2019年4月25日木曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」15章17節「確かなことと不確かなこと」

「確かなことと不確かなこと」

もしもキリストがよみがえらされていないのならば、
あなたがたの信仰は無益であり、
あなたがたは依然として罪の中にいることになります。
(「コリントの信徒への第一の手紙」1517節)

神様は
私たちが抱くさまざまな人生の問いに対して正しい答えが得られるよう、
適切に問題を設定する仕方を教えてくださいます。

人が「確実である」とみなす多くのことは、実は確かなものではありません。
それらは実現できないものだったり、
人の手には負えないものだったりします。

その一方では、
自分のこの世と永遠の世界での命を左右する
多くの重大な決断を下さなければならないとき、
人は「確かな答えがわからない」という不安にとらわれます。

なぜ生きているのか。
死とは何か。
死んだ後どうなるのか。
神様と平和な関係を保つにはどうすべきか。
これらの問いかけには答えが得られないままになり、
目に見えることだけが確かであるとみなされがちです。
「確実なのは罪の負債と死だけである」と。
  
パウロはこれら「不確かなこと」と「問いかけ」に関して
まったく別の形で答えを与えることができることを示しています。
イエス様が死者の中からよみがえったことが確かでありさえすれば、
この世のことは不確かであってもかまわない、
というのが彼の態度です。

イエス様の復活という確かな真理は、
神様が私たちの罪を赦し
私たちが義とされたことを宣言なさる根拠になっています。
私たちの死すべき身体も「栄光の身体」として死者の中からよみがえります。

「イエス様は罪人を救うためにこの世に来られた」
という御言葉は今日でも確実です。
イエス様を信じる人はひとりも滅びません。
その人は永遠の命をいただきます。
この世は消え去ります。
しかし、神様の御言葉とそれを信じる人は神様と共に永遠に活きます。

(祈り)神様、不確かなことに頼らないようにどうか私たちを守ってください。
あなたの確かな御言葉に私たちをしっかり結びつけてください。アーメン。
(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」155058

2019年4月10日水曜日

「力なき者に力を」「ルカによる福音書」24章32節より「燃える心」

「燃える心」

旅の途中、
あの方が私たちに話してくださっていた間、
また聖書を私たちに説き明かしてくださっていた間、
私たちの心は私たちのうちでずっと燃えていたではないですか。
(「ルカによる福音書」2432節より)

キリスト信仰者は皆、信仰が試される辛い時期を経験します。
そのような時には、
イエス様が復活されたイースターの日の夕方に
エマオへの道を急いでいた二人の弟子たちのことを思い出すのがよいでしょう。

イエス様が聖書全体にわたって御自分について書いてあることを
二人の弟子に説き明かされた時に、
弟子たちはそれまで彼らがとらわれていた暗い気持ちが
根拠のないものであることに気がつきました。
メシア(すなわちキリスト)が死の受難を受け復活することを
旧約聖書の預言者たちがすでに予言していたことを知って、
彼らは心の平安を取り戻し、
信仰に基づく希望を快活に保つことができるようになりました。
「旅の途中、あの方が、私たちに話してくださっていた間、
また聖書を私たちに説き明かしてくださっていた間、
私たちの心は私たちのうちでずっと燃えていたではないですか」
と彼らは語り合いました。
 
キリストについての福音を聴いたり、
神様の御言葉を読んだりする時に、
私たちの心は燃え上がり、
イエス様が共にいてくださることを実感します。
私たちはこのような瞬間を慕い求めています。
なぜなら、イエス様は次のように約束なさっているからです、
「二人または三人が私の名によって集まっているところには、
私もその只中にいます」
(「マタイによる福音書」1820節)。

イエス様がこのように話しかけてくださっているのですから、
私たちも大胆な信仰、燃える愛、喜びの希望を持とうではありませんか。
活きた信仰を与えるキリストの福音に喜んで耳を傾け、
他の人にもそれを宣べ伝えていこうではありませんか。

(祈り)
イエス様、私たちが愛し信じることができるように、
どうか私たちと共に歩んでください。
戦いの只中でも勇気を与えてください。
私たちの希望はあなたのうちに安らぎを見出します。
イエス様が共にいてくださるので、夜もまた昼のようです。アーメン。
(「マタイによる福音書」6118節)

2019年4月3日水曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第二の手紙」12章9節より「病床で」

「病床で」

私の恵みはあなたに対して十分です。
私の力は弱いところに完全にあらわれます。
(「コリントの信徒への第二の手紙」129節より)

病院での経験はキリスト信仰者にとって大切なことです。

病院には迷惑な客も訪れます。
告発の専門家である「魂の敵」(サタン、悪魔)が病院に来て、
私たちが神様の愛について疑いを抱くように仕向けようとします。
子どもの頃から今に至るまで、
私たちが行ってきた数々の罪がいかにひどいものだったか、
魂の敵は私たちの面前でいちいちあげつらいます。
魂の敵は私たちの上にこれから起こることを、
いかにも恐ろしげに描いて見せます。

悩み苦しんでいる時に、私たちは
「神様が私を愛してくださっていると、どうして私はわかるのだろう」
という疑念にとらわれます。
私たちの心がそのような状態にある時に、
「もちろん神様は今でも私を愛してくださっている」
と自分に言い聞かせるのは難しいでしょう。
弱りきっている時には、
実際に恢復する以外には
神様が私を愛している証は存在しないように思えてしまいます。

パウロが苦悩の只中で祈ったとき、神様は
「私の恵みはあなたに対して十分です。
私の力は弱いところに完全にあらわれます」
とお答えになりました。

病の床は怒れる神様と出会う場所ではありません。
それとは逆に
「神様の御子イエス・キリストの血が私たちをあらゆる罪から清めてくださる」
(「ヨハネの第一の手紙」17節より)
と喜びをもって告白できる場所なのです。

神様はあたかも次のように言われているかのようです。
「愛する子よ、
(健康など)この世で支えとするものがすべてなくなっても、
あわててはいけません。
こうしたことを通して、
恵みにすっかり委ねて全くの憐れみにより活きることがどういうことであるか、
あなたはわかるようになるのですから」。

(祈り)主よ、
私の人生のすべての局面は
あなたの愛が形を整えてくださったものであることを
私が心に留めることができるように、
どうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」30