2019年3月29日金曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第二の手紙」13章5節「検査を受ける身として」

「検査を受ける身として」

あなたがたは本当に信仰があるかどうか、
自分を省み、自分を吟味しなさい。
(「コリントの信徒への第二の手紙」135節)

私たちは医者に診てもらいに行くとき、
医者が私たちのことを大雑把にではなく詳細かつ丁寧に検査することを望みます。
 
それでは、私たちが自らの霊的な状態を調べる場合にはどうでしょうか。
大雑把な検査だけで満足してしまってはいませんか。
実は、それでは不十分です。

むしろ、神様の聖なる戒めによって
私たちが十分な検査を受けられるように取り計らうなのべきです。
私たちは皆が人間として腐敗しているため、
自分について都合の良いイメージを持ちたがるくせに、
自分の悲惨な真実の姿(すなわち罪深さ)のことは認めようとしません。

それに対して神様の戒めは、
私たちがしっかと目を見開いて己の心の奥底を凝視し、
大抵の場合には表面に現れることがない罪が
密かに自分のことを支配している現実を認識させてくれます。
神様による検査は真理に基づいており、その検査結果はきわめて深刻です。

このことを覚えるとき、
主イエス・キリストの成就なさった御業が
無限の価値を有するものであることがわかるでしょう。

イエス様は十字架で流された尊い血によって、
私たちの罪の負債を父なる神様の御前で帳消しにしてくださったのです。
しかも、この神様との和解は私たちだけにではなく、
全世界の人々にも当てはまることなのです。

イエス様の血を通して私たちは贖われています。
イエス様の豊かな恵みに基づいて私たちには罪の赦しがあります
(「エフェソの信徒への手紙」17節より)。
罪を自覚している罪深い存在として私たちはイエス様の御許へと避難します。
そして、イエス様は私たちをあらゆる不義から清めてくださるのです。

信仰にあって喜びつつ私たちはイエス様を讃美します。
私たちを救い出す力のある名はイエス様の御名の他には与えられていません
(「使徒言行録」412節より)。

(祈り)
神様、私たちのうちに清い心を造り、私たちに新たな強い霊をください。
どうか私たちがあなたの御前で心を開くことができますように。
私が自分の罪をあなたに告白できるように助けてください。
愛する救い主よ、どうか私があなたのうちで新たにされますように。
アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」111734

2019年3月22日金曜日

「力なき者に力を」「エフェソの信徒への手紙」4章32節「家で」

「家で」

互いに対して親切で、温かい心を持ち、
神様がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように、
あなたがたも互いに赦し合いなさい。
(「エフェソの信徒への手紙」432節)

家庭では愛の力を具体的に感じることがよくあります。
しかし一方では、ひどく落胆するようなことも起こります。

家庭で落胆よりも愛のほうをより多く経験するようになるためには、
どうすればよいのでしょうか。

そのためには、
自分の間違いを今までよりもっと素直に認めるようになればよいのです。

相手に命令したり、他の人の欠点をあげつらったりするのは簡単なことです。
しかし、罪の赦しの中で活きることは難しいものです。
しかも、時がたてば経つほど謝りにくくなります。

「キリストにおける神様の大いなる恵みが私たちの唯一の避け所である」
ということを知るのが最も重要です。

イエス様の苦痛に満ちた十字架の死のゆえに、
私たちはすべての罪を赦していただきました。

同様に考えるとき、
そのような私たちが、私たちに不当な行いをする人々に対して
その罪を赦さずにいられるでしょうか。

イエス様が私たちを愛し、
御自分を私たちのために犠牲にしてくださったのですから、
私たちもまた、
一緒に住んでいる家族に対して献身的に振舞わずにおれましょうか。

私たち自身、神様から憐れみをいただいたのですから、
私たちもまた他の人たちに対しても憐れみ深くありましょう。

(祈り)愛する天の御父様、
自分が人間としてあるいは行いに基づいて
あなたに受け入れていただけるような者ではないことを、
私たちはわきまえております。
しかしあなたは、
あなたの愛する御子、救い主イエス・キリストにおいて
私たちを受け入れてくださいました。
あなたの子どもとして私たちが愛の中を歩むことができるように、
どうか今助けてください。アーメン。
(関連聖句)「エフェソの信徒への手紙」52133

2019年3月15日金曜日

「力なき者に力を」「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章11節より「仕事場で」

「仕事場で」
 
落ち着いた生活をし、自分の仕事を行い、
自分の手で働くことを光栄に思いなさい。
(「テサロニケの信徒への第一の手紙」411節より)

私たちには皆、自分の仕事場があります。
たとえば、台所、教室、事務所、工房などです。

それはどうしてでしょうか。

私たちには皆、人生の使命があるからです。
しかし、もしも造り主と共に仕事をしない場合には、それは意味を失います。
仕事はそれから受ける報酬よりも大きな意味を持っています。

この世におられる間、イエス様もまた大変な仕事をなさいました。
しかし、それよりもさらに大切なのは
「神様の御子なるイエス様が御自分を犠牲にして、
私たち罪深い者、目的もなく自己中心的に生きている人々の
重い十字架を身代わりに担ってくださった」
ということです。

十字架の死に至るまで、イエス様は仕事を続けられました。
それは、天の御父様がイエス様の御業のゆえに人間と和解して、
人間の罪を赦してくださるためでした。
また、そのようなお方として
天の御父様に私たちの父親となっていただくためでした。

私たちが信仰を通して行った人生の仕事は、
天の御父様への崇敬の具体的な表現だとも言えましょう。

宗教改革者マルティン・ルターが福音の光に照らされた後で
「家事などの日常の仕事は、
それが信仰を通して神様の栄光のためになされる場合には、
神様にお仕えすることである」
ということにはっきりと気がついたのは偶然ではありません。

人々が些細なものとみなすような仕事も、神様にお仕えすることなのです。
イエス様への信仰を持って生きるとき、
自分たちの日常の仕事が正しいものだとわかります。
それはたんに生活していくための手段にはとどまらないものです。
それは救い主にお仕えすることなのです。

「救い主がまず私たちに仕えてくださった」
ということをしっかり心に刻んでおきましょう。

私たちの仕事場は、キリスト信仰者として歩む人生の「聖所」なのです。

(祈り)天の御父様、
私の活動すべてにおいてあなたの栄光と御心の実現を求めていけるように、
どうか私をお助けください。
私が自分に与えられた人生の仕事を
満ち足りて喜んで行うことができるようにしてください。アーメン。

(関連聖句)「テサロニケの信徒への第一の手紙」4912

2019年3月8日金曜日

「力なき者に力を」「使徒言行録」1章8節より「証人」

「証人」

あなたがたは私の証人となります。
(「使徒言行録」18節より)

若い給仕は、ある客が深く悲しみに沈み硬直している様子に気がつきました。
給仕はその人のもとに持っていった皿の下に、そっと紙切れをおきました。
そこには
「苦しんでいる人にイエス様はこう言われます
「私の恵みはあなたに対して十分です」
(「コリントの信徒への第二の手紙」129節より)」
と書いてありました。
この御言葉に力づけられて、
このレストランの客は試練に耐えることができました。

証人は自分が見聞きしたことを伝えます。
あの給仕はキリストの証人でした。
そして、自分が実際に体験した福音の慰めと力を
他の人たちにも分かち合おうと思ったのです。

私たちもまた証人です。
問題なのは「私たちはどのような証人であるか」ということです。
「あなたはあまりにも声高に振る舞うので、
その言葉は聞き取れなくなってしまう」
などと言われる場合もありましょう。

しかし、たんなる行いだけでは足りません。
言葉も必要です。
「信仰は聴くことから、しかし、聴くことはキリストの御言葉を通して」
(「ローマの信徒への手紙」1017節)だからです。
「イエス様は私を御自分の血によって罪から解放して、
私に平和と喜びを与えてくださった」
と周りの人々に宣べ伝える証人たちを、
聖霊様は最大限に用いてくださいます。

救い主についていつも語りなさい
十字架で死なれた方について
他のどんなことより大切なのは
恵みによって恵みを受けたこと

(祈り)神様がどれほど大いなる御業を私に行われたか、
私が説得力を持って周りの人たちに証することができるように、
聖霊様、どうか私を助けてください。
(関連聖句)「ヨハネによる福音書」92238

2019年3月1日金曜日

「力なき者に力を」「マルコによる福音書」4章9節より「キリストは私たちのもとにおられる」

「キリストは私たちのもとにおられる」

耳のある者は、聴きなさい。
(「マルコによる福音書」49節より)

種蒔く人のたとえによって
「正しく聴くことの大切さ」を教えてくださったときに、
イエス様はこの言葉を、
御言葉を無視している者、不真面目な者、また心配事を抱えている者
に対して向けられました。
しかも、イエス様は
「これは、もう前にも聞いたよ」と彼らが口をそろえて言うだろうことも
合わせて見通しておられました。

このたとえを通してイエス様が教えようとされていたのは
「すでに聞いて知っているから、という理由で御言葉を退けるべきではない」
ということです。
これらの(すでに聞いたことがある)御言葉を通して
「神様が私たちの良心に語りかけられるか」
あるいは
「私たちがその御言葉を無意味なものとして切り捨ててしまうか」
そのどちらかの状態が生じます。

神様とは心の中で話し合うことができる場合もたしかにあるでしょう。
しかし、それでは十分ではありません。
私たちが他のキリスト信仰者と共に礼拝に参加することが
神様の御心だからです。
キリスト信仰者はこのことを必要としており、また待ち望んでもいます。

神様は彼らを「教会」とみなした上で、彼らに語りかけておられます。
キリストにおける恵みと罪の赦しを伝えてくれる御言葉、
そして、人と神様との和解を告げる御言葉に、
彼らは一緒に聴き入ります。
彼らは共に祈るべきだし、皆で神様への讃美を歌うべきです。
キリスト信仰者は互いに叱咤激励し合う必要があります。

神様の御言葉は「活きている言葉」です。
それゆえ、御言葉には私たちを変える力があります。
御言葉と共に活きるかぎり、
イエス様はいつも私たちの只中にいてくださいます。

「友よ、私はあなたに話したいことがあります。
そして、あなたには聴く耳があります。
だから、私があなたに言うことを聴きなさい」
とイエス様は私たちに言っておられます。

(祈り)イエス様、聴く耳と受け入れる心をどうか私にください。
私が御言葉を聴いてもすぐ忘れてしまう者ではなくなるように、
また、御言葉が私の中に根付いて御言葉に従って生活できるように、
どうか私を変えてください。アーメン。
(関連聖句)「詩篇」29