2012年8月31日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 十字架のみが示す天国への道(その2)


 
十字架のみが示す天国への道(その2)

 
 
福音を受け入れ、十字架につけられたキリストを信じ、
キリストとその御言葉を否定するくらいなら
むしろ自分のすべての持ち物ばかりか自分の命さえも
差し出そうとする人たちが、今でもなお大勢います。
これは、実に偉大な奇跡です。
しかし、この世で起きた最大の奇跡は、
神様の御子が十字架で恥辱の死を遂げられたことです。
  
  
たとえ王やビショップや金持ちや学者が
皆キリストを捨て去るとしても、
神様は、
御自分について世に信仰告白する御霊をいただく「小さな群れ」
守りたい、と思われています。
神様はキリストへの信仰や信仰告白が消えることを望まれません。
もしも弟子たちが主への信仰を告白しようとしないなら、
悪いことを行った者たちが前に出て、
「主がどのようなお方か、
主がいかにして人間に慰めを与えてくださるか」、
について他の人々に教えなければならなくなります。
  
  
罪との戦いや自分の十字架なしには、
キリストを正しく知るようにはなれないことを、
クリスチャンは皆わきまえるべきです。
  
  
たとえ苦しみや十字架は、
それらにもとづいて救われたり、
何か御褒美をもらったりするために、
私たちに与えられているわけではないにせよ、
私たちは、キリストと似た者となるために、
キリストのように苦しまなければならないのです。
   

2012年8月29日水曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 十字架のみが示す天国への道(その1)



十字架のみが示す天国への道(その1)
   
  
十字架につけられたキリストを学びなさい。
キリストに感謝して歌うことを学びなさい。
自分自身にはすっかり失望して、
「主イエス様、あなたは私の義です。でも、私はあなたの罪です」、
とキリストに言うことを学びなさい。
  
  
キリストとその十字架のみを知り考え聴くために、
自分の心を抑制し集中させることができるなら、
それはすばらしい技術です。
しかし、それを習得し実行に移すのは、いつであっても困難なことです。
なぜなら、悪魔は、
私たちをキリストから引き離して間違った道に引きずり込もうと、
あらゆる手段を尽くして攻めてくるからです。
  
  
「祝福された十字架よ、
どの木であれ、あなたに匹敵するような木は他にありません」、
と喜んで言えるとき、
十字架はもはや十字架ではありません。


キリストがおられるところには、また、
イエス様や、ピラトや、ヘロデや、カヤパや、アンナスもいるはずですし、
主の十字架も共にあるはずです。
もしもそうでなければ、
彼は本当のキリストではありません。


この地上での最高の知恵とは、
「弱いキリスト」につまずかないことです。
この知恵をいただいた者はごく少数です。
キリストが誰の目にも見えるように奇跡を行い、
力強く前に進んで行かれるときに、
キリストを知ることを学ぶのは、たやすいことです。
しかし、
十字架にかかり墓に横たわる「弱いキリスト」を
知るようになるためには、偉大な知恵が必要です。
この知恵をもっていない者は、つまずくほかありません。
 

2012年8月27日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 神様の隠された知恵(コロサイの信徒への手紙2章3節)(その3)



神様の隠された知恵 
「コロサイの信徒への手紙」23節のルターの説明(その3)
 

 
神様の御言葉を用いる第二のやり方は、次の通りです。
義とされた信仰者は、
御言葉を表面的に用いるだけではなく、
ちゃんとその意味を理解します。
なぜなら、主の奥義が彼らに対して啓示されているからです。
キリストは、
「私たちはその人のもとに来て、そこに住むでしょう」、
と言われます(「ヨハネによる福音書」1423節より)。
三位一体なる主は、
そのような魂の持ち主に聖書の奥義を明らかにし、
彼らがそれらを理解できるようにしてくださいます。


神様は、私たちを死なせずに、活きる者となさいます。
神様は、私たちを裁かずに、救いのさいわいを賜ります。
神様は、嘆き打ち砕かれている心を憎んだり見捨てたりはせず、
愛を込めて配慮されます。
なぜなら、神様は、
命と救いと平和と喜びと慰めの神様だからです。
 
 
「神様がキリストを通して恵みを示そうとされていることを、
苦しみの最中でも信じ続ける心こそ、
神様が喜ばれる最上の捧げ物です」、
と預言者は語ります。
そして、心が嘆き悲しんでいる人皆を慰めます。
私たちがこうした心を神様に捧げるようになるために、
主はよく疫病、飢饉、戦争、その他の不幸を送られます。
それは、
私たちがより敏感に神様を捜し求め、
不幸の時にも幸福の時にも
神様から助けを願うようになるためです。

2012年8月24日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 神様の隠された知恵(コロサイの信徒への手紙2章3節)(その2)


 
神様の隠された知恵 
「コロサイの信徒への手紙」23節のルターの説明(その2)

  
  
「どのように主は私たちを引き下げ、また引き上げてくださるか」、
また、「すべて主の御言葉の通りになる」、ということを、
主は私たちに多くの実例を通して示されました。
それは、
私たちが自分の知恵によっては何も行わず、
すべてを主にゆだねるようになるためです。
何事も私たちの考えや計画通りにはならないことを、
私たちは皆、生活の中で経験し知っているはずです。
  
  
主は、私たちを豊かで強く義しい者としようとなさるときに、
良心が咎める、貧しく見捨てられた罪人になさいます。
それはまるで、
あらゆる点で主の与えてくださった約束が消えうせてしまった
かのようです。
このような主のやり方を理解する者は、さいわいです!
  
  
神様の御言葉は二通りの異なったやり方で用いられます。
まず第一に、それは一般的に公けに用いられます。
例えば、神様をないがしろにする者たちでさえ、
御言葉を聞いたり読んだりします。
しかし、これは「殻」にすぎません。
彼らには「殻の中身」がないのです。
その中身とは、キリストの御受難がもたらした恵みと実と益のことです。
キリストの御受難のもたらす益については、彼らは何も知りません。
なぜでしょうか?
それは、彼らは自分が罪人だということを認めたくないからです。
彼らは、キリストの御受難について
口先ではまことしやかに語ることができるのに、
それをちっとも理解していないのは、そのためです。
キリストは罪人のためだけに苦しまれたのです。
もしも彼らに、
「キリストはあなたのためにも苦しまれたのです。
つまり、あなたも罪人なのですよ」、と言っても、
彼らはそれを受け入れません。

2012年8月22日水曜日

「ルターの信仰生活ガイドブック」 神様の隠された知恵(コロサイの信徒への手紙2章3節)(その1)


 
神様の隠された知恵 
「コロサイの信徒への手紙」23節のルターの説明(その1)
  
 
神様がお命じになっていることがらについて、
私たちは自分の知恵に頼って従おうとしてはいけません。
むしろ私たちは、
「もしも私には神様の律法が間違っていると感じられるなら、
それは、神様の知恵を理解できない私自身の愚かさのせいだ」、
と考えるべきなのです。
  
  
命と死とは、互いに互いを包み込んでいます。
命は死の中にあります。
不幸は大きな幸福の中にあります。
同じように、
貧しさや惨めさの中に豊かさや喜びがあります。
一方では、
一番安全なはずの生活の中にも、
一瞬にして死が待ち構えています。
  
  
私たちは死ぬ時に、
あたかも永遠に死んだままであるかのようにして、
死んでいきます。
しかし、
一瞬のうちに「最後の日」が来て、
「今から私は永遠に活きる」、
と言えるようになります。

2012年8月20日月曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あなた自身の知恵(コリントの信徒への第一の手紙1章19~21節)(その3) 



あなた自身の知恵 
「コリントの信徒への第一の手紙」11921節のルターの説明(その3)



御言葉を見失って肉体の目でキリストを見つめ始める者は、
「どのように幼子が飼い葉おけに寝ているか」、
などということに注意を払いますが、
実はすでにキリストを見失っているのです。
   
  
御言葉をわきに斥けてキリストを手探りし始める者[1]は、
偽りに支配されるようになります。
  
  
神様が働きかけておられるところでは、
理性に基づいて考えた場合には、
まったく絶望的に思えるようなことが起こります。
しかし、聖霊様によって、
最も素晴らしいやり方ですべてのことは進んでいきます。
このことを聖書は、いたるところで力強く教えてくれます。
  
  
私は、自分のことも満足に管理できないのに、
「全世界を支配したい」、などと夢想しています。
私は、神様に何かよい提案をして、
神様に教えようとしたことが何度もあります。
しかし、神様は、私のこうした「教師根性」が
実はまったく役に立たない代物であることを、
私の目にちゃんと示してくださいました。
 

[1] 御言葉、すなわち、聖書(説教)や聖礼典(洗礼と聖餐、そのどちらでも物質(水、パン、ぶどう酒)と御言葉とが結びついています)を通してキリストというお方を知っていくのではなく、聖書を無視した勝手な考えややり方に基づいてキリストに触れよう、近づこうとする人のこと、だと思われます(訳者註)。

2012年8月17日金曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あなた自身の知恵(コリントの信徒への第一の手紙1章19~21節)(その2)



あなた自身の知恵 
「コリントの信徒への第一の手紙」11921節のルターの説明(その2)

 
 
神様の御言葉が宣べ伝えられるところには、
父なる神様とキリストと聖霊様
(すなわち、三位一体なる神様)がおられます。
しかし、
御言葉の星が照らさないところには、
キリストと彼の母親が住んでいる部屋はありません。
言い換えれば、
福音が照らさず、働きかけないところには、
たとえすごい奇跡が頻発したとしても、
決してキリスト教会は存在しません。
このことに注目しましょう。
  
  
この幼子イエス様のみもとに行きたいのなら、
私たちは自分の思いや理性にとらわれてはなりません。
私たちは御言葉の中に留まるべきです。
どんなものであれ、
私たちを御言葉から引き離そうとするものは、
斥けるべきです。
  
  
私たちは、御言葉から離れ去っていると、
幼子イエス様につまづく危険がでてきます。
幼子は粗末な貧しい身なりをしています。
御言葉によらずに理性にのみ頼って
幼子のことを理解しようとする者は、
不意を撃たれて、
幼子につまづくことでしょう。
  

2012年8月14日火曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 あなた自身の知恵(コリントの信徒への第一の手紙1章19~21節)(その1)


 
あなた自身の知恵 
「コリントの信徒への第一の手紙」11921節のルターの説明(その1)
    
   
私たち人間は、
「自分は神様についてよく知っている(自分には知恵がある)」
と思いこんでいます。
それは、楽園でアダムとエバが、悪魔にそそのかされて、眼が開かれ、
「自分は賢い」と思いこんでしまったことから始まっています。
これが今でも私たち人間を悩ませている病です。
  
  
賢い者は愚かであり、愚かな者は賢いこと、
また、
真のクリスチャンは偽の信仰者というレッテルを張られ、
逆に、
自分がクリスチャンだと誇る者こそ実は偽の信仰者であることを、
福音はあきらかに示そうとします。
  
  
人間は、
多くの言葉や思いや行いによって、神様に仕え近づこうとします。
しかも、自分の努力を、他の人に見られるように行います。
こういったあらゆる行いによって、人間は神様を探し求めますが、
それはまったく間違ったやり方です。
彼らが神様について知っていることは、
他のどんな人々とくらべても、少ないし表面的です。
なぜなら、彼らは実は自分自身を探し求めており、
こうして神様を求め、神様のことを知ろうとしているからです。
   
  
人の心の中の隠された「知恵」とは、
自分のことをよくわきまえ、
同時に、
自分に対して怒ることに他なりません。

  

2012年8月9日木曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 キリストを見つめなさい!(ヘブライの信徒への手紙12章2節)(その2)



キリストを見つめなさい! 
「ヘブライの信徒への手紙」122節のルターの説明(その2)


他人の、すなわち、全世界の罪、その負債をすべて払うために、
御自分の上に引き受けてくださったときに、
主キリストは非常に苦しまれました。
「他人の罪」が罪のない心の持ち主である主を苦しめたのですから、
自分の罪が自身の上に降りかかってきた場合には、
そうでなくても絶望しやすい私たち人間はいったいどうなってしまうと、
あなたは思いますか?


信仰とは、キリストを真剣に絶えず見つめることです。
それは、罪と死を取り除き、
私たちに義と永遠の命と救いをもたらしてくださった
キリストのみに集中することです。
  
  
呪いを避ける唯一の道は、信仰であり、
強い信頼によってこう言うことです、
「イエス様、あなたは私の罪、私の呪いです」。
あるいはむしろこう言うことです、
「私はあなたの罪、あなたの呪い、あなたの死、
あなたへと向けられている神様の怒り、あなたの地獄です。
しかし、あなたは、
私の義、私の祝福、私の命、私の神様の恵み、私の天国です」。
  
  
キリストは傷つけられた良心を癒してくださる唯一のお方、
天国からの賜物を分けてくださる唯一のお方、
真の信仰を守ってくださる唯一のお方、
日々のそして永遠の御言葉そのものです。
  
  
私の心を支配しているのは、次のひとつのことだけです。
すなわち、愛する主イエス・キリストへの信仰です。
それは、
あらゆる霊的なことがらや神様の御心にかなうような、
昼夜私に浮かぶ考えの唯一の中心であり、始めであり、終わりです。

2012年8月4日土曜日

「ルターの信仰生活アドヴァイス」 キリストを見つめなさい!(ヘブライの信徒への手紙12章2節)(その1)



キリストを見つめなさい!
「ヘブライの信徒への手紙」122節のルターの説明(その1)


キリストは、
恐れおののき打ちひしがれた心の持ち主にとっての
喜びとなる素晴らしいお方です。
キリストは私を愛して、御自分を私のために与えてくださいました。
キリストは、苦しみや罪や死の只中にある人々を愛されるお方です。
私の愛する友よ!
これ以上すばらしく、また喜ばしいことを
人は口にすることができるでしょうか?
  
  
キリストを信じる者は、
貧しさの中で豊かさを感じ、
恥辱の中で光栄を感じ、
嘆きの中で喜びを感じ、
死の中で命を感じ取ります。
その人は、
これらすべてを神様の御言葉に密着した信仰の中で保ち、
これらすべてを神様から待ち望みます。
  
  
「安心しなさい。私は世に勝っています」。
キリストが世に対する勝利者だというのはまったく正当です。
それなのになぜ私たちは、
キリストに対してすでに敗北している世に対して、
あたかもそれが勝利者であるかのように錯覚し、
恐れ震えているのでしょうか?
  

「私たちの義や聖のゆえではなく、私たちの罪のゆえに、
キリストは死に渡された」という言葉を
まったくの真理として受け入れるところに、
クリスチャンの特別な技能と知恵があります。
  
  
キリストは私たちを背負い、御父様のみもとに運んでくださいます。
  
  
もしもあなたが強く無敵でありたいのなら、
主キリストがあなたがたの力であることを認めなさい。