2月16日
なぜなら、キリストの中に神的なものの充溢が肉体的に宿っており、あなたがたはすべての支配と権威のかしらであるキリストの中にあって、この方によって満たされているからです。
(「コロサイの信徒への手紙」2章9~10節)
キリストは信仰者たちに言われます、「信仰を通してあなたたちは、罪や死や不幸の只中にあっても、私の中にいるのです。確かにあなたたちは罪人ですが、私の中にあっては義人であり、死を身近に感じているのに、私の中においては命をもっており、平和がないにもかかわらず、私の中においては平和があり、罪人として裁かれた者なのに、私の中においては祝福されており、救いの喜びに満たされています」。
2月17日
さあ、子たちよ、キリストの中にとどまっていなさい。キリストが現れるときに勇気をもち、キリストが帰って来られたときに恥じ入ってキリストから退かないためです。
(「ヨハネの第一の手紙」2章28節)
天国のキリストのイメージを見失わないようにしなさい。自分ではなくキリストを見つめなさい。そうすれば、あなたは永遠の救いの喜びをキリストの中に見つけます。なぜなら、キリストの中には命と慰めと救いの他には何もないからです。もしもこのイメージをしっかり心に留めておくならば、死の恐怖は消え去り、あなたは勇気をもってキリストの中で死ぬことができるのです。
2月18日
私は神様の恵みを無意味なものにはしません。もしも義が律法を通してのものだとすれば、キリストは無意味に死んだことになるからです。
(「ガラテアの信徒への手紙」2章21節)
もしも私たちがキリストのゆえにのみ救われるとすれば、私は自分の功績で救いを得ようとしてはならないことを、告白し教えなければなりません。なぜなら、私はキリストの功績と自分の功績とを心の中で一緒にすることができないからです。私は両方に信頼することはできません。キリストのみわざか私の行いか、どちらか一方が退かなければなりません。私が言いたいのは、私たちはよい行いをしてはいけないということではなく、私たちは自分たちの行いに基づいて神様に認めていただこうとしてはいけないということです。
2月19日
(「ヤコブの手紙」2章21節)
実から木のことが知られます。しかし実が木を育てるわけではありません。それと同じようにアブラハムは、自分の子を犠牲として捧げようとしたときには、既に義しい者でした。そして御使いはアブラハムにこう言いました、「今私はあなたが神を畏れ愛していることを知りました」(「創世記」22章12節)。これは、今あなたは神を畏れる者になったという意味ではなく、あなたが神を畏れていることを、あなたは自分の行いによって示したという意味です。
2月20日
「アブラハムは神様を信じました。そして彼はそれにより義と認められました」という御言葉が実現しました。そしてアブラハムは「神の友」と呼ばれました。
(「ヤコブの手紙」2章23節)
人間は信仰を通して自分の行いなしに義とされるのでしょうか。もちろん義とされます!もしもそれを信じたくなければ、モーセの教えを否定しなさい。モーセは、アブラハムが律法や律法の行いをする前に、アブラハムを救いの幸せに満ちた者と呼んでいるではありませんか。それは、アブラハムが自分の子を犠牲として捧げたからではなく(その子供はまだ生まれてもいませんでした)、アブラハムがよい行いをしたからでもなく、アブラハムに約束を与えてくださった神様を信じたからです。
[1] アオリスト分詞。たんなる一回限りの行為を表す。主動詞の示す行為より以前になされた行為をさすことが多い。状況説明の分詞として、時、理由、条件、手段、譲歩、目的(普通は未来分詞)などの用法がある。