2016年11月30日水曜日

マルティン・ルター「活きるために」「コリントの信徒への第一の手紙」13章4~7節(その1)

愛は忍耐強く、愛は優しい。
愛は嫉妬せず、自慢せず、いばらず、
粗暴にならず、自己の利益を求めず、
悪意を抱かず、害悪を根に持たず、
不義を喜びません。
しかし、愛は真理を喜びます。
愛はすべてを覆い、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐えます。 
(「コリントの信徒への第一の手紙」1347節)

愛とは、人が他の人に対して真心をもって接し、
あらゆる善意と優しさを自分のほうから示すことにほかなりません。

キリスト信仰の道に入った人が行える最上にして最高の愛のわざは、
ちょうど自分が信仰に入ったのと同じように、
他の人たちのことも信仰に導くことであるはずです。


人間は自分を、
しかも自分のことだけを本末転倒なやり方で愛しています。
自分の立場に隣人を置き換えてみないかぎり、
この間違った態度を正すことはできません。

2016年11月16日水曜日

マルティン・ルター「活きるために」「フィリピの信徒への手紙」4章4~5節、7節(その3)

いつも主にあって喜びなさい!
もう一度言います、喜びなさい!
あなたの温和さがすべての人に知られるようになりますように。
主は近いのです。(中略)
あらゆる理性を超えた神様の平和が
あなたがたの心と思いをキリストにあって守ってくださるでしょう。
(「フィリピの信徒への手紙」445節、7節)(その3)

悲嘆の心を追い払いなさい。
悲嘆の張本人は悪魔です。
喜びをもって主に仕えなさい。
神様はあらゆる悲嘆の敵であり、
すべての御言葉、聖霊様、聖礼典、福音の御言葉によって悲嘆を追い払います。
「ベン・シラの書」(旧約聖書続編)にはこうあります、
「悲嘆は多くの人の命を奪います。
そして、悲嘆は何の役にも立ちません」
3023節)。

キリスト信仰者は喜びに満ちた人間であるはずです。
もしもそのようでないのなら、その人は悪魔に幻惑されています。

喜ぶことは何も悪いことではありません。
しかし、もしも人が何かこの世の被造物のことを喜びすぎて、
神様を忘れ、神様のよき御業に気が付かなくなり、
それらについて神様に感謝しなくなる場合には、
そのような喜びは悪いものです。
物事が順調なときには、
人はいともたやすくそのような罪に落ち込むものです。
主を畏れる者はさいわいなるかな。

2016年11月9日水曜日

マルティン・ルター「活きるために」「フィリピの信徒への手紙」4章4~5節、7節(その2)

いつも主にあって喜びなさい!
もう一度言います、喜びなさい!
あなたの温和さがすべての人に知られるようになりますように。
主は近いのです。(中略)
あらゆる理性を超えた神様の平和が
あなたがたの心と思いをキリストにあって守ってくださるでしょう。
(「フィリピの信徒への手紙」445節、7節)(その2)

キリスト信仰者は非常に勇敢な民であるべきです。
しかしまた、キリスト信仰者は
真面目な優しさと優しい真面目さとを兼ね備えた親切な民でもあるべきです。
ちょうど、
福音がキリストの人生をその模範として私たちに提示しているように。

自分の罪を泣くべきところなのに、
私たちは笑います。

キリストが私たちのために死んで、
(信仰により)私たちが永遠の命を価なしでいただけるように
準備してくださったのだからこそ、
笑ったり小躍りしたりして心から喜ぶべきところなのに、
私たちは泣きます。

こうなる理由は、
私たちがキリストにある喜びを
自分で好む世の喜びよりも高く評価していないからか、
あるいは、
罪と神様の怒りが本当に私たちを深く傷つけるので、
キリストにある慰めを受け入れる意志も力も失くしてしまうからです。

2016年11月2日水曜日

マルティン・ルター「活きるために」「フィリピの信徒への手紙」4章4~5節、7節(その1)

いつも主にあって喜びなさい!
もう一度言います、喜びなさい!
あなたの温和さがすべての人に知られるようになりますように。
主は近いのです。(中略)
あらゆる理性を超えた神様の平和が
あなたがたの心と思いをキリストにあって守ってくださるでしょう。
(「フィリピの信徒への手紙」445節、7節)(その1)

人が神様からいただく最良の態度は、朗らかな喜ぶ心です。


神様は私たちが喜ぶことを望まれ、陰鬱な心を憎まれます。
私たちが鬱々と生きることが御心に適うとしたら、
決して神様は太陽も月も世界のその他の宝物も
私たちに賜らなかったことでしょう。
しかし、これらすべてのものによって
神様は私たちを喜ばせてくださるのです。
もしもそのおつもりがなければ、
神様はきっと暗闇を造られ、
規則的に毎朝太陽が昇り毎年夏が来ることを
お許しにはならなかったでしょうから。

喜びを基準として、
私たちは自らの信仰の足りなさを知ることができます。
なぜなら、私たちは強く信じれば信じるほど、
必然的に、より力強く喜ぶようになるはずだからです。

私たちには悲しむべきことよりも喜ぶべきことの方がたくさんあります。
なぜなら、私たちの希望は神様の中にあるからです。
神様はこう言われています、
「私が活きている[1]ので、あなたがたも活きることになります[2]
(「ヨハネによる福音書」1419節)。

しかし、悲嘆するのは私たちにとっては生まれつきの傾向です。
悲嘆の神である悪魔は私たちを殺そうとしますが、
主なる神様は私たちを守ってくださいます。



[1] ギリシア語の動詞は現在形。
[2] ギリシア語の動詞は未来形。