3月16日
最初に神様の御国と神様の義とを求めなさい。そうすれば、これらすべてのものもあなたがたに与えられるでしょう。
(「マタイによる福音書」6章33節)
このことを神様は、昔も今も、多くの義なる人たちの体験を通して、お示しになられました。すなわち、彼らは、この御言葉の規則や教えに従って、神様の御国の建設を助けようとし、教会に奉仕しようとし、神様の御言葉が広がっていくように努め、そのために財産をささげてきました。神様は彼らを財産や栄誉等によって豊かに祝福されました。これと同じことを大昔の、聖書の王侯たちのみならず、私たちの歴史に登場する王侯たちも証しています。キリスト教への愛に基づいて、彼らはまず非常に多くの牧師職を設け、説教壇を作り、説教職の維持や学校に関する規則を定めました。しかし、彼らはこうすることによって少しも貧しくなりませんでした。それどころか、神様は彼らを御自分の賜物によって祝福されたので、彼らは裕福になり、平和と幸福に包まれ、勝利者として統治することができました。
3月17日
(「ヨハネによる福音書」8章24節)
まさしくこれが罪の中の罪、この影響のために他のすべての罪がそのまま残ってしまうほどの罪です。というのは、もしも人々がキリストの御言葉を受け入れるならば、彼らはすべての罪を赦していただけるのですが、彼らはキリストの御言葉を拒絶しているため、赦されることのない罪を行っているからです。
3月18日
イエス様は彼らのほうへ振り向いて言われました、「エルサレムの娘たちよ、私のために泣いてはいけない。むしろ、自分たちのためやあなたがたの子供たちのために泣きなさい。(中略)もしも生木にこのような仕打ちがなされるならば、枯木にはいったいどんなことが起こるのでしょう」。
(「ルカによる福音書」23章28, 31節)
もしもあなたが「神の子、父の永遠の知恵自らが苦しまれる」ということを深く考えてみるなら、おそろしくなることでしょう。深く考えれば考えるほどそれだけ心底怖くなるでしょう。ベルナルドはそのことで怖くなり、こう言いました、「神様の独り子が私を憐れまれ、私の代わりに裁きへと御自分を引き渡されたことを知るまでは、私は自分が安全だと思い込み、永遠の中で私に下されていた永遠の裁きについては何も知らないままでした」。
3月19日
シオンの娘たちよ、出てきてソロモン王を見つめなさい。彼の婚姻の日に、彼の心の喜びの日に、彼の母が彼にかぶらせた冠を見つめなさい。
(「雅歌」3章11節)
あらゆる王の中の王となられるために、キリストが王国と支配権を得られたとき、キリストの最大の栄光、誇り、心の喜びとは、十字架で死なれることでした。
3月20日
(「マルコによる福音書」16章16節)
洗礼の力、影響、利益、実、目的は、「洗礼は救う」という点にあります。洗礼が授けられる目的は、洗礼を受けた者が王侯になるためではなく、御言葉が言っている通りに、救われるためです。「救われる」ということはまた、私たちがよく知っているように、罪や死や悪魔の支配からの解放、キリストの王国への入場、キリストが共にいてくださる永遠の命に他なりません。このことからまた、どれほど洗礼を尊いものとみなすべきであるか、あなたは気づくことでしょう。洗礼において私たちは言葉では表すことのできないほど大きな宝物をいただくのです。(中略)洗礼は御言葉から力を得て、新生の洗いとなっているのです。