2014年1月31日金曜日

「ルターの祈りの本」 十戒(その3)


私は主、あなたの神である。
あなたには、ほかの神々があってはならない。(その2)


第三に、私はざんげし、
自分の大きな罪と感謝のない心とを告白します。 
そのようなすばらしい教えと大いなる賜物を、
私は生涯を通して恥ずべきやり方で侮ってきたのであり、
数え切れないほどの偶像によって、
あなたの怒りを自分の上にかきたててきたのです。
私はそのことを悲しんでおり、憐れみをこいねがいます。


第四に、私は祈ります。
私の主、私の神様、あなたの恵みにより、
私があなたのこの戒めを日々よりよく学んで理解し、
心からの信頼によって、戒めどおりに行うことができるように、
助けてください。

私がもうあなたのことを忘れたり、
あなたへの感謝をやめたりしないように、
また、いかなる偶像も捜し求めたりしないように、
この世やあなたが造られたほかの如何なるものからも
慰めを得ようとしたりはしないように、
私の神様であるあなたお一人の中のみに留まることができるように、
どうか私の心をお守りください。
愛する主、父なる神様。
アーメン。

2014年1月29日水曜日

「ルターの祈りの本」 十戒(その2)


私は主、あなたの神である。
あなたには、ほかの神々があってはならない。(その1)


永遠なる神様、あなたは、
すべてにおいて御自分に心から信頼することを、
私に教え、要求なさっています。
あなたは、「私の神でありつづけたい」、という真に堅い意志をおもちです。
私も、あなたが私の神様であることを受け入れなければなりません。
さもないと、永遠の救いを失ってしまいます。
私の心は、あなた以外の何ものにも、
よりどころを求めたり、信頼を寄せたりしてはなりません。
たとえそれが、
自分がもっているものや、栄光や、頭のよさや、
力や、聖さや、他の何であろうとも。


次に、私は、あなたのかぎりない憐れみを感謝します。
あなたは真の父親にふさわしいお方です。
あなたに祈りもせず、あなたを求めもせず、
あなたから褒美をいただくようなことをしたこともない
私のような失格者のために、
あなたは低みに下ってきて、私の神様となり、
私の面倒を見ることを、御自分から申し出てくださいました。
そして、あなたは、
「困ったときには、いつでも私の慰めと守りと助けと力になろう」、
と言ってくださいました。
霊的なことが見えない惨めな人間である私たちは、
今までさまざまな偶像を探し求めてきました。
もしもあなた御自身が、
「私たちの神様でありつづけたい」、ということを、
人間の言葉によって私たちに公に告げてくださらなかったならば、
今でも私たちは偶像を追い求めつづけていることでしょう。

2014年1月27日月曜日

「ルターの祈りの本」 十戒(その1)


十戒についての祈り 

「主の祈り」を祈る前に、時と機会が許せば、
私は十戒についても「主の祈り」と同じようなことを行います。
できうるかぎり正しく祈るための準備をするために、
十戒を一節ずつ取り上げます。
そして、それぞれの戒めについて、
4部あるいは4層を互いに結び合わせた「小さな冠」を作ります。


つまり、こういうことです。

それぞれの戒めを
まずはじめに「教え」として扱います。
戒めはそれ自体「教え」なのですから。
そして、主なる神様が私に、
それを通して何をどれほど真剣に要求なさっているか、考えます。

次に、それについて「感謝」します。

第三番目に、「罪の告白」をします。

第四番目に、戒め自体の言葉によって、
あるいは、戒めと同じ方向の考えや言葉によって、
「祈り」ます。

2014年1月24日金曜日

「ルターの祈りの本」 主の祈り(その13)



悪より救い出したまえ。(その6)


このようなことを、
私はふだん「主の祈り」を祈るときに考えています。
今でも私は、子供のように「主の祈り」から乳を吸っていますし、
お年寄りのように、「主の祈り」から飲み、食べています。
それでいてちっとも飽きることがありません。
「主の祈り」は(私が深く愛している)「詩篇」よりも
さらに素晴らしい最高の祈りである、と私は思います。
本当に、「真の師匠」がそれを作り教えてくださったのです。

一番ひどいのは、
そのように素晴らしい師匠のそのすばらしい祈りが、
世界中で、不真面目に口先だけで唱えられている、
ということです。
一年の間に何千回も「主の祈り」を祈る人は、
おそらく大勢いることでしょう。
しかし、たとえ千年間にわたってそのように祈ったとしても、
彼らは
「主の祈り」を一語たりとも正しくは祈ることにはならないだろうし、
「主の祈り」の一滴さえも味わうことがないでしょう。

結論を言えば、
「主の祈り」は(神様の御名と御言葉と同じように)、
この世では「最も偉大な殉教者」なのです。
なぜなら、
人は皆それぞれが、「主の祈り」をよく考えもせずに誤用しているし、
それを正しく用いることで慰めと喜びを得る人は稀だからです。