3月21日
あなたたちは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。主は富んでおられたのに、あなたたちのために貧しくなられました。それは、あなたたちがこの方の貧しさによって富むためです。
(「コリントの信徒への第二の手紙」8章9節)
クリスチャンの信仰の溢れるほど豊かな富がどのようなものか、見てごらんなさい! キリストの苦難とすべてのみわざとは、「クリスチャンのもの」です。クリスチャンは、あたかも自分でそれらを行ったかのように、それらに完全に信頼することができます。なぜなら、キリストはそれらのことを、御自分のためにではなく、私たちのために行ってくださったからです。御自分には要らないこの宝物を、キリストは、私たちがそれを信じて「自分のもの」とするために、仕入れてくださったのです。
3月22日
「人がその友のために命を捨てる」というこの愛よりも大きな愛を誰一人もってはいません。私があなたたちに命じることを行うならば、あなたたちは私の友です。(「ヨハネによる福音書」15章13~14節)
私はあなたたちのために自分の命と血をささげました。あなたたちは尊い、血によって買い取られた、かけがいのない私の友です。私を通して、あなたたちはすべてをもっています。あなたたちは富裕で自由な紳士淑女です。私の友であり続け、二度と再び私の敵になったりしないように、また、「あなたたちが私の友である」と言えないような(ひどい)生き方を誰もしないように、気をつけなさい。
3月23日
新しい戒めを私はあなたたちに与えます。あなたたちは互いに愛し合いなさい。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。
(「ヨハネによる福音書」13章34節)
キリストの愛と友情は、隣り人をかけがえのないすばらしい人とみなす意志をもたらします。なぜなら、キリストは私たちのうちにおられるからです。それゆえ、私が隣り人をその短所のゆえに軽蔑するのは、適当ではありません。私はこう考えなければならないのです、「私の主はあの弱い器の中に住んでおられ、御自身の臨在によってあの人間を尊重なさっている。私も、私の主の活きている神殿や住居であるあの人に、礼儀を尽くして敬意を払わなければならない」。
3月24日
イエス様が十字架に架けられたところには園があり、その園にはまだ誰も葬られたことのない新しい墓がありました。その日はユダヤ人たちの準備の日であり、その墓が近くにあったため、イエス様はそこに葬られました。
(「ヨハネによる福音書」19章41~42節)
キリストが墓に葬られたので、すべてのクリスチャンの墓は聖所です。私たちは最後の日に、夜の夢から覚めるようにして、甦ります。そのとき私たちは健康で力に満ちています。そして、私たちの目に溜まっていたすべての汚れは、ほんの一拭きで取り去られるのです。
3月25日
夕方になると、アリマタヤ出身の裕福なヨセフという名の人がやってきました。彼もまたイエス様の弟子になった人でした。彼はピラトのところへ行き、イエス様の身体を引き取りたいと願い出ました。そのとき、ピラトはそれを彼に渡すようにと命じました。
(「マタイによる福音書」27章57~58節)
裕福な人たちは、「神様は裕福な自分たちを御国に入れたくないと思っている」、と考えてはいけません。彼らが悔い改めて心のうちで神様の恵みと慰めとを待ち望むようにと、神様は深く望んでおられるのです。神様はまた彼らになすべき使命を与えておられます。すなわち、教会がより多くの支持を得るために、彼らは教会の世話をし、その仕事が進むように助けなければなりません。