2010年12月2日木曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」2月21日~25日

 
221

地のすべての民はあなたの種によって祝福されるでしょう。あなたが私の声に聞き従ったからで
創世記2218節)

キリストはアブラハムの種(すなわち「子孫」)である、と使徒パウロは言いますガラテアの信徒への手紙316節)。キリストはこの世すべてを福音を通して祝福されましキリストがおられないところには、アダムが罪に落ちたときに自分やその子孫の上に招いてしまった呪いが残ってます。アダムの子孫は皆死や地獄に属している者たちで。アブラハムには、彼を通してあらゆる民が祝福されることになるという約束が与えられているわけでが、普通に考えても、福音によって世界中に伝えられている、アブラハムに与えられたこの約束を通してでなければ、私たち祝福に与ること期待できません。この約束の外には呪いしかないのです



222

長く生きて高齢になり満足しつつ、アブラハムは息を引き取ってにました。そして、その民に加えられました。
創世記258節)

どこにアブラハムは行ったのでしょうか。「その民に加えられた」とモーセは言います。ということは、この世での人生の終わった後で、民たちや父たちのいる場所るのでしょうかうなのです。ここでは、あたかもアブラハムがある町や土地から他の町や土地へ引っ越したかのよう表現が用いられていますそしてこれは、神様を信じる人皆にとって慰めとなる、復活や来るべき関する明確で素晴らしい証拠なの



223

私たちはここに永続する都をもってはいません。しかし私たちは来るべき都を待ち望んでいるのです
ヘブライの信徒への手紙1314節)

クリスチャンはこの世をたんなる「宿泊所」と見なしています。それはちょうど旅行者が外国に滞在する際の宿を、たとえそれがどれほどよい所であったとしても、仮の住まいと見なし、自宅とは見なさないのと似ています。もしもクリスチャンがこの世でよい扱いを受ける場合には、彼らはそれに対して感謝します。しかし、もしも彼らの「宿泊所」が暗く寒く危険な場所に感じられるときには(こういうことがしばしばありますが)、彼らは、「これはじき終わる悪い夢にすぎず、あとでもっとよいものに変わるのだ」、と考えて自分を慰めるのです。



224

私の父が望んでおられるのは、子を見て信じている者[1]がそれぞれ、永遠のを得ることで。そして、私はその人を終わりの日によみがえらせるでしょう。
ヨハネによる福音書640節)

あなたの信仰の最初の瞬間は、信仰の最後の日とは、ただひとつの点で異なっています。すなわち、あなたは信じているものをまだ見てはおらず、それを楽しむこともできない、ということです。実は、最後の日に自分のものとすることになるすべてを、あなたは今すでにもっているので



225

まことにまことに私はあなたたちに言います。信じている者は永遠のをもっています
ヨハネによる福音書647節)

どれほど偉大な約束、どんなに素晴らしい宝を、キリストは私たちにここで与えてくださっていることでしょうか!ところが、私たちはが染み付いている存在としてこの世の中を生きていくことになる以上、それを完全には把握できず、自分のものとすることもできません。目はそれを見ず、口はそれを味わわないからで。しかし、天国ではすべてが変わります。私たちは宝を見て味わい、それは私たちの身体を光り輝かせます。この世では味わえず感じず見えないにもかかわらず、私たちは神様の御言葉を聴いて、信仰において自分のものとします。私たちにはそれで十分で最後にはが訪れ、信仰見えるものに変わります。


[1] 両方共に現在分詞。