3月6日
肉のゆえに弱くなったため、律法は無力になっています。神様は御子を、罪の肉と同じようなものとして、罪のために遣わし、肉において罪を裁かれました。これは、律法の義が、肉によらず御霊によって歩んでいる私たちのうちに満たされるためです。
(「ローマの信徒への手紙」8章3~4節)
与えることと受け取ることが異なり、あるいは、要求することと贈ることが異なっているのと同じように、律法と福音とは互いに遠く隔たっています。この相違をはっきりしなければなりません。
3月7日
しかし、選びが恵みによるのであれば、もはや行いからではありません。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなってしまうからです。
(「ローマの信徒への手紙」11章6節)
私たちの救いは、律法と福音の両方に基づくことはできません。私たちは、信仰を通して義とされ、その結果律法の義を失うか、あるいは、律法を通して義とされ、恵みと信仰の義を失うか、そのどちらかです。恵みを失い律法に頼ることは、恥ずべき不幸な喪失です。しかし、律法を失い恵みに頼ることは、それとは逆に、救いの幸せに満ちた喪失です。
3月8日
しかし、私にとって有益であったこれらのものを、私はキリストのゆえに損失と見なすようになりました[1]。というわけで、私はまた、私の主キリスト・イエスを知ることがはるかに尊いことであるがゆえに、すべてを損失と見なしています[2]。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらのものを屑のように見なしています。それは、私がキリストを得るためであり、律法に基づく私自身の義ではなく、キリストの信仰を通し信仰に基づいて神様からいただく義を自分のものとして、私がキリストのうちに見出されるようになるためです。
(「フィリピの信徒への手紙」3章7~9節)
すべてのクリスチャンはパウロと共にこう言うべきでしょう、「自分の聖さによって、恵みと永遠の命を報酬として得ようとすることは、神様の御前では、汚らしい着物に等しい」。
3月9日
私たちの父なる神様と主イエス・キリストから、恵みと平和とがあなたがたにありますように。キリストは私たちの父なる神様の御意志に従い、私たちを今の悪の世から救い出すために、御自身を私たちの罪のためにささげられたのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」1章3~4節)
罪の重荷があなたをおびえさせ、キリストのもとから逃げ出させようとするとき、次のことを思い出しなさい。キリストは想像にすぎない罪のためにこの世に来られたのではなく、本当の罪のために来られました。小さい些細な罪のためではなく、とてつもなく大きいひどい罪のために来られました。一人か二人の罪のためではなく、人間が勝って既に取り除いた罪のためではなく、人間には打ち勝つことのできない罪のために来られたのです。
3月10日
律法は罪過が増し加わるために入り込んできました。しかし、罪の増し加わったところには恵みが豊かに満ち溢れました。それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた、永遠の命へと至る義を通して、私たちの主イエス・キリストを通して支配するためでした。
(「ローマの信徒への手紙」5章20~21節)
神様の恵みの栄光と輝きは、それが私たちを自分自身に敵対するようにしたところにこそあります。というのは、その栄光は、ギデオンがモアブ人に勝ったように、罪に勝つからです。このようにして、それは自分の敵を滅ぼします。