2017年10月27日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ローマの信徒への手紙」1章16~17節より(その2)

私は福音を恥じません。
福音は、
信じる者たち皆にとっては、救いとなる神様の力だからです。
(中略)なぜなら、
そこに神様の義が、
信仰から信仰へと明らかにされているからです。
(「ローマの信徒への手紙」11617節より)(その2)
 
信仰者が自分自身の罪から自由になっており、
神様の御前で義とされていることだけが、
神様から信仰者がいただく慰めではありません。

信仰者が神様の助けによって、
ついには悪魔や人間や世との戦いに勝利し、
死と地獄とあらゆる悪から救われることも、
そのような慰めです。

信仰者は
人間や王侯の助けなどを借りる必要がありません。
神様の高く光輝く御手が差し出され、
その高貴な奇跡のみわざを行い、
あらゆる苦境から助け出してくださるからです。


水がぶどう酒に変わる時、
新しい色がつくだけではなく
その本質がぶどう酒になるのと同じように、
人間の心も信仰がそれを新たにする時には、
質的に完全に新しくされるものです。

2017年10月20日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ローマの信徒への手紙」1章16~17節より(その1)

私は福音を恥じません。
福音は、
信じる者たち皆にとっては、
救いとなる神様の力だからです。
(中略)なぜなら、
そこに神様の義が、
信仰から信仰へと明らかにされているからです。
(「ローマの信徒への手紙」11617節より)(その1)


信仰とは偉大なことです。
信仰の影響力、働き、強さ、支配力を十分によく把握することは
決して誰にもできることではありません。
信仰には不可能なことも困難なこともありません。
信仰は主の大いなるみわざです。
信じる者は「主人」の立場にあります。
信じる者は、たとえ死んでも必ず再び生きるようになります。
貧しい者は、必ず再び豊かになります。
病気の者は、必ず再び健康になります。

信仰とは、
たんに信仰について話したり御言葉を説明したりすることではなく、
心から御言葉を信頼して、
試練や死の危険や迫害の只中にあっても、
人間たちや死や悪魔に対抗して次のように言えることです、
「よし!ここに(御言葉による)約束がある。
私はこの約束の中に留まり、
身体と命、財産と栄誉、そして私の持っている一切のものを、
この約束にゆだねる」。

2017年10月18日水曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ヨハネによる福音書」1章29節(その3)

翌日、ヨハネはイエス様が彼のところにやって来られるのを見て、
「見なさい、世の罪を取り除く神の小羊を」、と言いました。
(「ヨハネによる福音書」129節)(その3)

人は自分の罪を、
以前にそれを実際に行ってしまった時と同様に、
今もまた自ら進んで(主に)告白しなければなりません。

かつて罪を行って堕落するのを恥じもしなかった人は、
自らの堕落を(主に)告白して
そこから再び立ち上がることも恥じてはいけません。
 
罪は死に比較することができます。
罪は、上着を外して片付けるようにして、
いともたやすく脱ぎ捨てたり投げ捨てたりできるようなものではありません。
それどころか、
罪は肉と霊の中核を貫通しているものだからです。

罪に躓いたのなら、あなたは心から、
「私は罪を犯しました」、
と言うことができます。
その時には神様も、
「私はあなたの罪を赦しました」、
とおっしゃることができます。

しかしそれとは逆に、
あなたが自分の罪を弁解したり秘密にしたりするのなら、
神様は、
「私はあなたの罪を赦すことができません」、
とおっしゃることでしょう。
 

神様は隣り人の罪を赦さない者を憐れむことはないし、
その罪も赦されません。

それと同様に、
「隣り人の罪を赦し
隣り人からも罪の赦しを乞い願う」
という(信仰の)実が伴わない場合には、
そのような人の信仰もまた正しいものではありえません。

このことを正さないかぎり、
人は神様の御前に出ることが許されません。

信仰がこの実を結ばないなら、
それは正しい信仰ではありません。