2022年8月26日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」20章29節「見えないものを信じます」

「見えないものを信じます」


イエスは彼に言われました、

「あなたは私を見たので信じたのですか。

見ないでも信じる人々は、さいわいです」。 

(「ヨハネによる福音書」2029節)

 

イエス様が弟子トマスに言われたこの言葉は私たちの人生にもあてはまります。

見ることではなく信じることに基づいて私たちは歩み続けます。

イエス様が望まれているのは、

私たちが自分の感覚ではなくイエス様を信じるようになることです。

イエス様は決して間違えることがありませんが、私たちはよく間違えるものです。

 

他の弟子たちは復活の主を見ましたが、

トマスは彼らの言葉を信じることができず、五感に訴える証拠を要求しました。

 

現代では目に見える世界と物質的なものばかりに頼って私たちは生活しています。

食べ物、衣服、住居、快適な生活、娯楽などのほうが

五感により強く訴えかける真実であり、人間生活の中心をなしています。

 

より高い人生観もてばもつほど私たちは

正直さこそが人生最高の価値観であることを信じなければなりません。

私たちが救い主を完全に信じること、

罪の赦しが神様の最大の賜物であること、

私たちが何よりもまず神様の御国と義とを求めるべきであること、

天国はこの世よりもよい場所であること、

自己愛よりも神様を愛することのほうがよいこと

を信じるように救い主は望んでおられます。

 

私たちは神様の御言葉だけに自分自身をすっかりゆだねることで

見えないものを信じることができるのです。

 

(祈り)救い主イエス様、

見えないあなたを愛することができるように私たちを助けてください。

自分自身ではなくあなたを信じることができるように

どうか私たちを助けてください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」202431

2022年8月22日月曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」8章37節「立派な勝利」

「立派な勝利」


しかし私たちを愛してくださった方によって、

私たちはこれらすべてのことにおいて大勝利を収めます。

(「ローマの信徒への手紙」837節)

 

一週間のうちに三人の子どもをジフテリアで失った家族がいました。

生き残った子どもはひとりだけでした。

両親とその子は一緒に次の日曜日に教会学校と教会の礼拝に行きました。

母親は教会学校でいつもどおり教え、

父親は教会学校の指導者として、

大いなる復活について語っている「コリントの信徒への第一の手紙」15章を

朗読しました。

彼らは他の人たちと一緒に感謝の賛美歌も歌いました。

 

大変な悲しみを体験したこの家族が示した模範は強い印象を与えました。

彼らが復活を信じる真の力を得たことを人々は理解したのです。

十字架で死なれ、死の勝利者としてよみがえられたキリストを

ちょうどその時に彼らが心から信じたことは大勝利をもたらしました。

 

愛する者がこの世を去ることは痛切な別離の悲しみをもたらします。

しかし復活への信仰は愛する主の勝利を通して

私たちに平和と希望を与えてくれるのです。

イエス様の十字架の勝利を通して私たち罪人にもたらされた恵みは

困難な人生を歩む者を支えてくれますし、

天国の我が家を慕う思いを強めてくれます。

イエス様に守られながら私たちは、

信仰をもって眠りについた愛する人々の模範に倣いつつ、

天国の我が家への旅を続けることができるのです。

 

(祈り)大いなる慰め主であられる聖霊様、

私たちに示される輝きをちゃんと見ることができるように、

どうか私たちの目を開いてください。

私たちが人生の試練の中で、

私たちを愛してくださったお方を通して

立派な勝利を収めることができることをどうか私たちの心に刻んでください。

天国を本当に慕う心をどうか私たちに与えてください。

私たちがいつか受け継ぐようになると約束されていることを

どうか私たちにとって愛しいものとなさってください。アーメン。

(関連聖句)「エフェソの信徒への手紙」31421

2022年8月12日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」6章35節「まことのパン」

「まことのパン」


イエス様は彼らに言われました、

「私は命のパンです。

私のところに来る者は決して飢えることがなく、

私を信じる者は決して渇くことがありません」。

(「ヨハネによる福音書」635節)

 

人々は、

イエス様が五つのパンと二匹の魚によって五千人の男に食べ物を与えるさまを

目撃しました。

その後まもなく人々は目に見てわかるしるしを要求しました。

彼らはイエス様が神様の御子であるという証拠を欲しがったのです。

 

しかし人々は目で見える奇跡を通しては信じる者にはなりません。

信仰はそのようにして生まれるものではないからです。

 

「あなたがたが彼を信じることが神様のみわざなのです」

とイエス様が言われたとき、

「どのようなわざをあなたはするのか」

と彼らは言い返しました。

彼らは、

種まきも刈り入れもせずに四十年間イスラエルの民に食べ物を与え続けた

モーセのことを意味していたのです。

そのときイエス様は

「モーセは天からパンを与えなかったが、

天の父なる神様は今、天からまことのパンを与えてくださる」

と言われました。

 

イエス様はまことの神様のパンです。

「私のところに来る者は決して飢えることがなく、

私を信じる者は決して渇くことがありません」。

世の救い主であるイエス様を信じることによって、

このパンを食することができます。

このパンは永遠の命に至るまで私たちを養い続けてくれます。

このパンを父なる神様は天から与えてくださいます。

これが恵みです。

永遠の命を自分の行いの報酬として得る者は誰一人いません。

これは恵みにより無償で与えられるものなのです。

 

(祈り)天からの命のパン、人間であり神様である方よ、

あなたの身体と血を霊的な戦いの力として今、与えてください。

いつか天のあなたの御許で大いなる聖餐式を、

イエス様、

私が聖徒たちと共に永遠にいただくことができるようになさってください。

アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」62835

2022年8月8日月曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」1章20節「キリストを讃美しましょう」

「キリストを讃美しましょう」

そこで、私が切実な思いで待ち望むことは、

私がどんなことがあっても恥じることなく、

かえって、いつものように今もあらんかぎり大胆に語ることによって、

生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめられることです。

(「フィリピの信徒への手紙」120節)

 

パウロの人生には、

キリストがすべてにおいてあがめられるようになる、

というゆるぎない目的がありました。


ほかのものは何であれそれほど大切ではありませんでした。

 

自分自身のことを考えてみましょう。

私たちが生きても死んでも、主の御業は前に進んでいきます。

しかし大事なのは、

仕事や娯楽、苦しみや死などに対する私たちの生き方や態度の中に

周囲の人々がキリストの力を見ることなのです。

 

キリストの僕として働くとき、

苦難を耐えるとき、

自分の意思を喜んでキリストの御心に従わせるとき、

キリスト信仰者としての希望を持って死ぬとき、

キリストは私たちを通して人々の前であがめられることになります。

私たちの人生はキリストの栄光を周囲に輝かす鏡となります。

そして、キリストが私たちを暗闇からまばゆい光の中に招いてくださったことが

見えるようになります。

 

使徒と共に私たちはこう言います、

「しかし私が憐れみを受けたのは、

キリスト・イエスがまず私に対して限りない忍耐を示すことで、

私が、これから後キリストを信じて永遠の命を受ける人たちの

模範となるためです」

(「テモテへの第一の手紙」116節)。

 

(祈り)

主よ、あなたが私に身体、魂、すべてを賜ったのですから、

どうかあなたの御心を満たす力を私にお与えください。

それによって私があなたの御名の栄光となるように、

また隣り人にとって一番よいことを行えるように、

あなたからいただいた賜物を用いるようになるためです。

アーメン。

(関連聖句)「詩篇」115

2022年8月5日金曜日

「力なき者に力を」「詩篇」121篇1~2節「目を上げなさい」

 「目を上げなさい」

私は山々に向かって目を上げます。
私の助けは、どこから来るのでしょうか。
私の助けは、天と地を造られた主から来ます。

(「詩篇」12112節)

 

人生の重荷は人をうつむかせ、地面ばかり見つめるように仕向けます。

目に映るものといえば辛い労苦しかありません。

また隣り人の欠点も目に入ってしまいます。

彼ら隣り人は私たちがどれほど困っているかわからないのです。

それをわかろうとさえしない人たちもいます。

何に関してもほとほと頼りなく思えてきます。

将来への恐れも重くのしかかります。

落ち込むのが当たり前であるような理由もたくさんあります。

生きる目的がなくなったようにも感じられます。

また自己憐憫の情に駆られて、すっかり疲れてしまいます。

 

上掲の詩篇の登場人物は私たちに正しい道を示しています。

この人物は人々や人生の困難を超えたところに目を向けます。

信仰の目によって、この人物は天と地を造られたお方を見つめます。

万物の造り主は全宇宙のことよりも私たちのことに関心をもっておられます。

イエス様を通して主は私たちの愛するお父様なのです。

天の父なる神様はその独り子が人となるように、

また私たちの長兄となるようにしてくださいました。

イエス様を通して、

天のお父様は私たちを罪と死と悪魔の支配とから贖い出してくださいました。

天のお父様は、

このようにあらゆるもののうちで最大の善なるイエス様と

イエス様の中にある永遠の命とを私たちに賜ったのですから、

イエス様と共に他のすべてのものをも

今くださらないということがありえるでしょうか!

最高の父親の善い行いさえも、このことに比べれば一瞬の火花にすぎません。

 

(祈り)私は目を上げて山の向こうを見上げます。

そこから最善の助けと素晴らしい光をいただくことができるからです。

天地を造られたお方が私を助けてくださいます。

私の叫び声を聴いて、実際に助けることができるのです。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」145

2022年8月1日月曜日

「力なき者に力を」「詩篇」51篇9節「神様の御前で」

「神様の御前で」

ヒソプをもって、私を(罪から)清めてください。
そうすれば、私は清くなるでしょう。
私を洗ってください。
そうすれば、私は雪よりも白くなるでしょう。 

(「詩篇」519節)

 

罪にまみれた思い出は心の平安を奪ってしまいます。

自分の罪を気に留めず、忘れて、心から追い払うように努めることは

たしかにできます。

ダヴィデもそうしてみましたが、

「私が(自分の罪について)沈黙した時は、

一日中うめくうちに私の骨は磨耗してしまいました。

あなたの御手が昼も夜も私の上に重くのしかかったからです。

私は夏の日照りの中で枯れ果てました」

(「詩篇」3234節)。

 

道はひとつしかありません。

罪はすべてのことを見通される神様の御前に進み出なければなりません。

ダヴィデはそのようにしました。

「自分の咎を主に告白しよう、と私は言いました。

その時、あなたは私の犯した罪を赦してくださいました」

(「詩篇」325節より)。


ダヴィデが「雪よりも白く」という言葉を用いるとき、

彼が意味しているのは聖なる天使ではなく、

姦通と殺人の罪にまみれた彼自身についてなのです。

 

雪はひときわ白いものです。

しかし憐れみ深い神様の御前にはそれよりもさらに白いものがあります。

それはイエス様の尊い血によって清められた人です。

こういうわけですから、

どうして赦しを受けていない罪が

私たちの心の中を痛めつけるままにさせておいてよいものでしょうか。

どうして自分のすべての罪を神様に告白するために急がずにいられましょうか。

そうするならば、

「安心しなさい。あなたの罪は赦されています」

という罪の赦しの宣言を救い主の口から聴くことができ、

信仰を通してその罪の赦しを確実にいただくことができるのですから。

 

(祈り)主よ、私の口があなたを感謝するように、

どうか私の唇を開いてください。アーメン。

(関連聖句)「イザヤ書」1118