2018年9月28日金曜日

「力なき者に力を」編集者の序文

VOIMATTOMALLE VOIMAA (「力なき者に力を」)

フィンランド語版(1991年)編集者の序文
(日本語版翻訳者(高木)が抜粋して編集したもの)

 この日々の御言葉集(聖書の短い言葉とその説明)は、
アメリカ合衆国のルーテル教会ミズーリ•シノッドが継続して発行してきた
Portals of Prayer」という祈りの小冊子のシリーズに基づいています。
テキストを執筆したのは、この教会の牧師や神学校の教師たちです。
この英語の小冊子のシリーズの発行は1937年に始まりました。
当時の発行部数は大変多く、一冊子あたり100万部を超えるものでした。

 ミズーリ•シノッドで牧会した神学博士G. A. Aho牧師(18971973)は、
この小冊子集を基にしてフィンランド語版を編纂し(1965年)
出版しました(1967年)。
この本はその後も順調に版を重ねてきました。

 この1992年版では以前の版を短縮し、内容を一部変更しています。
霊的に多様な内容を含むこの本は、
多くのキリスト信仰者によって活用され、実際の信仰生活を支えてきました。
これからも、この本が神様の祝福を広めて行くために役立つことを、
編者は心から望むものです。
(ラウリ・コスケンニエミ、フィンランド・ルーテル福音協会元会長、神学教授)
 
 この日本語版では、その後の科学技術の発展や社会環境の変化に応じて、
テキストの内容を一部現代化しています。
また、翻訳の際には多少の変更を施した場合もあることをお断りしておきます。
(高木賢、フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士) 

2018年9月21日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ヨハネによる福音書」11章25~26節(その3)

イエス様はこう言われます、
「私は復活であり、命です。
私を信じる者は、死んでも生きます。
生きていて私を信じている者は、決して死にません。
あなたはそれを信じますか」。
(「ヨハネによる福音書」112526節)(その3)

キリストは復活を通して、
かつて地上に生を受けた人間を全員一つに集められます。
それと同時に、
キリスト御自身が
言葉に尽くしがたい大いなる権威をまとって降りて来られ、
裁きの座にお着きになります。
天の軍勢は裁き主のまわりを旋回しています。
キリストは、善人にも悪人にも全員に対してお姿を現されます。
それで、私たちは皆、公けにキリストの御前に立ちます。
誰一人として、キリストから身を隠すことはできません。


以上でマルティン・ルター「活きるために」の配信を終わります。 
次回からは「力なき者に力を」の配信を始めます。

2018年9月14日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ヨハネによる福音書」11章25~26節(その2)

イエス様はこう言われます、
「私は復活であり、命です。
私を信じる者は、死んでも生きます。
生きていて私を信じている者は、決して死にません。
あなたはそれを信じますか」。
(「ヨハネによる福音書」112526節)(その2)

私たちは最後の審判の日に備えて、その日を喜んで待ち望むべきです。
(中略)
私たちを罪と死と地獄の支配から贖い出してくださったお方を
待ち望むようにして。

神様がたたえられますように。
キリストがこの世とその専横者である悪魔とに勝利したので、
罪はもはや私たちを支配できず、
死も私たちを呑み込むことができないことを、
私たちは知っています。
このことについて、私たちキリスト信仰者は、
世の子ら(つまり、この世に流されて生きている人々)が
世俗的な繁栄や幸福や富や栄光や権力などについて感じる喜びよりも、
はるかに大きな喜びを覚えるべきところです。
なぜなら、
そのことについて証言している聖書が誤ることはありえないからです。

聖書の他にも私たちには
キリスト信仰者たることを証する明確な目印として、
聖なる洗礼と聖餐式、罪の告白と赦しの宣言があります。

キリストが私たちの花婿であることをよくわかっている人は、
黄金の技能の持ち主であり、
鋭敏な博士、救いにあずかっている人ということになります。

それゆえ、私たちは、
「主よ、私たちの信仰を強めてください!」
(「ルカによる福音書」175節)、
と熱心に祈りたいと思います。
なぜなら、必要なもの(すなわち信仰)が欠けているのは、
キリストではなく、私たちだからです。

2018年9月10日月曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ヨハネによる福音書」11章25~26節(その1)

イエス様はこう言われます、
「私は復活であり、命です。
私を信じる者は、死んでも生きます。
生きていて私を信じている者は、決して死にません。
あなたはそれを信じますか」。
(「ヨハネによる福音書」112526節)(その1)

世界全体は、確かに復活があることを示しています。
木とその硬い幹からは美しい花が咲き、
そこからは、葉っぱや、枝や、甘いすてきな木の実がなります。
(中略)
あらゆる被造物は、来るべき復活の象徴でありイメージなのです。
というのは、
夏になると、それらは死からよみがえって、育ち、若芽が出るからです。
もしもすでに今まで体験したり見たりしたことがなかったなら、
そのようなことが起りえようとは、冬には誰も信じはしないことでしょう。

かの来るべき命の世界では、信仰は止みます。
その代わりに、正しく完全な行いと愛があらわれます。
信仰の代わりに来るのは、永遠の主の威光の輝きであり、
その中で私たちは神様をその本来のお姿のままで見ることができます。
ようやくその時になって、
哲学者や神学者のやり方でではなく、
永遠かつ天国的な神様のやり方によって、
私たちは真に完全に神様を知るようになり、
正しい理性と正しい善き意志を得るのです。

2018年9月5日水曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ペテロの第一の手紙」1章3節(その3)

 私たちの主イエス・キリストの父なる神様が
ほめたたえられますように。
御父様はその大いなる憐れみにより、
死者たちの中からのイエス・キリストの復活を通して、
私たちを活ける希望へと再生してくださいました。
(「ペテロの第一の手紙」13節)(その3)

希望とは神様の賜る徳であり、
その関心はいつでも神様にのみ向けられています。
ところで、
神様は善そのものであり、
私たちに与えられることが約束されている「憐れみ」そのものです。
約束された憐れみ(すなわち神様)以外の何か他のものに希望をおく人は、
不遜になっており、
すでに希望を捨てているのです。

キリスト信仰者が
御言葉を通して教えを受けた結果として、
信仰と希望の中で強められ、
あらゆる行いと営みを通して神様への信頼を学び、
身体と魂に必要なすべてのものを神様からいただくのを待ち望むようになる、
というのが愛の御言葉の結ぶ最初の実(よい行い)です。

神様の御心は、
私たちが幸福な時にも不幸な時にも、
神様のみに確かな信頼を寄せることです。