2022年7月29日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」1章23節「望郷の念」

「望郷の念」

私はこれら二つのものの間に板ばさみになっています。

私が切望しているのはこの世を去ってキリストと共にいることであり、

そのほうがはるかによいことです。

(「フィリピの信徒への手紙」123節)

 

もしも山上の説教[1]の「幸いなるかな」という一連の教えに

もうひとつの教えが付け加えられていたとしたら、

それはきっと

「天国の家を思慕する者は幸いなるかな。

彼らは故郷に運ばれていくだろうから」

という言葉だったのではないでしょうか。

多くの言葉を費やして聖書は

「あなたがたは上にあるものを思うべきである」[2]と私たちに勧めています。

多くのキリスト信仰者が上述の使徒パウロの手紙の言葉を引用して

「天国へ行きたい」という自らの希望を言い表すのは

別に不思議なことではありません。

 

しかし、パウロは救い主がその僕である彼を

天の父なる神様の御許へまだ連れ去るおつもりがないことを知っていました。

救い主はパウロに御国の仕事を用意なさっていたからです。

この仕事が終わって

天の父なる神様の御許に行けるその時ができるだけ早く来るように、

パウロは自由な心で勤勉に御国のために喜んで仕えました。

 

私たちには天の御国への望郷の念があるでしょうか。


そこへ入れる日を待ち望むことで、

私たちは喜んで救い主の御国で働くことができるのです。


心を天に向けましょう。

しかし手はこの地上に向けて、

主にある兄弟姉妹に熱心に仕えるために用いましょう。

 

私たちは天の家に自分が入れることを

信仰によって確かであると思ってよいのです。

なぜなら

「私は行って、あなたがたのために場所の用意をしたならば、

また来て、あなたがたを私のところに迎えます。

それは、私がいる場所にあなたがたもいるようになるためです」

(「ヨハネによる福音書」143節)

とイエス様は約束なさっているからです。

 

(祈り)

私は主にあって生きるのなら、死ぬ時に勝利を得ます。

私がこの世を去る瞬間にも、キリストは私の命です。

私が死ぬ時に、主は私の魂の世話をしてくださいます。

(関連聖句)「テモテへの第二の手紙」468



[1] 「マタイによる福音書」57章におけるイエス様の説教。

[2] 「コロサイの信徒への手紙」32節より。

2022年7月25日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」17章8節「イエス様おひとり」

「イエス様おひとり」

彼らが目をあげると、

イエス様おひとりのほかには誰も見当たりませんでした。

(「マタイによる福音書」178節)

 

正しい生き方とさいわいなる救いに満ちた死とにかかわる質問に

十全な答えを与えてくれる二つの言葉があります。

それは「イエス様」と「おひとり」です。

 

キリスト教信仰にはただ一つの中心があります。

それはただひとりのお方、イエス・キリストです。

このお方からの光が信仰全体に輝きを与えています。

 

ただひとつの生き方があり、

ただひとつの永遠の命への道があります。

天国の中に入れる門もひとつだけです。

(天国へと向かう)旅に携えるお弁当もひとつだけです。

暗闇を追い払う太陽もただひとつだけです。

信じて歩む旅人には希望の星がひとつだけあります。

この中心こそが「イエス様おひとり」なのです。

 

ここに、イエス様を信じるあらゆる時代の人々の集う場所があります。

あらゆる時に私たちが必要としているすべてのものはイエス様のうちにあります。


「私たち皆は、その方の満ち満ちているものの中から、

恵みの上にさらに恵みを増し加えたものをいただきました」

(「ヨハネによる福音書」116節)。


イエス様のうちに私たちの命はあります。

イエス様のうちに

私たちの義が、平和が、喜びが、希望が、光が、

知恵が、力が、栄光が、誇りが、聖化があります。


「天に(あなたのほかの)誰かを私はいただいているでしょうか。

地にはあなたのほかに私が慕うものはありません」

(「詩篇」7325節)。

 

時間の世界でも、永遠の世界でも、「イエス様おひとり」なのです。

  

(祈り)主よ、愛する御顔を私の方へと向けてください。

どうか私を投げ出さないで、あなたの恵みによって覆ってください。

イエス様、あなたは平和を与えてくださり、

天国の喜びへと運んでくださいます。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」1719