2011年9月30日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙8章34節より

 
地獄行きの判決を下せる人が誰かいるでしょうか。
キリスト・イエスが死なれたのです。
(「ローマの信徒への手紙」834節より)
  
悪魔よ、
もしもお前が私のことを惨めな罪人だというのなら、
「キリストは罪人のために死んでくださった」、
と私は答えよう。
しかもお前は、
私のような地獄行きの判決を受けている貧しく惨めな罪人に対して
神様がもたれている父の愛を私に思い起こさせ、
逆に神様の誉れと輝きを私に宣伝することになるのだ。
御父は御子を惜しまれず、
私たちの罪のための犠牲とされたほどに、
世を深く愛されたのだから(「ヨハネによる福音書」316節)。
さらにまたお前は、
愛する救い主イエス・キリストのよきみわざを私に思い出させる。
私のすべての罪は、私の上にではなくて、キリストの上にある。
主は私たちのすべての罪や悪をキリストの上に投げられたのだ。
御自分の民が犯した罪のゆえに、
神様はキリストが痛めつけられるままになさった。
そういうわけでお前は、
「罪人め」と私を責め立てたところで、
私を怖がらせることはできない。
逆にそれによって、
お前は私を大いに慰めることになるのだ。

 

2011年9月28日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ルカによる福音書1章49節

  
力ある方が私に偉大なことをしてくださいました。
その方のお名前は聖なるものです。
(「ルカによる福音書」149節)

マリアは特別な恵みの賜物を一々数え挙げたりはせずに、
それらをすべて、
「その方は私に偉大なことをしてくださった」、
というひとつの言葉にまとめています。
これによりマリアが私たちに教えているのは、
「御霊にあって熱心であればあるほど、
用いられる言葉の数は少なくなっていく」、
ということです。
なぜなら、マリアは
自分の考えを言葉によって説明するのはまったく不可能だ、
と感じているからです。
御霊による数少ない言葉はあまりにも大きくて深いので、
同じ御霊をいくらかでもいただいている人以外は理解できません。
(中略)
同様にキリストも、
「祈るときに、多くの言葉を用いてはいけない」、
と教えてくださっています(「マタイによる福音書」6章)。
しかし、不信仰な者たちは、
「祈りの言葉が多ければ、祈りは聞かれる」、
と思い違いしています。
  

2011年9月26日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 エフェソの信徒への手紙5章2節より


キリストが私たちを愛して
御自分を私たちのためにささげてくださったように、
あなたがたも愛の中を歩みなさい。
(「エフェソの信徒への手紙」52節より)
 
犯した罪に気がついて心がおびえているときに、
悪魔の大軍が襲いかかり、
脅しの力でキリストのみもとから引き離して絶望させるために、
罪と荒波の「洪水」でおぼれさせようとするとき、
あなたは安心してこう言えばよいのです、
「神様の御子キリストは、
義人や聖人のためではなく、
悪人や罪人のために与えられている」。
私たちは、これと同じような一連の聖書の御言葉によって心を武装しましょう。
私たちを責めて、
「お前は地獄行きの罪人だ」と言い張る悪魔に対して、
次のように答えることができるようになるためです、
「悪魔よ、お前が私を罪人呼ばわりする、まさしくそのゆえに、
わたしは義であり救いの幸せにあずかる者でありたいのだ」。
「そうだ。しかし、お前は厳しい裁きを受けるのさ」。
「いいや、そうはならない。
私の罪を帳消しにするために御自分をささげられたキリストのみもとに
私は保護を求めるからだ。
悪魔よ、
私の罪のひどさをどれほどあげつらっても、
私を恐怖や悲しみや絶望や、神様への怒りや軽蔑や侮りなどに
駆り立てることはできないぞ。
それどころか、
お前は私に、
お前自身へと向けられた武器を提供することになるのだ。
お前が私を罪人だと言うとき、
お前の剣によって、私はお前を殺し滅ぼすことになろう。
キリストはまさしく罪人のために死なれたからだ」。
  

2011年9月23日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙1章4節


(キリストは)御自身を私たちの罪のためにささげられたのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」14節)

クリスチャンに特有な知識や真の知恵は、
パウロの伝えたこれらの御言葉を厳粛に受け止めるところにあります。
すなわち、キリストが死なれたのは、私たちの義や聖のためではなく、
私たちの罪のためであった、ということです。
この罪は、本当に存在するものであり、大きく、おびただしく、数え切れず、
とても打ち勝つことができないほどのものです。
そういうわけですから、
「自分の罪は些細なものだから、自分の行いで取り去ることができるだろう」
などと思い違いしてはいけません。
また、人生の中で自分の罪の深刻さに気付かされ、
「自分の罪はあまりに大きすぎる。絶望だ」
などと落ち込む必要もありません。
このパウロの言葉を通して次のことを信じるようになりなさい、
「キリストはたんに想像上のものではない本当に存在する大きな罪のために
死んでくださったのだ。また、すでに克服された罪のためではなく
(なぜなら、どんな人間も天使も一番小さい罪にさえ勝つことができないから)、
打ち勝つことができない罪のために死んでくださったのだ」。
もしもあなたが、この信仰の教えをしっかり保っている私たち、
言い換えれば、その教えを愛し信じている人々の中に入っていないのならば、
あなたの救いはまったく失われています。

2011年9月21日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 コロサイの信徒への手紙1章20節

  
その十字架の血によって平和をつくり、
(「コロサイの信徒への手紙」120節)

キリストは天からくだり、
神様についてありとあらゆるよいことを
私たちに語ってくださいました。
つまり、御父様が私たちの罪をすべて赦して、
私たちを御自分の子供としてくださったということです。
御父様はいまや私たちの愛する父親であり、
私たちに対して平和な思いをおもちです。
イエス様は再び御父様のみもとへ行って、
神様に私たちについてありとあらゆるよいことを
こう話してくださいました、
「お父さん、彼らにはもう罪がありません。
私がそれを自分の上に引き受けて、取り去ったのです」。
このように、イエス様は
父なる神様と私たちとの間に、
また神様とすべての被造物との間に、
平和をつくってくださったのです。
  

2011年9月19日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書5章39節

あなたがたは(旧約)聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、
この聖書は私について証をしているのです。
(「ヨハネによる福音書」539節)
 
あなたがたは、「ヨハネの福音書」や使徒パウロの手紙を
全聖書の注解書とみなすことができる、と考えたことがありますか。
ヨハネの最も大切な使命は、
キリストが神様であられることを説明することでした。
旧約聖書を含めて、全聖書は御子のために書かれており、
それゆえ、御父よりも御子についてより多くの証が記されています。
パウロの伝えた御言葉に秘められた豊かさといったらどうでしょう!
彼の言葉ひとつにさえ、
「イザヤ書」や「エレミア書」に関する大まかな注釈が含まれています。
ああ、パウロはなんとすばらしい説教者でしょうか。
もちろん他の福音書記者や使徒もすばらしいのですが、
とりわけパウロとヨハネは旧約聖書を注釈することに傑出しています。
パウロなど、ある手紙のひとつの章で
4つも5つも預言書を取り扱うことさえあります。
パウロにとって、モーセ(5書)[1]や「イザヤ書」は真の愛読書でした。
モーセ(5書)や預言書はパウロに、彼が手紙を書く根拠を与えたのです。
  
 
 
[1] モーセ5書とは、旧約聖書の最初の5つの書物を指す。すなわち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数奇、申命記のことである。また、これらはヘブライ語聖書ではトーラーと呼ばれる。

2011年9月16日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 コリントの信徒への第一の手紙1章31節

 
誇る者は、主にあって誇りなさい。
(「コリントの信徒への第一の手紙」131節)
  
信仰者は皆、次のように考えなさい、
「主よ、もしもあなたが私のことを裁判にかけ、
私の生活と仕事を見たいと望まれるのでしたら、
私は、たとえ自分が洗礼者ヨハネのような存在であったとしても、
あなたの御前で耐えることができないでしょう。
あなたがその憐れみにより与えてくださったものを、
私が受け取るだけでは十分ではありません。
ここで大切なのは、真に霊的な生活だからです。
しかし、私は自分をあなたの義しい僕として誇ることができます。
それは、あなたが私に休みなく御自分の賜物をくださるからであり、
また、アブラハムに約束なさったように、
あなたは私に対してもキリストを通して憐れみ深くあることを、
約束してくださったからです。
もしも私が自分では義しくないとしても、この方は義であり、
私が聖でないとしても、この方は聖です」。
(中略)
イエス様は、私たちが、自分自身によってではなく、
イエス様によって、またイエス様を通して、
自分たちが聖であり義であることを誇るよう望んでおられます。
もしも私たちが自分のことを誇らなければならないとしたら、
私たちの状況は絶望的なものでしょう。
   

2011年9月14日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ガラテアの信徒への手紙6章6節

 
御言葉を教えを受ける人は、
教える人とすべてよいものを分け合いなさい。
(「ガラテアの信徒への手紙」66節)
  
子供たちを忠実に教育する熱心で正しい教師は、真の賞賛に値します。
私も、説教職や他の仕事を失う場合には、
学校や幼稚園の教師になりたいほどです。
なぜなら、教師の仕事は、説教職と並んで、
すべての仕事の中で一番有益で、偉大で、最高の使命だからです。
(中略)
他の人の子供たちを忠実に教育するのは、
この地上で最も素晴らしい天職です。
ほとんどの親が自分の子供の教育にさえ無関心な今の世の中では、
なおさらそうです。
  

2011年9月12日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書16章13節


真理の御霊は、
御自分から語るのではなく、
その聴くところを語って、
来るべきことをあなたがたに知らせてくださるでしょう。
(「ヨハネによる福音書」1613節)
  
キリストはここで聖霊様を説教者として紹介なさいます。
それは、
聖霊様を御言葉や説教職と分離して考える
惑わす霊に取り付かれた者たちのように、
聖霊は天国だけにいる、
などと思い違いをしないためであり、
また、聖霊様は私たちのもとにいることを望まれ、
御言葉を通して私たちを真理全体に導かれることを、
皆が知るようになるためです。
それで、私も自分を「未熟な博士」と呼びたいと思います。
それは、
雲まで舞い上がり聖霊様の羽の下にふんぞり返っている
高慢な霊たちのように、
自分のことをあまりに誇りすぎないためです。
実際に体験したことですが、
悪魔の誘いに乗って御言葉の外へと迷い出て、
雲の上のことばかり思い描いていると、
いつの間にか私は、
神様がどこにいて、自分がどこにいるのか、
さっぱりわからなくなってしまったものです。
 

2011年9月9日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ペテロの第一の手紙1章5節より

 
あなたがたは、神様の力により、信仰を通して、救いへと守られています。
(「ペテロの第一の手紙」15節より)

 
ペテロはこの御言葉で次のことを意味しています。
信仰は、私たちの中で働く、尊い神様の力であり、
救いにかかわる正しい考え方を私たちにはっきりと与えます。
そのおかげで私たちはこの世のことについて正しく判断してこう言えるのです、
「この教えは正しい、あの教えは間違っている。
この生活は正しい、あの生活は間違っている。
この行いはよい、あの行いは悪い」。
信仰をもっている人が判断することは正しく真理にかなっています。
なぜなら、
そのような人は、だまされることなく、守られており、
すべての教えを裁く者だからです。
それとは逆に、
信仰やこの神様の力がないところには、迷妄と盲目があるのみです。
そこでは、人は行いから行いへと駆けずり回ります。
理性はいつでも行いによって天国に入れてもらえることを願っており、
「ほら、この行いはあなたを天国へと導くよ。
やりなさい。そうすれば救われるよ」、
とささやくからです。
こういうことから、この世に修道院などが生まれてきたのです。
神様は、不信仰な者が行いに頼るのをほうっておかれますが、
一方では、信じている私たちのことを、
地獄へ落ちることなく救われるようにと、
正しい考え方にとどまらせてくださいます。
 

2011年9月7日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ペテロの第一の手紙1章4節

 
朽ちない、汚れのない、消えない遺産へと。
(「ペテロの第一の手紙」14節)
  
私たちはわざわざ購入しなければならないような
品物や遺産を待ち望んでいるのではありません。
私たちのためにすでに用意されている、
朽ちることも消えることもない遺産をいただく希望をもって、
私たちは生きています。
目には見えないけれども、それが私たちの永遠の持ち物なのです。
このことをしっかりと覚えておくならば、
この世での快適な生活に関してさほど心を悩ませることもなくなるでしょう。
この世の持ち物は、あっという間に汚れ、なくなりますが、
天国の持ち物は永遠に保たれ、朽ちることがありません。
さらに、この世の持ち物はすべて人を汚します。
この世の持ち物によって堕落しないほど
義しい人はこの世には一人もいないからです。
完全に清いのは天国の遺産だけです。
それを所有している者は永遠に清いままです。
この世の持ち物には必ず飽きが来ます。
しかし、天国の持ち物に飽きることはありません。
これらすべては、
キリストにあって神様の憐れみにより私たちに提供されており、
私たちは信じさえすれば、プレゼントとして「ただ」でいただけるのです。
人間の理性や心には理解できないほどこの大きな宝を、
「自分の行いの報い」として受けることができる、
などとどうして言えましょうか。
  

2011年9月5日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ヨハネによる福音書14章1節

  
あなたがたの心が動揺しないようになさい。神様を信じ、また私を信じなさい。
(「ヨハネによる福音書」141節)
  
「あなたがたの心が悲しまないようになさい」、
とイエス様は言われています、
「今や私は死んであなたがたの目の前から消え、
私のことを知らないこの世にあなたがたを置いていきます。
あなたがたは周りからさまざまな苦しみや不幸に悩まされ
脅かされることでしょう。
しかし、勇気を失ってはなりません!
私はあなたがたを圧迫したり悲しませたりは決してしない、
という私の言葉を覚えておきなさい。
もしもそのようなことが起きたら、それは間違いなく悪魔の仕業です。
羊が自分の羊飼いをその声で知るのと同じように、
あなたがたも私を「恐れるな!驚くな!」という声で見分けることができます。
私の言葉はそのまま私の思いでもあります。
他の声が聞こえるなら、それは私の声ではなく、
私の名前とペルソナに隠れて私のことを真似ている者の声です。
その声に聴き従ってはなりません」。

2011年9月2日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ホセア書13章14節

 
私は彼らを地獄の口から救い出し、死からあがないだす。
死よ、お前の疫病はどこにあるのか。
地獄よ、お前の滅びはどこにあるのか。
(「ホセア書」1314節)
   
もしも悪魔が、
処女マリアの子「女のすえ」であるキリストは永遠なる全能の神様であること
を知っていたとしたら、
キリストに手出しはしなかったことでしょう。
 
(中略)神様は悪魔をひそかに捕縛するために「釣り」をします。
魚は釣り針に気がつかずに餌の虫に食いつきます。
そして釣られてしまいます。
父なる神様のなさることも同様です。
御自分のひとり子を、
アダムやアブラハムやダヴィデの血や肉を共有するものとして、
至上の天から地上へと遣わされたのです。
 
地上で悪魔はキリストを貧しく惨めな「虫」(詩篇227節)と見なします。
つまり、キリストを、
飢えや渇きや寒さや暑さに苦しみ、
この世の労苦と悲惨に囲まれて泣いている、
他とまったく同じ普通の人間として見るのです。
 
しかし、悪魔は
何か特別なものがこのキリストに隠されていることを知りません。
それは、
キリストが永遠なる全能の神様であり、
御父と似た方でありながら別のペルソナ[1]である、
ということです。
これは悪魔の考えの及びもしないことでした。
 
キリストが奇跡を行ったことには悪魔は驚きませんでした。
なぜなら、
預言者たちもそうしたことはできたし、
悪魔は彼らのことも飲み込んでしまったからです。
同じようにキリストを飲み込むのもわけない、と悪魔は考え、
口をあけてキリストに噛みつき、飲み込もうとしたのです。
ところが、
キリストは悪魔の喉下にからみつき、
悪魔はキリストを飲み込もうとしたせいで
逆にキリストの奴隷となり、自滅していきます。
なぜなら、
キリストは真の神様であり、
死んだままではおらず、
死から自由になってよみがえり、
活きつづけ、
悪魔を捕縛してくださるからです。


[1] 「ペルソナ」(位格)とは、唯一なる神様の三つの面を表す言葉で、父、子、聖霊のこと。父なる神様、子なるイエス・キリスト、神の霊なる聖霊様を指す。そのため、「三位一体」なる神様という表現が用いられる。