2019年9月27日金曜日

「力なき者に力を」「創世記」12章8節より「聖壇」

「聖壇」

そこに彼(アブラム)は主のために祭壇を築いて、主の御名を呼びました。
(「創世記」128節より)

アブラハム(アブラムの新しい名前)は
主が彼に約束なさった地で異国人として暮らしました。
どこにも定住せずに、仮住まいとした幕屋を張って生活しました。
彼の視線は天の故郷へと向けられていました。
一時的に住むことになった場所で彼は祭壇を築き、主の御名を呼びました。

キリストの血によって「キリストのもの」として買い取られた
「恵みの子」(キリスト信仰者のこと)も
この地上ではどこにも永住できない余所者の異国人です。
「恵みの子」の心は天のお父様の家にしっかり結びついています。
イエス様はそこに「恵みの子」のために居場所を用意してくださっています。
「恵みの子」のこの世での歩みがどのようなものであったのかについては、
アブラハムの場合と同じように、
その人が人生の旅の途中で築いた数々の「祭壇」から知ることができます。

教会の礼拝の聖壇で「恵みの子」は
福音の説教と聖礼典を通して主の御声を聴きます。
家庭でも「恵みの子」は
御言葉の聖壇のまわりに家族を集めて主に感謝し祈ります。
個人的な心の聖壇でも「恵みの子」は
感謝と願いを込めて恵みの玉座に近づきます。

上に述べたこれらの聖壇では、
もはや罪を贖うための和解の犠牲を捧げません。
なぜなら、イエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で、
私たちの罪を帳消しにする力を永遠に持っている「犠牲の供物」
となってくださったからです。
そのことを受けて、キリスト信仰者は
これらの聖壇で罪の赦しの恵みを通して力をいただくのです。
「恵みの子」は感謝や忍耐や愛を捧げます。
そして、これらの捧げ物は
イエス様を通して神様に喜んで受け入れていただけます。

(祈り)主よ、
私があなたのために築いてきた「聖壇」が
この世で私が「主に属する異邦人」(天の御国に属する者)として
歩んできたことの証となりますように、どうか助けてください。
憐れみ深い神様、
私がそれらの聖壇で常にあなたから助けをいただけますように。アーメン。
(関連聖句)「ヘブライの信徒への手紙」11816

2019年9月18日水曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」15章58節「神様の同僚」

「神様の同僚」
 
だから、私の愛する兄弟たちよ、
堅く立って揺るぐことなく、いつも主のわざに満たされなさい。
主にあって、あなたがたの労苦が無駄ではないことを、
あなたがたは知っているからです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」1558節)

「もしも私の王国の男たちが全員兵士だったなら、全世界を征服できるのだが」
とペルシア王クセルクセスは言いました。
もしも自分がキリスト信仰者であることを公言する人が
実際にも主のために熱心に働くキリスト信仰者であるならば、
主イエスもはるかに速やかに「世界征服」を実現なさることでしょう。

「神様の同僚」として私たちは
自分に与えられている時間、才能、お金を
喜んで主の御業のために使うべきです。
十字架の死と復活により、
キリストは私たちに救いをすっかり用意してくださっています。
主に仕えることを通して私たちは、
自分がこのキリストの御業に対して実際にも感謝を捧げている
「神様の子ども」であることを証することを望みます。
神様への愛は神様への奉仕の心を与えるものだからです。

キリストは弟子たちに、
すべての国民を御自分の弟子にする使命をお与えになりました。
また、御自分が日々彼らと共にいてくださるという約束もくださいました。
彼ら弟子たちは「イエス様の同僚」でした。
実際に福音が世界中に今まで広められてきたという歴史的事実は、
私たちを強めてくださるイエス様のうちにいるかぎり
私たちには何でもできることを証明しています。

この世で人々が一致協力して何かを行うのも、
たしかにある種の力の行使ではあります。
しかし、私たちキリスト信仰者は
キリストの思いをもってキリストと共に行動するときにこそ、
キリストが私たちにゆだねられた使命を果たすことができるのです。
キリストは私たちの力、お金、時間、体力を聖別なさいます。
なぜなら、キリストの祝福に限界などはないからです。

(祈り)憐れみ深いよき羊飼いよ、
どうか御言葉を蒔いていく伝道の仕事を祝福してください。
ゲッセマネでのつらい戦い、大いなる贖いの日、復活の力のことを、
どうかそれを信じる者たちの心にしっかり刻み込んでください。アーメン。
(「コリントの信徒への第一の手紙」319節)

2019年9月11日水曜日

「力なき者に力を」「出エジプト記」32章26節より「敵か、味方か」

「敵か、味方か」

モーセは宿営の門に立って
「主に属する者は私のもとへ(来なさい)」
と言いました。
(「出エジプト記」3226節より)

戦争では誰がどの側のものか知っておかなければなりません。
戦車、船、その他すべてのものに味方の目印をつけます。
誰が味方で誰が敵か、識別するのは不可欠です。

これはキリストの御国でも同じです。
誰がキリストの側の者か、
残念ながら常に明確に識別できるとはかぎりません。
もしもキリスト信仰者が時流に従い、
他の人々と同じような罪の生活を送るなら、
キリスト信仰者としての目印は消えてしまいます。

キリスト信仰者が主イエスに従う従順さを忘れてしまっている場合が
時折見受けられます。
彼らは自分が誰の側の人間か忘れてしまい、
主の軍勢から逃亡してサタンの群れに加わった者たちです。

主に属する者として私たちは主に従う意思表示を公にしたのです。
私たちは主の尊い血によって目印をつけられています。
どこで戦いが起きているか、私たちは把握しているでしょうか。
敵のことを知っているでしょうか。
この信仰の戦いでは、神様が賜った武具を正しく使用する必要があります。
使徒はこう言います、

「あらゆる祈りと願いを通して、
あらゆる時に御霊にあって祈り、
そのために、あらゆることに耐え、
すべての聖徒のために祈りつつ、
目を覚ましていなさい」
(「エフェソの信徒への手紙」618節)。

(祈り)万軍の主なる神様、
信仰の戦いを立派に行えるようにどうか私たちを訓育してください。
また、神の小羊なるイエス様の血と証の御言葉を通して、
私たちに歓喜の勝利をお与えください。アーメン。
(関連聖句)「出エジプト記」322635

2019年9月6日金曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第二の手紙」9章7節より「与えなさい!」

「与えなさい!」

喜んで与える人を、神様は愛してくださいます。
(「コリントの信徒への第二の手紙」97節より)

ある牧師が
キリスト信仰者にふさわしいお金や財産の使い方について説教しました。
「私たちはまずなによりも自分自身を主にゆだね、
持てるすべてを主のためにささげなければなりません」と牧師は言いました。
すると、この説教を聴いていたある人が牧師にこう言いに行きました。
「私たちは「与えよ、与えよ!」と繰り返し聞かされています。
いつも与えることばかり。もううんざりです」。

それに対する牧師の返答は意外なものでした。
「核心をついた御意見を感謝します。
キリスト教についてこれほど素晴らしい説明を
私は今まで耳にしたことがありません」。

罪深い存在である私たち人間に対して、神様は常に与える側です。
神様は絶えず与えてくださいます。
神様は独り子イエス様を与えてくださいました。
神様は御言葉を与えてくださいました。
救い、聖霊様、信仰、新しい心を神様は与えてくださいました。
神様はあらゆる善い賜物を与えてくださるのです。

神様との関係および隣り人との関係において、
私たちは与える側でもあります。
私たちはいつも吸収してばかりいる「スポンジ」とは異なり、
いわば「管」のような存在です。
私たちを通して、
神様の多様な善性が他の人々の益となるように流れていくからです。
私たちは喜びをもたらすお手伝いをさせていただく立場に置かれています。

賜物をいただいた者として、
今度は私たちがあらゆる方法で賜り主に感謝をささげる番です。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」
(「マタイによる福音書」108節)。

(祈り)主なる神様、あなたは惜しみなく与えてくださる方です。
どうすれば自発的にまた適切な仕方で与えることができるようになるのか、
どうか私たちにも教えてください。アーメン。
(関連聖句)「マタイによる福音書」251430

2019年9月2日月曜日

「力なき者に力を」「申命記」33章27節「神様は私たちの避けどころです」

「神様は私たちの避けどころです」

あなたの避けどころは太初なる神様です。
そして、永遠なる御腕がそれを下から支えています。
(「申命記」3327節)

著名なイギリスの政治家ウィリアム・グラッドストーンは
この聖句を自分の執務室の壁に掲げていました。
「この聖句は私にとって大きな慰めだから」と彼は言っていました。

私たちの避けどころは太初なる神様です。
神様は私たちをあらゆる危険から守り、
悪から救い出し、
悲しむ私たちを慰め、
弱っている私たちに力をくださいます。

神様に避けどころを求めることを学ぶのは簡単なことではありません。
水泳の初心者もすぐに身体を水に浮かせられるようにはなりません。
「水はちゃんと身体を支えてくれる」と信じる勇気をなかなかもてないからです。
しかも水の中でばたばたもがくので、かえって沈んでしまいます。
水の中では自分で努力しなくてもふわふわ浮いて休めることに、
後になってからようやく気がつきます。

私たちも心の落ち着きを取り戻して、
自分の力でどうにかしようともがくのを止めてよいのです。
仕事など自分の義務や責任が辛い重荷と感じられ始めたら、
信仰をもって祈り、
神様にすべてをおゆだねしましょう。
この聖句の通りに、神様の永遠の御腕が私たちを支えてくれます。

神様が御腕によって私たちを支えるために、
イエス様は御手をゴルゴタの十字架に打ち付けられるべく
差し出さなければなりませんでした。
イエス様は罪深い者を一人一人、
そしてまた私のことも抱きしめてくださいます。

(祈り)愛する天の父なる神様、
私がいつもあなたの守りの中に逃げ込めるようにどうか助けてください。
あなたは疲れを知らない御手によって私を持ち上げ、
支え、救ってくださるからです。アーメン。
(関連聖句)「詩篇」3717