2018年3月26日月曜日

マルティン・ルター「活きるために」「マタイによる福音書」28章18~20節(その1)

イエス様は彼ら(十一人の弟子たち)に近づいてきて言われました、
「私は、天においても地においてもあらゆる権威を授けられています。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、
父と御子と聖霊との御名によって、彼らにバプテスマ(洗礼)を施し、
あなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。
見なさい、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」。
(「マタイによる福音書」281820節)(その1)

全世界が必要としている光はキリストのみであり、
キリストを抜きにしては、世界は光を受けることができません。
このように告白する信仰こそが
(神様によって)建てられたキリスト教会の正しい礎なのです。
これはまた、他のすべてのもの(組織など)から
教会を明確に区別する唯一の特徴であり目印でもあります。     


キリストをどうしても見つけなければならないと思っている人は、
まず先にキリスト教会を見つけなければなりません。
キリストを信じる人々がどこにいるかを知らないで、
キリストとキリストの信仰がどこにあるか、
どうして知ることができるでしょうか。
キリストについて少しでも知りたい人は、自分に頼ってはいけないし、
自己の理性によって天国への独自の橋をかけようとするべきではありません。
教会へ行って、そこでたずねるべきなのです。
教会はたんなる木石(ぼくせき)ではなく、
キリストを信じる人々の群れです。
彼らと共に留まるべきであり、
どのように彼らが信じ、生活し、教えているか、よく見るべきです。
キリストが彼らと共におられるのは確かなことだからです。
キリスト教会の外部には真理もキリストも救いもありません。

2018年3月21日水曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ヨハネによる福音書」1章14節(その3)

御言葉は肉となり、
私たちの只中に住まわれました。
私たちはこの方の栄光を見ました。
それは独り子が御父からいただいた栄光であり、
恵みと真理に満ちていました。
(「ヨハネによる福音書」114節)(その3)

「主の御言葉は常に変わらない」というのは、
あらゆる壁に書き込むべきであるほど立派な言葉です。
神様の御言葉の上方や外側にあるものは、
野の花のように枯れてしまいます。


神様の御言葉は、
暗闇の中で輝き真昼の太陽よりも明るく照らす光です。
人が死ぬ時には、
この太陽の光ばかりか、
あらゆる人間の知恵と共に理性もまた消えてしまうからです。
その時にも、神様の御言葉は
永遠の太陽として真の忠実さをもって照らしつづけます。
信仰だけがこの太陽を見て、
輝く永遠の命に至るまでそれに従っていきます。

2018年3月16日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ヨハネによる福音書」1章14節(その2)

御言葉は肉となり、私たちの只中に住まわれました。
私たちはこの方の栄光を見ました。
それは独り子が御父からいただいた栄光であり、
恵みと真理に満ちていました。
(「ヨハネによる福音書」114節)(その2)

御言葉を信じる者は確実に救われます。
なぜなら、御言葉は私たちの唯一の避け所だからです。
おびえ弱っている者の魂は人間の手によっては快活になりません。
そうなるためには御言葉が必要となります。
御言葉に手を伸ばす者は、
御言葉によって活力を与えられることを体験します。


他のすべての事柄、たとえば芸術や文学などは
昼も夜も人々の興味の対象となり、
そのために費やされる仕事や労苦には際限がありません。
それに対して、
聖書はいわば「無用の長物」とみなされ、放置されています。
聖書を読む殊勝な人でさえ、
一度読んだだけでたちまちすべてを理解したような態度を取ります。
このように、彼らの聖書に対して示す「敬意」は実に大したものです。
聖書ほどあっという間に学べてしまう芸術や文学は
この地上には他に存在しない、とでも言わんばかりです。

しかし実のところ、聖書は、
人々が思い込んでいるような、ただたんに読むだけの言葉ではありません。
聖書は命の言葉によってのみ構成されている書物です。
聖書は思索や創作のためではなく、
私たちが生き生きと活動するために書かれているのです。

2018年3月9日金曜日

マルティン・ルター「活きるために」「ヨハネによる福音書」1章14節(その1)

御言葉は肉となり、
私たちの只中に住まわれました。
私たちはこの方の栄光を見ました。
それは独り子が御父からいただいた栄光であり、
恵みと真理に満ちていました。
(「ヨハネによる福音書」114節)(その1)

神様の御言葉は、
まるでどのような力をもってしても押し留めることができない急流のようです。
御言葉は、
いわば自然の力によって信仰者を救いの幸いにあずかるようにします。
しかし、御言葉は、
それを信じない者を呪い粉砕します。
こうなるのは、
この御言葉の主には神の知恵と力と義があるからです。


誰も聖書を、
私たちの理性に基づいて評価したり批判したり
理解したり解釈したりするべきではありません。
むしろ、祈りをもって熱心に熟考し把握しようと努めるべきです。
試練とサタンは、
人が訓練と経験を積むことで多少とも聖書を学んで理解するきっかけを与えます。
こういうことでもなければ、
人はいくら聴いても読んでも、
聖書を少しも理解できるようにはならないでしょう。

唯一の師であり教育者である聖霊様が共にいて、
私たちを教えてくださる必要があります。
そして、弟子であり生徒である者は、
この教育者から学ぶことを恥じるべきではありません。