2月21日
地のすべての民はあなたの種によって祝福されるでしょう。あなたが私の声に聞き従ったからです。
(「創世記」22章18節)
キリストはアブラハムの種(すなわち「子孫」)である、と使徒パウロは言います(「ガラテアの信徒への手紙」3章16節)。キリストはこの世すべてを福音を通して祝福されました。キリストがおられないところには、アダムが罪に落ちたときに自分やその子孫の上に招いてしまった呪いが残っています。アダムの子孫は皆、死や地獄に属している者たちです。アブラハムには、彼を通してあらゆる民が祝福されることになる、という約束が与えられているわけですが、普通に考えても、福音によって世界中に伝えられている、アブラハムに与えられたこの約束を通してでなければ、私たちが祝福に与ることは期待できません。この約束の外には呪いしかないのです。
2月22日
長く生きて高齢になり、満足しつつ、アブラハムは息を引き取って死にました。そして、その民に加えられました。
(「創世記」25章8節)
どこにアブラハムは行ったのでしょうか。「その民に加えられた」とモーセは言います。ということは、この世での人生の終わった後で、民たちや父たちのいる場所があるのでしょうか。そうなのです。ここでは、あたかもアブラハムがある町や土地から他の町や土地へ引っ越したかのような表現が用いられています。そしてこれは、神様を信じる人皆にとっても慰めとなる、復活や来るべき命に関する明確で素晴らしい証拠なのです。
2月23日
私たちはここに永続する都をもってはいません。しかし、私たちは来るべき都を待ち望んでいるのです。
(「ヘブライの信徒への手紙」13章14節)
クリスチャンはこの世をたんなる「宿泊所」と見なしています。それは、ちょうど旅行者が、外国に滞在する際の宿を、たとえそれがどれほどよい所であったとしても、仮の住まいと見なし、自宅とは見なさないのと似ています。もしもクリスチャンがこの世でよい扱いを受ける場合には、彼らはそれに対して感謝します。しかし、もしも彼らの「宿泊所」が暗く寒く危険な場所に感じられるときには(こういうことがしばしばありますが)、彼らは、「これはじき終わる悪い夢にすぎず、あとでもっとよいものに変わるのだ」、と考えて自分を慰めるのです。
2月24日
(「ヨハネによる福音書」6章40節)
あなたの信仰の最初の瞬間は、信仰の最後の日とは、ただひとつの点で異なっています。すなわち、あなたは信じているものをまだ見てはおらず、それを楽しむこともできない、ということです。実は、最後の日に自分のものとすることになるすべてを、あなたは今すでにもっているのです。
2月25日
まことにまことに私はあなたたちに言います。信じている者は永遠の命をもっています。
(「ヨハネによる福音書」6章47節)
どれほど偉大な約束、どんなに素晴らしい宝を、キリストは私たちにここで与えてくださっていることでしょうか!ところが、私たちは、罪が染み付いている存在としてこの世の中を生きていくことになる以上、それを完全には把握できず、自分のものとすることもできません。目はそれを見ず、口はそれを味わわないからです。しかし、天国ではすべてが変わります。私たちは宝を見て味わい、それは私たちの身体と魂を光り輝かせます。この世では味わえず感じず見えないにもかかわらず、私たちは神様の御言葉を聴いて、信仰において自分のものとします。私たちにはそれで十分です。最後には死が訪れ、信仰は見えるものに変わります。