2010年12月30日木曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」3月21日~25日

  
3月21日

あなたたちは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。主は富んでおられたのに、あなたたちのために貧しくなられました。それは、あなたたちがこの方の貧しさによって富むためです。
(「コリントの信徒への第二の手紙」8章9節)

クリスチャンの信仰の溢れるほど豊かな富がどのようなものか、見てごらんなさい! キリストの苦難とすべてのみわざとは、「クリスチャンのもの」です。クリスチャンは、あたかも自分でそれらを行ったかのように、それらに完全に信頼することができます。なぜなら、キリストはそれらのことを、御自分のためにではなく、私たちのために行ってくださったからです。御自分には要らないこの宝物を、キリストは、私たちがそれを信じて「自分のもの」とするために、仕入れてくださったのです。



3月22日

「人がその友のために命を捨てる」というこの愛よりも大きな愛を誰一人もってはいません。私があなたたちに命じることを行うならば、あなたたちは私の友です。(「ヨハネによる福音書」15章13~14節)

私はあなたたちのために自分の命と血をささげました。あなたたちは尊い、血によって買い取られた、かけがいのない私の友です。私を通して、あなたたちはすべてをもっています。あなたたちは富裕で自由な紳士淑女です。私の友であり続け、二度と再び私の敵になったりしないように、また、「あなたたちが私の友である」と言えないような(ひどい)生き方を誰もしないように、気をつけなさい。



3月23日

新しい戒めを私はあなたたちに与えます。あなたたちは互いに愛し合いなさい。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。
(「ヨハネによる福音書」13章34節)

キリストの愛と友情は、隣り人をかけがえのないすばらしい人とみなす意志をもたらします。なぜなら、キリストは私たちのうちにおられるからです。それゆえ、私が隣り人をその短所のゆえに軽蔑するのは、適当ではありません。私はこう考えなければならないのです、「私の主はあの弱い器の中に住んでおられ、御自身の臨在によってあの人間を尊重なさっている。私も、私の主の活きている神殿や住居であるあの人に、礼儀を尽くして敬意を払わなければならない」。



3月24日

イエス様が十字架に架けられたところには園があり、その園にはまだ誰も葬られたことのない新しい墓がありました。その日はユダヤ人たちの準備の日であり、その墓が近くにあったため、イエス様はそこに葬られました。
(「ヨハネによる福音書」19章41~42節)

キリストが墓に葬られたので、すべてのクリスチャンの墓は聖所です。私たちは最後の日に、夜の夢から覚めるようにして、甦ります。そのとき私たちは健康で力に満ちています。そして、私たちの目に溜まっていたすべての汚れは、ほんの一拭きで取り去られるのです。



3月25日

夕方になると、アリマタヤ出身の裕福なヨセフという名の人がやってきました。彼もまたイエス様の弟子になった人でした。彼はピラトのところへ行き、イエス様の身体を引き取りたいと願い出ました。そのとき、ピラトはそれを彼に渡すようにと命じました。
(「マタイによる福音書」27章57~58節)

裕福な人たちは、「神様は裕福な自分たちを御国に入れたくないと思っている」、と考えてはいけません。彼らが悔い改めて心のうちで神様の恵みと慰めとを待ち望むようにと、神様は深く望んでおられるのです。神様はまた彼らになすべき使命を与えておられます。すなわち、教会がより多くの支持を得るために、彼らは教会の世話をし、その仕事が進むように助けなければなりません。

2010年12月20日月曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」3月16日~20日

  
3月16日

最初に神様の御国と神様の義とを求めなさい。そうすれば、これらすべてのものもあなたがたに与えられるでしょう。
(「マタイによる福音書」6章33節)

このことを神様は、昔も今も、多くの義なる人たちの体験を通して、お示しになられました。すなわち、彼らは、この御言葉の規則や教えに従って、神様の御国の建設を助けようとし、教会に奉仕しようとし、神様の御言葉が広がっていくように努め、そのために財産をささげてきました。神様は彼らを財産や栄誉等によって豊かに祝福されました。これと同じことを大昔の、聖書の王侯たちのみならず、私たちの歴史に登場する王侯たちも証しています。キリスト教への愛に基づいて、彼らはまず非常に多くの牧師職を設け、説教壇を作り、説教職の維持や学校に関する規則を定めました。しかし、彼らはこうすることによって少しも貧しくなりませんでした。それどころか、神様は彼らを御自分の賜物によって祝福されたので、彼らは裕福になり、平和と幸福に包まれ、勝利者として統治することができました。



3月17日

だから私は「あなたたちはあなたたちの罪のうちに死ぬでしょう[1]」と言ったのです。もしもあなたたちが「私はある[2]という者である」ことを信じなければ、あなたたちは自分たちの罪のうちに死ぬでしょう。
(「ヨハネによる福音書」8章24節)

まさしくこれが罪の中の罪、この影響のために他のすべての罪がそのまま残ってしまうほどの罪です。というのは、もしも人々がキリストの御言葉を受け入れるならば、彼らはすべての罪を赦していただけるのですが、彼らはキリストの御言葉を拒絶しているため、赦されることのない罪を行っているからです。



3月18日

イエス様は彼らのほうへ振り向いて言われました、「エルサレムの娘たちよ、私のために泣いてはいけない。むしろ、自分たちのためやあなたがたの子供たちのために泣きなさい。(中略)もしも生木にこのような仕打ちがなされるならば、枯木にはいったいどんなことが起こるのでしょう」。
(「ルカによる福音書」23章28, 31節)

もしもあなたが「神の子、父の永遠の知恵自らが苦しまれる」ということを深く考えてみるなら、おそろしくなることでしょう。深く考えれば考えるほどそれだけ心底怖くなるでしょう。ベルナルドはそのことで怖くなり、こう言いました、「神様の独り子が私を憐れまれ、私の代わりに裁きへと御自分を引き渡されたことを知るまでは、私は自分が安全だと思い込み、永遠の中で私に下されていた永遠の裁きについては何も知らないままでした」。



3月19日

シオンの娘たちよ、出てきてソロモン王を見つめなさい。彼の婚姻の日に、彼の心の喜びの日に、彼の母が彼にかぶらせた冠を見つめなさい。
(「雅歌」3章11節)

あらゆる王の中の王となられるために、キリストが王国と支配権を得られたとき、キリストの最大の栄光、誇り、心の喜びとは、十字架で死なれることでした。



3月20日

信じて洗礼を受けた者は[3]、救われるでしょう[4]。しかし、信じない者は[5]、裁かれるでしょう。
(「マルコによる福音書」16章16節)

洗礼の力、影響、利益、実、目的は、「洗礼は救う」という点にあります。洗礼が授けられる目的は、洗礼を受けた者が王侯になるためではなく、御言葉が言っている通りに、救われるためです。「救われる」ということはまた、私たちがよく知っているように、罪や死や悪魔の支配からの解放、キリストの王国への入場、キリストが共にいてくださる永遠の命に他なりません。このことからまた、どれほど洗礼を尊いものとみなすべきであるか、あなたは気づくことでしょう。洗礼において私たちは言葉では表すことのできないほど大きな宝物をいただくのです。(中略)洗礼は御言葉から力を得て、新生の洗いとなっているのです。


[1] 未来形。
[2] ego eimi 神様がモーセに告げられた御自分の名前と同じ表現(出エジプト記3章14節)。すなわちここでイエス様は、御自分が父なる神様と同じお方であることを示しておられるのです。
[3] どちらもアオリスト分詞。一回限りの行為をさす。このことから、洗礼は人生で一度限りのものであることがわかります。幼児洗礼を無効と見なし、再洗礼を真の洗礼とする再洗礼派は、みことばを曲げています。
[4] 受動相未来形。受動相は、救いが人間に「与えられる」ものであることをしめしています。
[5] アオリスト分詞。すなわち、「(一度も」信じない者」のことをさしています。