪と永遠の滅びの王国です。
しかし、キリストの王国は、義と恵みと平和と永遠の命の王国です。
私たちはこの王国に、主イエス・キリストをとおして移されているのです。
  
   
あなたは、もしもキリスト信仰者でありたいと望むなら、
宮廷服に着替えなければなりません。
しかし、キリストは宮廷の臣下に「苦しみ」という服以外は賜りません。
  

2013年4月18日木曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 苦難をとおして神様の御国の中へ(使徒の働き14章22節)(その1)



栄光の希望

苦難をとおして神様の御国の中へ(「使徒の働き」1422節)(その1


正直なクリスチャンであろうと望む人は誰でも、
「苦難を経なければ、キリストをしることを学ぶようにはならない」
ということを覚えておかなければなりません。
  
  
「敵が私の魂を迫害する」と私は言いますが、その意味は、
私の敵が自分の知恵と義によって常に私に反抗してくる、
ということです。
これは、アベルにはカインがおり、イサクにはイシュマエルがおり、
ヤコブにはエサウがおり、キリストにはユダがいたことからわかります。
それぞれ後者は前者の魂と、魂に関わることがら、
すなわち真理と義において、反抗したのです。
なぜなら、傲慢な者たちは
自分の真理と義とが実は何の価値もないことを認めたくはないからです。
それゆえ、彼らは、
神様の真理と義のなかでのみ生きている「真に義なる人々」を迫害するのです。


聖書のあちらこちらで示されているように、
神様が私たち人間を扱う自然なやり方は次のようなものです。
神様はまず人をおびやかし、こわがらせ、その心をくじけさせます。
そのあとで、神様は人を慰め、その心を勇気づけます。
神様はまず肉を殺し、それからふたたび霊を活きたものとなさるのです。
神様はふつうこのようになさいます。
神様は、御自分が引き上げようと望む人を、まず地にたたきつけます。
御自分が活きた者にしようと望む人を、まず殺します。
御自分が義としようとする者を、まず罪人になさいます。
御自分が富裕にしようと望む者を、まず貧しくします。
御自分が天にあげようと望まれる者を、まず地獄に追いやります。
このように、いつも恐怖が前を行き、その後に慰めと喜びが従います。

2013年4月15日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あなたが住んでいる国



あなたが住んでいる国
  

あなたは自分が住んでいる国土に敬意を表さなければなりません。
なぜなら、国土はあなたによいことをたくさんしてくれたからです。
国土のために自分の血を流さなければならない時さえ来るかもしれません。
しかし、国土を傷つけだまし、国内で争いや分派を巻き起こす
あなたたち反逆者は、こうした教えになんと答えるつもりでしょうか。
率直に言います。
何のために人々は一緒に生活するのでしょうか。
何のために国土はあなたに食べ物ばかりではなく、
安全と守りを提供してくれるのでしょうか。
それは、
あなたが自分の持ち物をちゃんと保持して、
敵や盗人や強盗から守られて生活するためではないでしょうか。
しかし、私の愛する者よ、
あなたにはそれゆえに祖国に対して感謝の心を示し、
あらゆる方法で祖国の益を求め、
祖国に奉仕する義務があるのだということが、
あなたはわからないのでしょうか。
もしもあなたが怠け者で、自分が住んでいる国土のために何もやらず、
何か皆の役に立つよい計画を国が実現しようとする時に、
自分の資産で援助したりせず、
逆にそれに反対する場合には、
あなたにはその国に住む資格はありません。
なぜなら、あなたはその場合、
自分のためだけに、自分の益だけを考えて生活しており、
祖国の益をまったく無視しているからです。
  
  
私はよろこんで支配者なる王に忠実になり、
彼に仕え、彼の最善を求め、さらにそれをよくし、
彼を助け、助言し、霊的にも肉体的にも彼の役に立つことを、
望んでいます。
しかし私は、
彼が私をお金持ちや偉人にしたり救ったりすることを
私が期待しているからという理由で
彼に頼るような真似はしたくありません。
なぜなら、
もう明日には風向きが変わって、
彼は私を迫害し始めるかもしれないからです。
むしろ私は、支配者や人々の好意などは欲しません。
神様が私を憐れんでくださるならば、
たぶん私は人々の好意を得ることもあるでしょう。
しかし、たとえ人からの好意を得られなくても、かまいはしません。
神様のご好意さえあれば、私には十分です。
   

2013年4月11日木曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 「人がひとりでいるのはよくない」(創世記2章18節)



「人がひとりでいるのはよくない」(「創世記」218節)
  
 
結婚しているあなたは幸せです。
あなたはよい状態に置かれています。
すなわち、あなたが今いる立場では、
あなたは仕事をし、いろいろ苦労し、さまざまな反対にあいます。
実は、それは役に立つよいことなのです。
というのは、
そうしたことを通して「肉」(自己中心的な欲望など)が殺されて、
原罪(人が皆生まれながらにもっている罪の傾向)の働きを
せき止めることになるからです。
しかも、あなたは、結婚生活のなかで、
学校でのように、貴い知恵を学ぶことになります。
その知恵とは、
神様の御心に忍耐をもって従いつづけること、
また、一人暮らしの時には無かったような
愛と忍耐を保ちつづけなければならないこと、
です。
  
  
結婚する者は、実は、「試練に満ちた修道院」に行くのです。
  
  
一緒に平和な生活を送り、
すべてのことを安心して任せられる、
まじめで親切で働き者の結婚相手がいるのは、
神様の大いなる恵みであり賜物です。
  
  
夫にも妻にも、
結婚を通して与えられている大切な使命があります。
夫はお金を稼ぎ、妻はお金を貯めなければなりません。
それゆえ、
妻は自分の夫をお金持ちにすることができますが、
夫は自分の妻をお金持ちにすることはできません。
なぜなら、
無駄遣いせずに貯められたわずかのお金は、
仕事で得たお金よりもよいものだからです。
倹約は最も大きな収入源です。
  
  
男は、子ともたちや妻の心を励まし、彼らに仕えるために、
生活し、話し、活動し、耳を傾け、苦しみを甘受し、死ぬべきです。
同じように、
妻は自分の夫に、子ともは自分の親に、
召使いは自分の主人に、主人は自分の召使いに、
公的権威は部下に、部下は公的権威に、
各々が自分の隣人に、さらには敵に対しても、
行わなければなりません。
各々がいつでも他の人の手や口や目や足となり、
さらには心や思いにもなるようにしましょう。
  

2013年4月8日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あなたは何をしないままやりすごしてしまいましたか (マタイによる福音書25章45節)(その2)


 
あなたは何をしないままやりすごしてしまいましたか
(「マタイによる福音書」2545節)(その2)

 
神様が私たちに与えてくださるもののなかで、
富はこの地上で一番価値のない持ち物であり、一番小さな賜物です。
それゆえ、ふつう神様は富を、
優しさに欠けた貪欲な人々に対してだけお与えになります。
しかし、彼らには富以上によいものを一切お与えになりません。
  
  
隣人が
飢えやのどの渇きで苦しんでいたり、
住むところがなかったり、
靴や着るものがなかったりして
困窮で苦しんでいるのを見ていながら、
その人を助けないならば、
あなたは
ほかの人の財布からお金を盗むのと同じくらい
ひどい盗みを働いているのです。
なぜなら、あなたには、
隣人が困っている時にその人を助ける義務があるからです。
あなたの持ち物は、あなた自身のものではなく、
あなたには
それを困窮している人たちに分け与えるために管理する責任があるのです。
   
  
一番のお金持ちは、一番ひどい盗人です。
なぜなら、
自分で必要としない余分な持ち物が山ほどあるにもかかわらず、
彼らはそれを必要としている人に、
ほんの少ししか分け与えようとはしないからです。
しかも、
(彼らほど裕福ではない)ほかの人たちは、
その困っている人に、彼らよりもっと多くのものを与えるものだからです。