2012年5月30日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 イザヤ書57章15節より



私は高く聖なるところに住み、
また打ち砕かれへりくだった者と共に住み、
へりくだる者の霊を活かし、
砕かれた者の心を活かします。
(「イザヤ書」5715節より)
 
  
クリスチャンであることがどれほど尊い価値を持っているか、御覧なさい。
この地上でクリスチャンは、奇跡的な存在です。
神様の御前でクリスチャンは、天地よりも大切な存在です。
クリスチャンは、全世界の光であり救いを伝える存在です。
クリスチャンを通して、神様はすべてに働きかけておられます。
しかし、一方でクリスチャンは、
世に対しては完全に隠された、知られざる存在です。
世はクリスチャンを知るのにふさわしくはなく、
クリスチャンを評価もしません。
今日の御言葉は、
クリスチャンに与えられている言い表しようもないほど素晴らしい栄光
について語っています。
クリスチャンを通してのみ、
すなわち、クリスチャンの中で、
クリスチャンの言葉や行いや口や手を通してのみ、
神様は御自分を現すことを望まれます。
このように神様は、
クリスチャンとそうではない人との間に大きな差を設けられました。
クリスチャンは、
この世から見てどんなに価値がない存在であったとしても、
神様の御前では、
どんな王様や貴族や全世界よりも価値のある存在なのです。
 


 
「マルティン・ルターの旅のお弁当」の配信は、
これにてとりあえず終了します。
おつきあいくださり、ありがとうございました。
次回からはまた、ルターの別の本をとりあげる予定です。
(ブログ管理人より)

2012年5月28日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 イザヤ書57章15節より


 
私は高く聖なるところに住み、
また打ち砕かれへりくだった者と共に住み、
へりくだる者の霊を活かし、
砕かれた者の心を活かします。
(「イザヤ書」5715節より)
 
  
この地上で神様がお住みになる
「素敵な家、城、広間、楽園、天」とみなされる人は、
いかに大きな栄光と恵みを受けていることでしょう。
彼ら自身は、貧しく苦しむ臆病な良心の持ち主にすぎません。
彼らは心の中で、
罪、死、恐れ、神様の怒りへの恐怖しか感じていません。
彼らは、神様が遠くにいて悪魔がそばにいる、と思っています。
しかし、今日の聖書の箇所での約束を受けて入れた人は、
自分が神様が憩われる本当の住まい、神殿であることを知って、
喜びをもって自分を慰めることができます。
この人たちについて神様は、
傲慢な聖人たちに対抗してこう言われます、
 
「主はこう言われます、
「天は私の王座、地は私の足台です。
あなたがたは私のためにどんな家を建てようとするのですか。
また、どんなところが私の憩いの場となるのですか」。
主は言われます、
「私の手がこれらすべての物を造りました。
そのようにして、これらのものはことごとく生まれました。
しかし、私が顧みる人は次のような者です、
すなわち、
へりくだって心を悔い、私の言葉に恐れおののく者です」」
(「イザヤ書」6612節)。
 
この地上で神様は、
このような人以外のところに住まわれたりはしません。
自己満足に浸っている聖人たちは、
神様にとっては、あまりも尊大で賢すぎるのです。
しかも彼らは、
神様がこの地上で彼らの中にお住まいになることを
願ったりもしません。

2012年5月25日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヘブライの信徒への手紙12章1節より


 
こういうわけですから、
私たちはいっさいの重荷とからみつく罪とを
かなぐり捨てようではありませんか。
(「ヘブライの信徒への手紙」121節より)
 
  
私には何度か次のようなことがありました。
私は、「かくかくしかじかの日に聖餐式に参加しよう」、と考えていました。
ところが、その日が来ると、
熱心さが消えうせたり、何か用事ができたり、
「自分は聖餐を受けるのにふさわしくない」、と感じたりして、
「聖餐を受けるのはあと1週間のばそう」、
と自分に言うほかありませんでした。
しかし、1週間たっても自分は相変わらず
聖餐を受けるにはふさわしくないままだったので、
また延期し、ということが繰り返しつづきました。
恵み深い神様はそんな私に、
これは悪魔のわなであることを教えてくださいました。
それで私はこう言いました、
「悪魔よ、その手に乗るものか。
私が聖餐にあずかるのにふさわしくなるためには、
まる1年もたってしまうだろう」。
こうして悪魔の策略から抜け出して、私は聖餐式に参加しました。
ときには普段は必ずする告解もせずに聖餐を受けることさえありました。

2012年5月23日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書6章54節


 
私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命をもっています。
そして、私はその人を終わりの日に復活させます。
(「ヨハネによる福音書」654節)
  
 
キリストの体は、全能なる神様の聖なるお住まいです。
それゆえ、神様のものはすべてキリストのものでもあります。
「キリストと神様の富はすべて私のものである」
というしるしと確信をもつために、
私はキリストの体と血とをいただくのです。
聖餐は、主イエス・キリストの偉大な恵みと愛を示しています。
キリストは罪人たちを心から世話して、
私たちに対して大いなるよきわざと優しい愛を示し、
私たちのそばにいるだけではなく、
御自分の体をも私たちの栄養として与えてくださっています。
それは、地上でこの永遠の食べ物をいただく私たちが、
永遠の命について確信し、慰められるためです。
このことについて私たちは、
この世でも永遠の世界でも、キリストに感謝するべきなのです。

2012年5月21日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙7章19節


私が行いたいと望んでいるよいことを私は行わず、
私が行いたくないと思っている悪いことを私は行っています。
(「ローマの信徒への手紙」719節)
 
  
この世で肉の中に生きている限り、
私たちが弱さや欠点から完全に解放されることはありません。
罪や苦しみがまったくなく
義と喜びにのみ満たされている人は誰もいません。
なぜなら、
「罪や悪い欲望と戦いつつも、
できれば感応したくないと思っていることに意に反して感応してしまう」
という点を除けば、
クリスチャンも他の人々と同じように肉と血をもった存在だからです。
このようなクリスチャンは、
自分の感覚に基づいて自分を裁いたり、
「私はもうだめだ」、とあきらめたりはしないようにしましょう。
教会はこの地上で、
弱さ、貧しさ、惨めさ、死、侮蔑、恥辱の中にあって
戦わなければなりません。
たとえ自分の中に
罪、絶望、忍耐不足、罪への堕落がまだあるとしても、
誰も他の人(の欠点)につまずいたり、
自分に絶望するべきではありません。
つまずいたときには、
「つまずいた私を、神様は捨てた」、とは考えず、
心を入れ替え、御言葉を信じて、陥った罪から立ち上がり、
「罪よりも強い恵みの御国に私は住んでいる」、と自分を慰めなさい。
「律法が入り込んできたのは、罪過が増し加わるためでした。
しかし、罪が増し加わったところには、恵みもますます満ち溢れました」
(「ローマの信徒への手紙」520節)。
この恵みの御国で私たちが賜物としていただく聖霊様は、
新しい勇気と力を与え、弱さの中にある人を強め、
「神様のお住まい」に変えてくださいます。
そこでは、神様の愛が支配しており、
人の弱さを覆い隠し、それはもう罪とはみなされません。

2012年5月16日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書3章16節



神様はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださいました。
それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命をいただくためです。
(「ヨハネによる福音書」316節)
  
 
信仰こそが、宝物を収める器です。
神様が「与え手」として私たちに賜るように、
私たちは信仰を通して「受け手」となるからです。
この信仰は、賜物を受け取る以外には何もしません。
この賜物が「私たちのもの」であるのは、
私たちの行いや功績のおかげではありません。
すべては私たちへの贈り物なのです。
口というより心を開いて、じっとしていなさい。
そして自分をそれで満たしていただきなさい(「詩篇」8111節)。
信仰とは、「私たちが御子のおかげで滅びずに永遠の命をいただけるように、
神様はその独り子を賜った」、と本当に信じることです。
そのような信仰は、自分の力を省みたりしないし、
「自分はそれにふさわしい存在かどうか」などとは悩みません。
信仰は、自分に目を向けるのをやめて、
キリストに堅くつながり、キリストを「自分のもの」として受け入れます。


2012年5月14日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙3章26節



あなたがたは皆、
キリスト・イエスにおける信仰を通して、
神様の子どもです。
(「ガラテアの信徒への手紙」326節)
   
  
主イエス様がペテロに、「私は誰か」、と尋ねられたときに、
ペテロはこう答えました、「あなたはキリスト、活ける神様の御子です」
(「マタイによる福音書」1615節)。
これをキリストは真正な信仰告白とお認めになり、
この信仰告白の上に、
ローマ法王の教会ではなく、御自分の教会を建てることを望まれました。
この教会は非常に強い信仰のゆえに、地獄の門も最強の悪魔もかないません。
なぜなら、神様の教会は、つまり主の聖なる特別な民は、
「キリストこそ神様が祝福された御子である」、
という真心の信仰の他には、どんな基ももっていないからです。
神様の御子を信じる者は、すでに新しく生まれています。
その人は、自分が神様の子どもであり、
聖なる教会と神様の民の一員であり、
天の御国とその宝を継ぐ者であることに関して、
素晴らしい証拠の印を所有しています。
そのような人は、揺るがぬ救いの基をもっており、
悪魔の攻撃から守られています。
パウロも、「これこそ、救いをもたらす真の信仰です」、と告白しています、
「あなたは自分の口で、「イエス様は主である」、と告白し、
自分の心で、「神様がイエス様を死者たちの中からよみがえらせた」、
と信じるならば、救われます」(「ローマの信徒への手紙」109節)。
  

2012年5月11日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヘブライの信徒への手紙11章6節より


 
信仰なしでは、神様に喜ばれることはできません。
(「ヘブライの信徒への手紙」116節より)
  
 
神様が私たちに求めておられ、本物と認められる信仰は、
心から主イエス様に信頼することです。
イエス様は活ける神様の御子、私たちの愛する救い主です。
イエス様は、
私たちに対する言い尽くせないほど大きな愛のゆえに、
私たちの罪のために十字架で死んで、
私たちの義のために死者の中から復活されました。
信仰とは、キリストと、本来キリストのものであるあらゆる義とを、
自分に受け入れることです。
(中略)
このように、キリストを信じる者は、キリストを着ています。
(中略)
この信仰のみが、クリスチャンに喜びと幸せと安全を与え、
クリスチャンを救って、神様の子どもにします。
信仰のあるところには、力強く働きかける聖霊様もおられます。
さらに言えば、信仰とは、
私たちを変えて新しく神様から生む、という、
私たちの中でなされる神様のみわざなのです。

2012年5月9日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙8章15節より


  
あなたがたは、
(神様の)子どもという身分を与えてくださる御霊を受けました。
この御霊の中で私たちは、「アバ、お父さん」、と叫ぶのです。
(「ローマの信徒への手紙」815節より)
 
  
私たちの良心が信じて疑わず、
「罪の赦し」だけでなく「神様の子ども」という身分さえ
自分に与えられていることや、
自分が救われることについて確信をもち、
喜んで神様に祈り、
神様を「愛する私のお父様」と呼ぶことができるときに、
この「アバ、お父さん!」という呼びかけが聞かれます。
この確信を手放してはなりません。
キリストがこれらのことを豊かに備えて、私たちに洗礼を通して賜った、
という慰めを疑い信じないならば、
私たちのために言葉では言い尽くせないほど大いなるみわざを行い、
苦しみを受けられたキリストを侮ることになります。
 
しかし、カインがこれを聞くと歯軋りをし反抗的にこう言います、
「神様、私をこのひどい異端と不遜から守ってください!
私のような貧しい罪人がどうして、「自分は神様の子どもだ」、
などと傲慢にも言えるのでしょうか?とんでもない。
私は謙遜に、「自分は貧しい罪人です」、と告白する者でありたい」。
 
彼らのことはほうっておいて、彼らとかかわらないように気をつけなさい。
なぜなら、彼らは
キリスト教の信仰とあなたの救いにとって、一番たちの悪い敵だからです。
  
もちろん私たちは皆、自分が貧しい罪人であることをよく知っています。
しかしここでは、自分自身や自分の行いを見てはならず、
キリストが私たちにしてくださり、また今もしてくださっていることだけを
見つめるべきです。
ここで私は、自分の人となりについてではなく、
神様の恵みについて話しているからです。
この恵みは私たちよりもはるかに大きいのです。
それは、「詩篇」10311節によれば、
天が地よりも高く、東が西から離れているよりもさらに大きなものです。
もしもあなたにとって、
自分が神様の子供であることが素晴らしいと感じられるなら、
愛する友よ、
あなたが神様の子供としての身分をいただくために、
神様の御子が来られて、女から生まれ、
律法の下に生活されたことも軽んじないようにしなさい。
     

2012年5月7日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 コリントの信徒への第二の手紙6章4、7節より


 
私たちはすべてにおいて自分が神様の僕であることを示してきました。
(中略)右手と左手の義の武器によって。
(「コリントの信徒への第二の手紙」647節より)
 
  
私は、厳しく手紙を書くと「傲慢だ」と言われ、
謙遜に書くと「弱虫だ」とか「逃げている」とか
「謙遜なふりをしているだけだ」などと言われます。
何をしても悪くとられるのです。
日常生活の中で私は、相手が福音の敵でないかぎり、
誰に対しても、子どもに対しても、へりくだりたいと思っています。
もしも私の生活の歩みが神様の恵みを考慮に入れずに裁かれるなら、
私を待ち受けているのは地獄の苦しみだけです。
しかし、私が謙遜にふるまう、などということを、
こと私にゆだねられている職務と教えに関するかぎりは、
誰ひとり(とりわけ福音の敵たちは)期待してはいけません。
私が信仰にとどまりつづけるかぎり、
彼らの意思とはかかわりなく、
彼らは私のことを「生ける聖人」とみなさなければなりません。
私が信仰にとどまれるように、
神様、私のことを終わりまで助けてください。
神様の助けがなければ、すべてはお終いだからです。

2012年5月4日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書5章4節



あなたがたは沖へ漕ぎ出して、網を放ってみなさい。
(「ルカによる福音書」54節)
  
 
主はこう言われているかのようです、
「網を放ち、漁をしなさい。
しかし、魚が取れるかどうかという心配は私に任せて、
あなたがたは自分の仕事に集中しなさい」。
ところが、私たちは逆のことをしています。
それゆえ、もしもクリスチャンとしてふさわしく生きて行きたいのなら、
魚が網にかかるかどうかという心配は神様に任せて、
あなたは何かの職に就いて仕事をしなさい。
「あなたは鼻に汗をかきパンを食べることになる」
(「創世記」319節)、と神様はアダムに言われました。
この御言葉に忠実に従おうとするのはとてもよいことです。
それゆえ、あなたは信仰をもって仕事をし、
他のことはすべて神様にお任せしなさい。
(中略)
たとえ神様が私たちの仕事の成果をすぐには与えてくださらなくても、
私たちは希望をもって待ちつづけるべきです。
たとえば、この御言葉にもあるように、
弟子たちが一晩中漁をしても徒労に終わるようにし、
あたかも彼らが飢え死にしてもかまわないかのように、
神様は振舞われました。
漁をしている間、ペテロは、
「神様は私の体が飢えて弱るままにほうっておかれたいのだな」、
などと考えたかもしれません。
しかし、ペテロは疑わずに仕事をつづけました。
「少しくらい遅れても、神様は自分に魚をとらせてくださる」、
という揺るがぬ希望をもちつづけました。
その後、神様が来られて、
ペテロにあふれるほど沢山の魚を一度に与えてくださいました。

2012年5月2日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇117篇2節


 
私たちに対する主の恵みは偉大であり、主のまことは永遠に変わりません。
ハレルヤ[1]
(「詩篇」1172節)
 
  
主の恵みとまことは永遠に変わりません。
恵みの王国はこの世でも非常に強いので、
決して揺れたり倒れたりしません。
私たち人間は頼りない存在で、
罪や迷妄のせいで時にはぐらついたり躓いたりしますが、
恵みはびくともしません。
私は新奇な恵みの国を必要としていません。
常に同一の恵みが今も無償で私たち皆に対して差し出されており、
私が再び恵みのもとに戻ってくるのを待っています。
この「船」は壊れません。
洗礼の力は決して消えません。
恵みの王国は崩れません。
この「詩篇」が語っている通り、
主の恵みとまことは永遠に存在しつづけます。
私はたとえ船から落ちても、再び乗船します。
洗礼を捨て去ったとしても、再びそこに戻ります。
恵みの王国から迷い出てしまっても、またそこに帰ります。
洗礼と船と恵みは永遠に力強く留まりつづけます。
それらは私の躓きやぐらつきのせいで変わったりはしません。
 

[1] 「主を賛美しなさい」という意味です。