2019年12月4日水曜日

「力なき者に力を」「エフェソの信徒への手紙」2章19節「聖徒の群れ」

「聖徒の群れ」

あなたがたはもはや異国人でも寄留者でもなく、
聖徒たちと同じ国籍の者であり神様の家族なのです。
(「エフェソの信徒への手紙」219節)

生来、人間は神様の恵みやイエス様とは親しみがなく、
神様の御国から遠いところにいます。

ところが、異国人でも寄留者でもない民がいます。
その民は聖徒たちと同じ国籍の者です。
キリストのうちにある、言葉では表せないほど豊かな恵みにより、
神様は彼らを聖なる者としてくださいました。
聖霊様は洗礼と信仰を通して彼らを新しく造ってくださいました。
彼らはキリストを信じる者、神様の子ども、
神様の御国の臣民、天国を継ぐ者なのです。

この聖徒の群れは天の御国への旅を続けています。
彼らはさまざまな民族、種族、
実に多様な社会的地位にある人々から構成されています。
彼らは互いに非常に異なっていますが、キリストにあってひとつなのです。
多くの人は貧しく、無名で、自分の十字架を負っています。
しかし、彼らは神様の民、祝福された民なのです。

天国への旅を続ける数え切れないほど多くの聖徒の群れが実際に存在します。
私たちもこのグループの一員となれるのは限りない恵みです。
もはや私たちは異国人でも寄留者でもなく、
聖徒たちと同じ国籍の者、神様の家族、
神様の瞳に等しいかけがえのない存在なのです。

(祈り)私たちを愛し、血によって罪から解放し、
父なる神様の王族また祭司としてくださったこの方に
栄光と力とがいつも永遠にありますように。アーメン。
(関連聖句)「ペテロの第一の手紙」2910

2019年11月27日水曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」22章21節より「国旗と十字架」

「国旗と十字架」

それでは、皇帝のものは皇帝に、神様のものは神様に返しなさい。
(「マタイによる福音書」2221節より)

どの国民も彼らが同じグループに所属していることを表す目印をもっています。
祖国を愛する者にとって国旗とは国と国民、独立と自由を代表する目印です。
また国旗は祖国のために払われた犠牲と労苦を思い起こさせます。

たとえば、北欧諸国の国旗には十字架が印されています。
もともとこの印は
キリストの十字架における贖いの御業を証する国民たろうとする
北欧の人々の意思の表明でした。

このように国旗には深い意味があります。
しかし、十字架の意味はさらに深いものです。
祖国のために自らの命を投げ出した人々のことを覚えるとき、
私たちの心は感謝の念で満たされます。
私たちにも祖国の繁栄を見守り、そのために自らを犠牲にする覚悟があります。
それと同じように、
十字架は神様の御子が十字架の上で流された聖なる血、苦難と死によって
全人類が贖われたことを私たちに思い起こさせます。
十字架はイエス様の御国の目印です。
十字架は私たちを暗闇の諸力との戦いのために集結させ、
より大胆に信じるよう、より熱く愛するよう、より我慢強く奉仕するように
助けてくれます。

祖国の裏切り者を私たちは憎みます。
私たちも天の祖国を裏切ったりしないように、
神様の御国がこの世で進展していくのを妨げたり難しくしたりしないように
我が身を正していきましょう。

(祈り)主よ、私たちの祖国の自由を守り、国民に祝福をお与えください。
あなたの恵みを国と国民の心とに降り注いでください。アーメン。
(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」1317

2019年11月20日水曜日

「力なき者に力を」「箴言」1章10節「悪い友」

「悪い友」

わが子よ、罪を行う者があなたを勧誘しても、それに従ってはなりません。
(「箴言」110節)

良い友もいれば悪い友もいます。
良い友は正しい道を歩む助けとなり、悪い友は間違った道に引き込みます。

ダヴィデ王の息子アムノンには悪い友がいました。
彼はアムノンが罪を犯すようにそそのかし、その罪は死をもたらしました
(「サムエル記下」13章)。

破滅の道に導く友がいます。

特に若者は、
自分をだめにするような悪い友人関係に巻き込まれる危険があります。
罪を犯すように誘惑され、
それに従ってしまうのです。

キリスト信仰者としての教育を家庭で受けた人にとっても、
悪い友人関係にすっかり魅了されてしまう場合があります。

人はそれに巻き込まれると、
良心が汚されて罪悪感を覚えます。
その人を愛している家族や友人は悲しみ、
その人自身も後悔の念に苛まれます。
神様の怒り、さらには永遠の地獄での苦しみがその人を待ち受けています。

どのような人と付き合うか、よく注意しましょう。
友情の真価は、
その友が天国への旅を助けてくれるかどうかによって
正しく評価することができます。

しかしまず何よりも、
イエス様と近しい関係を保って生きていきましょう。
正しいことをしっかり守って悪いことに反対する力を
イエス様は与えてくださいます。
イエス様の友情を失わないようにしましょう。
「もしも私が命じることをあなたがたが行うならば、あなたがたは私の友です」
また「私はあなたがたのことを友と呼びました」
とイエス様は言っておられます
(「ヨハネによる福音書」151415節)。

イエス様は父なる神様の大いなる御心を私たちに啓示してくださいました。
イエス様への信仰を通して罪深い者は救われるのです。

(祈り)主よ、
清い心であなたに救いを叫び求める人々と共に
義と信仰と愛と平和を実践していけるように、
どうか私たちをお助けください。
(関連聖句)「ルカによる福音書」225462

2019年11月13日水曜日

「力なき者に力を」「サムエル記上」18章1節「旅の友」

「旅の友」

ダヴィデがサウルに語り終えたとき、
ヨナタンの魂はダヴィデの魂に結びつき、
ヨナタンは自分の魂のようにダヴィデを愛しました。
(「サムエル記上」181節)

それは忘れがたい友情でした。
多くの絆が二人の若者を結び付けました。
一番強い絆は、神様への一致した信仰でした。
この信仰は彼らの友情を聖なるものとし、美しく飾りました。
神様の子どもとして彼らは互いに支え合い、共に信仰の道を歩みました。

イエス様は私たちの最高の友です。
私たちのために命を捨てた友、実の兄弟姉妹よりも忠実な友です。

人は、旅の途中で道連れが欲しいと思うものです。
イエス様を知っていて愛しており天の御国への旅をしている人を
友として選びましょう。
信仰について語り合うことができて試練の時には支えてくれる友が
私たちには必要です。
天の御国への旅を妨げるのではなく、励ましてくれる友が
必要なのです。

このような友がいる人は幸せです。
しかし、もしも私が本当にそのような友を望むなら、
まず私が相手に対してそのような友でなければなりません。
はたして私はそのような者でしょうか。

(祈り)
主イエス様、
天の御国への旅を助けてくれる友を私にお与えください。
私自身も他の人々に対してそのような者となれるようにお助けください。
救い主よ、
私の聖なる兄であり友であられるあなたに
いつでも頼り切ることができるように私をお助けください。
アーメン。
(関連聖句)「ヨハネによる福音書」151217

2019年11月5日火曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの黙示録」7章9節より「玉座の御前で」

「玉座の御前で」

見なさい、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、
誰も数え切れないほどの大勢の群集が白い衣を身にまとい、
棕櫚の枝を手に持って、御座と小羊との御前に立っています。
(「ヨハネの黙示録」79節より)

昔の時代には
王族に個人的に謁見したり王宮に住めたりすることは大変名誉なことでした。

主によってあがなわれた人々は天の御国でまさにこのような光栄に浴します。
彼らは「王の中の王」の御前にずっと居続けるのです。
彼らは立っています。
もう何も覆い隠したり恐れたりする必要がないからです。
彼らはすっかり心を開いて清々しく立っています。
神の小羊がそれを望んでおられることを知っているからです。

旧約聖書の預言者イザヤはかつて主の栄光を目にしたときに
「ああ、なんということだ。私は声を失う。
私は汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住んでいるのに、
私の目が万軍の主なる王を見たのだから」
(「イザヤ書」65節)と叫びました。

しかし、神の小羊が世の罪を取り除いてくださったので、
もう何も恐れる必要はなくなりました。
私たちは神の小羊を面と向かって見つめることができるのです。

ついに順番が回ってきて、
時間の存在するこの世界の外側すなわち永遠の世へと私たちが移される時に
「私たちは天の御国に入れていただいた。
自分の衣を洗って、小羊の血で純白にしていただいた」
と言えることほど素晴らしい言葉は他にありません。

残るは次の質問だけです。
「いつか順番が回ってきて、あなたが墓に安らかに横たわる時に、
あなたもまた上と同じように言えますか」
という質問です。

(祈り)主よ、
私たちが信仰を保って「命の道」を歩むことができるように、お助けください。
私がこの世を去る時、
あなたの御傷のゆえに私を天の御国の聖徒の群れに加えていただけますように、
どうかお助けください。アーメン。
(関連聖句)「ヨハネの黙示録」71317

2019年10月25日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」6章33節「第一に神様の御国を」

「第一に神様の御国を」
 
第一に神様の御国と神様の義とを求めなさい。
そうすれば、これらもすべて添えてあなたがたに与えられるでしょう。 
(「マタイによる福音書」633節)

神様を拒絶する態度がキリスト教にとって一番危険で手強い敵であることを、
教会は経験してきました。
こうした態度には
物質中心主義的な生活が密接に関係していることがよくあります。
すなわち、
この世的な意味での善いもの、食べ物、金銭、財産、権力などが
あらゆることの中心を占めるようになってしまうのです。

「第一に神様の御国を求めなさい」とイエス様は教えられました。
そうすれば、それに加えて他のすべてのものも私たちに与えられるのです。
イエス様が荒野で5千人に食べ物を与えられたとき、
彼らはイエス様を自分たちの王にしようとしました。
いかに私たちの生活が財産や快適さや快楽などに依存しているか
自覚している人がはたしてどれだけいるでしょうか。
高い生活水準が彼らの「神」となってしまい、
その結果として、真の神様のことが忘れられてしまうのです。
しかし、これは実に愚かしいことです。
たとえたくさんのお金が預金してある銀行口座を持っていたとしても、
またたとえ快適きわまりない生活を送っていたとしても、
たくさんのお金や快適な生活は
人間の飢え乾いている魂に糧を与えることはできません。

神様が私たちの人生にとって一番大切な存在になり、
私たちが神様の御子の十字架のもとにひれ伏す時、
ようやく私たちは本当に豊かな人生を送ることができるようになります。
イエス様への信仰は私たちが持ちうる一番大きな富です。
また私たちは信仰を通して
神様が私たちにくださるこの世における賜物を正しく用いることを学ぶのです。
 
(祈り)
主よ、どうか私たちをマモン(お金や財産)の桎梏から解き放ってください。
そして、私たちが第一にあなたの御国を求めていくように助けてください。
また、そのようにするとき、
天の御国に加えてその他必要なものもすべていただけることを
私たちが実際に経験できるようになさってください。アーメン。
(関連聖句)「ルカによる福音書」121521

2019年10月17日木曜日

「力なき者に力を」「ヨハネの第一の手紙」2章15、17節より「旅人である私たち」

「旅人である私たち」

あなたがたは世と世にあるものとを愛してはいけません。
(中略)世と世の欲とは過ぎ去るものです。
(「ヨハネの第一の手紙」21517節より)

ある家族が車で新しい我が家へと旅をしました。
長旅の間、彼らはあちらこちら興味深い場所に立ち寄りました。
しかし、そのために
「新しい我が家」という本来の目的地のことを決して忘れはしませんでした。

私たちも旅人です。
天の御父様は私たちを聖徒として
天国の栄光において受けることになっている分を
相続するのに適格な者としてくださいました。
まだ今はこの世に私たちも
本来の目的地のことを決して忘れないようにしましょう。
天の御国を忘れてしまうほどにこの世のものを愛し過ぎてはいけないのです。

永遠に所有し続けることができないようなものに執着するのは
たいへん愚かな態度です。
この世にあるものはわずかな間だけの借り物にすぎません。
救い主を知ることの大切さはそれとは比較になりません。
この世のはかないものを愛するあまりに
天の御国を継げなくなるのはあまりにも悲惨です。

イエス様の遺言は、
天の御国で私たちのために確保されている不朽の遺産を
私たち信仰者が相続するように定めています。
ですから、
私たちはこの世にあるものを
あたかもそれを用いていないかのような態度で用いていくことにしましょう。

「私たちの国籍は天の御国にあります。
そこから救い主イエス・キリストが来られるのを私たちは待ち望んでいます」
(「フィリピの信徒への手紙」320節)。

(祈り)天の御国への帰郷の旅の途中で疲れたり堕落したりしないように、
この世にある間にもすでに天の御国の喜びによって
私の心がすっかり満たされるようになさってください。
荒れる嵐も人を堕落させる罪も天の御国にはもはや存在しません。
そこではいつでも全き救いの幸いと平和とに私たちはあずかれるのです。
アーメン。
(関連聖句)「マタイによる福音書」61921

2019年10月10日木曜日

「力なき者に力を」「ヨシュア記」24章15節より「幸せな家庭生活」

「幸せな家庭生活」

しかし、私と私の家族とは主に仕えます。
(「ヨシュア記」2415節より)

このようにヨシュアは宣言しました。
なぜなら、彼の家族は神様への信仰をもち、
互いに愛し合いながら生活していたからです。
こうして彼らは自分たちの幸せをかみしめ、
神様からいただいた様々な祝福を経験することができたのでした。
神様への共通の信仰のおかげで、
彼らの互いの関係もまたそれだけ緊密なものになりました。
この信仰をしっかり守って、
彼らはこれから先も生きて行きたいと思ったのです。

キリスト信仰者はひとりぼっちで天国への道を歩みたいとは思いません。
キリスト信仰者は愛の絆によって、
父や母、兄弟姉妹、妻や夫、自分の子どもたちに結び付けられています。
神様が自分の御父様でありイエス様が自分の救い主であることを知るときに、
キリスト信仰者はこの喜びを自分の愛する人々と共に分かち合い、
共に天国への道を歩みたいと願います。

イエス様への一致した信仰を家族で分かち合えるのは本当に美しいことです。
共に祈り、共に御言葉を学びながら家族皆で仲良く暮らし、
キリストが彼らの罪を赦されたように彼らも互いに赦し合います。
共に喜びと悲しみを分かち合い、共に神様の祝福を経験します。

悪魔はこのような信仰者の家庭生活を憎み、その円満さを壊そうとし、
キリスト信仰者が家庭を築くのを妨げようとします。
自分の家にイエス様が住んでくださっている民や人々は幸せです。
天の御父様の永遠の家に引っ越す時まで、
このような天の御国の家の雛形(すなわちキリスト信仰者の家庭)を
守り抜こうではありませんか。

(祈り)イエス様、どうか私たちの家にお住まいください。
そして、家族全員があなたにお仕えするようになさってください。
アーメン。
(関連聖句)「使徒言行録」162534

2019年9月27日金曜日

「力なき者に力を」「創世記」12章8節より「聖壇」

「聖壇」

そこに彼(アブラム)は主のために祭壇を築いて、主の御名を呼びました。
(「創世記」128節より)

アブラハム(アブラムの新しい名前)は
主が彼に約束なさった地で異国人として暮らしました。
どこにも定住せずに、仮住まいとした幕屋を張って生活しました。
彼の視線は天の故郷へと向けられていました。
一時的に住むことになった場所で彼は祭壇を築き、主の御名を呼びました。

キリストの血によって「キリストのもの」として買い取られた
「恵みの子」(キリスト信仰者のこと)も
この地上ではどこにも永住できない余所者の異国人です。
「恵みの子」の心は天のお父様の家にしっかり結びついています。
イエス様はそこに「恵みの子」のために居場所を用意してくださっています。
「恵みの子」のこの世での歩みがどのようなものであったのかについては、
アブラハムの場合と同じように、
その人が人生の旅の途中で築いた数々の「祭壇」から知ることができます。

教会の礼拝の聖壇で「恵みの子」は
福音の説教と聖礼典を通して主の御声を聴きます。
家庭でも「恵みの子」は
御言葉の聖壇のまわりに家族を集めて主に感謝し祈ります。
個人的な心の聖壇でも「恵みの子」は
感謝と願いを込めて恵みの玉座に近づきます。

上に述べたこれらの聖壇では、
もはや罪を贖うための和解の犠牲を捧げません。
なぜなら、イエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で、
私たちの罪を帳消しにする力を永遠に持っている「犠牲の供物」
となってくださったからです。
そのことを受けて、キリスト信仰者は
これらの聖壇で罪の赦しの恵みを通して力をいただくのです。
「恵みの子」は感謝や忍耐や愛を捧げます。
そして、これらの捧げ物は
イエス様を通して神様に喜んで受け入れていただけます。

(祈り)主よ、
私があなたのために築いてきた「聖壇」が
この世で私が「主に属する異邦人」(天の御国に属する者)として
歩んできたことの証となりますように、どうか助けてください。
憐れみ深い神様、
私がそれらの聖壇で常にあなたから助けをいただけますように。アーメン。
(関連聖句)「ヘブライの信徒への手紙」11816

2019年9月18日水曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」15章58節「神様の同僚」

「神様の同僚」
 
だから、私の愛する兄弟たちよ、
堅く立って揺るぐことなく、いつも主のわざに満たされなさい。
主にあって、あなたがたの労苦が無駄ではないことを、
あなたがたは知っているからです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」1558節)

「もしも私の王国の男たちが全員兵士だったなら、全世界を征服できるのだが」
とペルシア王クセルクセスは言いました。
もしも自分がキリスト信仰者であることを公言する人が
実際にも主のために熱心に働くキリスト信仰者であるならば、
主イエスもはるかに速やかに「世界征服」を実現なさることでしょう。

「神様の同僚」として私たちは
自分に与えられている時間、才能、お金を
喜んで主の御業のために使うべきです。
十字架の死と復活により、
キリストは私たちに救いをすっかり用意してくださっています。
主に仕えることを通して私たちは、
自分がこのキリストの御業に対して実際にも感謝を捧げている
「神様の子ども」であることを証することを望みます。
神様への愛は神様への奉仕の心を与えるものだからです。

キリストは弟子たちに、
すべての国民を御自分の弟子にする使命をお与えになりました。
また、御自分が日々彼らと共にいてくださるという約束もくださいました。
彼ら弟子たちは「イエス様の同僚」でした。
実際に福音が世界中に今まで広められてきたという歴史的事実は、
私たちを強めてくださるイエス様のうちにいるかぎり
私たちには何でもできることを証明しています。

この世で人々が一致協力して何かを行うのも、
たしかにある種の力の行使ではあります。
しかし、私たちキリスト信仰者は
キリストの思いをもってキリストと共に行動するときにこそ、
キリストが私たちにゆだねられた使命を果たすことができるのです。
キリストは私たちの力、お金、時間、体力を聖別なさいます。
なぜなら、キリストの祝福に限界などはないからです。

(祈り)憐れみ深いよき羊飼いよ、
どうか御言葉を蒔いていく伝道の仕事を祝福してください。
ゲッセマネでのつらい戦い、大いなる贖いの日、復活の力のことを、
どうかそれを信じる者たちの心にしっかり刻み込んでください。アーメン。
(「コリントの信徒への第一の手紙」319節)

2019年9月11日水曜日

「力なき者に力を」「出エジプト記」32章26節より「敵か、味方か」

「敵か、味方か」

モーセは宿営の門に立って
「主に属する者は私のもとへ(来なさい)」
と言いました。
(「出エジプト記」3226節より)

戦争では誰がどの側のものか知っておかなければなりません。
戦車、船、その他すべてのものに味方の目印をつけます。
誰が味方で誰が敵か、識別するのは不可欠です。

これはキリストの御国でも同じです。
誰がキリストの側の者か、
残念ながら常に明確に識別できるとはかぎりません。
もしもキリスト信仰者が時流に従い、
他の人々と同じような罪の生活を送るなら、
キリスト信仰者としての目印は消えてしまいます。

キリスト信仰者が主イエスに従う従順さを忘れてしまっている場合が
時折見受けられます。
彼らは自分が誰の側の人間か忘れてしまい、
主の軍勢から逃亡してサタンの群れに加わった者たちです。

主に属する者として私たちは主に従う意思表示を公にしたのです。
私たちは主の尊い血によって目印をつけられています。
どこで戦いが起きているか、私たちは把握しているでしょうか。
敵のことを知っているでしょうか。
この信仰の戦いでは、神様が賜った武具を正しく使用する必要があります。
使徒はこう言います、

「あらゆる祈りと願いを通して、
あらゆる時に御霊にあって祈り、
そのために、あらゆることに耐え、
すべての聖徒のために祈りつつ、
目を覚ましていなさい」
(「エフェソの信徒への手紙」618節)。

(祈り)万軍の主なる神様、
信仰の戦いを立派に行えるようにどうか私たちを訓育してください。
また、神の小羊なるイエス様の血と証の御言葉を通して、
私たちに歓喜の勝利をお与えください。アーメン。
(関連聖句)「出エジプト記」322635