2023年12月22日金曜日

「力なき者に力を」「ローマの信徒への手紙」8章34節「ベツレヘムの先にあるもの」

「ベツレヘムの先にあるもの」

誰が私たちを罪に定めるというのでしょうか。

キリスト・イエスが死なれ、復活し、神様の右に座し、

私たちのためにとりなしておられるのです。

(「ローマの信徒への手紙」834節)

 

クリスマスまであとわずかになりました。

このお祝いのために多くの人が準備する時期です。

ところで、私たちのクリスマスの準備は正しく進んでいますか。


このお祝いにつきものの表面だけ煌びやかな安物の贈り物に惑わされ、

幼子イエス様を見失ったりしないように、

私たちは細心の注意を払わなければなりません。


実にこの幼子こそが私たちに救いをもたらされたのであり、

この方においてこそクリスマスの本来の美しさが

最上の輝きを放っているからです。


私たちの視線をベツレヘムの飼い葉桶よりも先へ向けて、

神様の奇跡の救いの御計画を眺める時に、

私たちはさらなる深い喜びを味わうことになります。

 

使徒は私たちにイエス様の死について語っています。

この方の死を通して世の罪はすべて帳消しにされました。

イエス様の復活は私たちを義とする

(つまり神様に受け入れていただけるようにする)ために成就されたのです。


御父の右の座におられる御子キリストを見つめるようにと、

使徒は私たちに奨励しています。


また、イエス様が私たちのために祈っておられ、

御父に対して私たちをかばってくださっていることを、

使徒は私たちに思い起こさせます。

 

こういうわけですから、

ベツレヘムの向こう側にまで目を向けてみましょう。

その時、クリスマスの福音の内容は私たちにとって

以前よりもいっそう豊かなものとなることでしょう。

 

(祈り)

あなたが人間を救い出すためにこの世にお生まれになった時、

私はまだこの世に生まれてはいませんでした。

あなたが私を守るために来てくださった時、

私はあなたの恵みを探し求めてはいませんでした。

あなたがこの世に急ぎ来られ、私たちのために天を開いてくださった時、

私はこの地上にはおりませんでした。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」1117

2023年11月29日水曜日

「力なき者に力を」「詩篇」41篇5節「イエス様は癒してくださいます」

「イエス様は癒してくださいます」 

「主よ、私を憐れんでください。私の魂を癒してください。

私はあなたに対して罪を犯しましたから」と私は告白しました。

(「詩篇」415節)

 

先祖代々受け継がれてきた原罪は

私たち人間一人一人の内に染み付いています。

それは私たちが生まれた時からずっと私たちの中に潜んでいます。

 

「善を行い罪を犯さない義しい人はこの地上にはいません。」

(「コヘレトの言葉」720節)

 

聖書は私たち人間がどのような存在かについて次のように証ししています。

 

「頭はすっかり病んでおり、心は全く弱り果てています。

足の裏から頭にいたるまで傷のないところがなく、

傷と打ち傷と生傷ばかりです。」

(「イザヤ書」156節より)

 

罪の病は、

恥知らずな罪の生活、不信仰、神様の御言葉に対する侮辱、偶像礼拝

として表面化します。

神様は人々から捨てられ、侮られます。


人間の内側からは

快楽の追求、強欲、汚れ、姦淫、怒り、復讐心、呪う心などが

あふれてくるばかりです。


癒してくださるお方がいなければ、これらすべては死を生み落とします。

人間の助けは何の役にも立ちません。

私たちの主イエス様だけが癒してくださるお方なのです。

 

イエス様の御許に行って

「主よ、私を憐れんでください。

私の魂を癒してください」

と告白しましょう。

イエス様は癒してくださいます。

 

「このお方の傷によって私たちは癒されたのです。」

(「イザヤ書」535節より)

 

このお方は私たちの心を信仰によってきれいにしてくださいます。

イエス様は私たちの良心にその血を振りかけて清め、

和、喜び、希望、新しい命を賜ります。


私たちはこのお薬をこの世での人生が終わるまで

毎日のように定期的に服用するべきなのです。

 

「主イエス様を信じなさい。

そうして、あなたもあなたの家族も救われることになります。」

(「使徒言行録」1631節)

  

(祈り)私の魂を癒してください。

私はあなたに対して罪を犯しましたから。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」9913

2023年11月22日水曜日

「力なき者に力を」「詩篇」51篇5節「自らの罪を知りなさい」

「自らの罪を知りなさい」

私は自らの罪過を知っています。

私の罪はいつも私の前にあります。

(「詩篇」515節)

 

「私はもういなくなったも同然だ!」

とある男の人がすっかり気落ちした様子で嘆きました。

それを聴いた助言者は「そうなんですか。神様に感謝します!」と答えました。

「どうしてそんなことを言うんですか?」とその人は聞き返しました。

それに対して

「人の子はいなくなったものを探して救うためにこの世に来られたからです」

という答えが返って来ました。

 

救い主の大いなる愛と恵みを見られるようになる前に、

私たちはまず自らの罪の大きさを見つめなければなりません。

 

ダヴィデは自らの罪を見つめることを学びました。

「私は自らの罪過を知っています。

私の罪はいつも私の前にあります」

と彼は嘆きました。

自らの悪い行いの罰から逃れるために、彼は神様に祈るほかなかったのです。

 

私たちの罪も重苦しいほど大きいものです。

神様は私たちが罪深さを自覚して告白するようになさいます。

 

私たちは、

自らの罪の重荷が取り除けられて、

イエス・キリストがそれを代わりに担ってくださっていることを

神様に感謝いたします。


イエス様が私たちの罪を底知れぬ赦しの海の底へ沈められたので、

それらが再び浮上して私たちを責め立てることはもうできなくなりました。

 

「御子を信じる者は裁かれない」と神様はきっぱり言い切っておられます。

イエス様の御業のおかげで、

神様は私たちの罪をもはや思い起こすことがなくなりました。

イエス様の血が私たちをあらゆる罪から清めてくださるからです。

私たちが今できることは、

言葉に言い表せないこの恵みを感謝しつつイエス様を賛美することだけです。

 

(祈り)主よ、あなたに感謝します。

あなたは私にお怒りになりましたが、

それを鎮めて私を慰めてくださったからです。

アーメン。

(関連聖句)「詩篇」51112

2023年11月10日金曜日

「力なき者に力を」「ガラテアの信徒への手紙」6章7節「堕落か、祝福か」

「堕落か、祝福か」

惑わされてはいけません。

神様は侮られるような方ではありません。

人は自分の蒔いたものを刈り取ることになるからです。

(「ガラテアの信徒への手紙」67節)  

 

この法則を別の法則に変更することはできません。

人は皆、蒔いた物を刈り取ることになるのです。

 

私たちの生活もこれと同じです。

自分が考えること、言うこと、行うことが「蒔かれる種」にあたります。

そして、それに応じた「実」を刈り取ることになります。


悪い考えは悪い行いを生みます。

口に出してしまった言葉はもう引っ込めることができません。

悪い言葉は悪い実を結びます。

肉の欲望に従って生きるとき「堕落」という実を刈り取ることになります。

 

それに対し、よい種はよい実を結びます。

神様の御言葉の活きた種が蒔かれると「永遠の命」という実を結びます。


それと同様に、人間の話す言葉も、よく言われるように、

金のリンゴのようなものにもなりえるのです。

葉によって私たちは、隣り人たちを癒したり傷つけたりします。

言葉は悲しみも生むけれど、涙をぬぐってもくれます。

 

「私は主なる神様の語られることを聴きたいのです。

主はその民、その聖徒に平和を語られるからです」(「詩篇」859節より)

という主の御言葉にしたがって自らの生き方を正していきましょう。

それによって私たちは平和と命の言葉を

隣り人たちに伝えることができるようになります。


キリストへの信仰の中で新たにされる時、私たちはよい種を蒔きます。

いつしかその種から善い実を刈り取ることができるようになり、

それを通して、神様は栄光をお受けになるのです。

 

(祈り)

この世で無益なことのために蒔いた種は

時が経つと消え失せてしまいます。

しかしたとえ他のすべてが消えても、主の平和だけはなくなりません。

そして、この賜物を求める者は永遠の宝を手に入れるのです。

アーメン。

(関連聖句)「ルカによる福音書」12638

2023年10月25日水曜日

「力なき者に力を」「列王記上」3章5節「最高のプレゼント」

 「最高のプレゼント」

 

主はギベオンでソロモンに対して夜の夢の中に現れました。

「私があなたに何を与えるか、願い求めなさい」と神様は言われました。 

(「列王記上」35節)

 

どれほど気前がよい人であっても与えるものにはかぎりがあります。

最も裕福な人でも寄付できる金額には限界があります。

それに対して、天の父なる神様にはそうした限度がありません。

私たちが必要としているすべてを、私たちが願う以上のものを

神様は与えることがおできになります。

 

ただし神様はそれに一つの条件をおつけになりました。

私たちは神様から最高の賜物を願うべきであるという条件です。

「あなたがたは求めないから、それをもっていないのです 

(「ヤコブの手紙」42節より)。

 

はたして私たちは自分が必要とするものを神様にお願いしたでしょうか。

たとえこのように願った場合にも、

はたして私たちの信仰は神様の御言葉に基づくものだったのでしょうか。

「私があなたに何を与えるか、願い求めなさい」と言われるときに、

神様は私たちに最高の賜物を差しのべてくださっているのです。

 

神様はソロモンの祈りを喜ばれました。

主の民に祝福をもたらし神様に栄光を帰すことになることがらを

ソロモンが願ったからです。

しかもソロモンが祈った以上のことを

神様はソロモンに与えてくださったのです。


ところで私たちの場合はどうでしょうか。

私たちにゆだねられている仕事などの使命を通して、

神様の御意思が実現し、神様の栄光になり、隣り人の益となるように

私たちは祈っているでしょうか。

そのように祈る時、

私たちは神様に大いなることがらを祈り願うことができるのです。

しかも神様は私たちが祈っていることよりも

はるかに多くのことを豊かに賜ります。


まずは神様が御子を通して私たちに言っておられることがらを聴いてください。

その後で神様は

私たちがイエス様の御名によって祈る時にその祈りを聴いてくださるのです。

 

(祈り)神様、私たちが清い心と全ての力をもってあなたにお仕えする

正しい意志と愛を常にもてるようになるために、

どうか私たちに恵みをお与えください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネの黙示録」16

 

2023年9月29日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」4章4節「新しい喜び」

 「新しい喜び」

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。

繰り返して言いますが、喜びなさい。 

(「フィリピの信徒への手紙」44節)

 

生きる力、仕事をする力、自分の十字架を背負う力を、

私たちはいったいどこから得るのでしょう。

これは大切な質問です。

人生はしばしば難しく感じられるものです。

人生の中で強い衝撃を受けたり、失望したり、

悲しんだりする人はたくさんいます。

生きる力はいったいどこから来るのでしょうか。

 

神様は私の祈りを聴いておられるのでしょうか。

私の抱えている難しい問題を心に留めてくださっているのでしょうか。

自分のような罪人の祈りを神様は聴かれないのではないか、

と思い込んでいる人は多いです。

しかしここで神様の素晴らしい次の約束を思い出しましょう。

 

「求めなさい、そうすれば与えられるでしょう。

捜しなさい、そうすれば見いだすでしょう。

門をたたきなさい、そうすれば開けてもらえるでしょう。」

(「マタイによる福音書」77節)

 

神様が私たちの祈りを聴いてくださっているのは確かなことです。

神様は毎日、ちょうどその日の必要に応じた力を賜ります。

私たちを持ち上げ、運び、救ってくださるのです。

 

こうして不毛な私たちの人生が再び花咲き始めます。

もう全部だめになったように見える時に、

神様は新しい希望と喜びをくださいます。

真に喜ぶべき理由が、新しい喜びの根拠が、イエス様の中にはあるのです。

 

神様は眠り込むことがありません。

いつも私の最善となるように配慮してくださっているのです。

神様の御手は疲れることを知りません。

神様の愛は冷えることがありません。

神様は聖なる洗礼において

私のことも御自分の子として受け入れてくださいました。

神様は私の面倒を見ておられます。

私に忠告を与え、手を取って導いてくださいます。

そして最後には、

私を天の御国の栄光の中へ取り込んでくださるのです。

 

(祈り)主イエス様、神様を愛する者たちにとっては

万事が益となるように働くことを

私が信仰をもって覚えられるように助けてください

(「ローマの信徒への手紙」828節より)。

アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」83139

2023年9月27日水曜日

「力なき者に力を」「ハバクク書」2章4節「自分自身の信仰」

「自分自身の信仰」  

義とされた人は、その信仰によって活きます。 

(「ハバクク書」24節)

 

信仰との個人的な関係について質問された時に、

キリスト信仰者である両親や祖父母のことを挙げる人もいれば、

配偶者の信仰心のことを挙げる人もいます。

しかし他の人の信仰のおかげで救われる人は誰もいません。

死ぬ時や最後の裁きの時に必要なのは、

家族や親戚など身近な人の信仰ではなく、

あなたを罪から贖ってくださったイエス様を

自分の救い主としてあなた自身が受け入れているということです。

 

親がキリスト信仰者である家庭で育ったとか、

洗礼を受けているとかいうことだけでは十分ではありません。

「マタイによる福音書」25章1〜13節に登場する賢い花嫁たちは

愚かな花嫁たちに自分の油を分けることができませんでした。

油を買いに行くには時すでに遅く、

婚礼会場の扉は閉じられ、

愚かな花嫁たちは外に取り残されたのです。

 

義とされた人は、その信仰によって活きます。

他の人の信仰によってではありません。

必要なのは自分自身の信仰なのです。

それはたんなる知識ではなく、福音の御言葉への心からの信頼です。

この福音の御言葉は、

イエス様があなたの罪のために死に渡され、

あなたを義とするために死者たちの中から復活なさったことを証しています。

聖霊様は福音の御言葉を真剣に聴く者なら誰にでもこの信仰を賜ります。

聖霊様は目の見えない人の目を見えるようにし、

神様に敵対する者を神様の友に変え、

死んだ者をよみがえらせます。

御霊は私たちの霊と共に、

私たちが神様の子どもであり天国を継ぐ者であることを

証してくださっています。 

 

(祈り)主よ、私は信じます。

あなたが世に来られるはずの方、神様の御子キリストであると私は信じます。

あなたが私の主であり神様であることを私は信じます。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」25113

2023年9月22日金曜日

「力なき者に力を」「創世記」4章7節「罪が待ち伏せしています」

 「罪が待ち伏せしています」 

「正しい事をしているのなら、顔をあげたらよいでしょう。

もし正しい事をしていないのなら、罪が門口に待ち伏せているのです。

その罪はあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

(「創世記」47節)

 

神様が自分の捧げ物に目もくれなかったことにカインは腹を立てました。

そして弟アベルを憎みました。

神様は弟の捧げ物を喜んでごらんになったからです。

このとき神様はカインに罪深いことをしないように警告なさいました。

罪は門口で待ち伏せしている獣のようなものだから、と。

 

このような「獣」は私たちの戸口にもいます。

どのような獣があなたに襲いかかろうとしているのでしょうか。

欲望でしょうか、怒りでしょうか、復讐心でしょうか、妬みでしょうか。

自己中心や傲慢という獣でしょうか。

こういった獣たちが今も待ち伏せしています。

もしもちゃんと治めなければ、それらはあなたに襲いかかってきます。


「人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる」

と神様の御言葉は教えています(「ガラテアの信徒への手紙」67節より)


人は誰もこの決まりを変えることができません。

 

罪という待ち伏せする獣を治めることは神様の御言葉によってのみ可能です。

律法は私たちを自らの罪深さを知るようにさせ、

キリストの救いを慕い求めるように追い込みます。


私たちがキリストの十字架の死と復活のもたらしてくれたものを

信仰において自分自身の上にまとうとき、

罪はもはや私たちの肢体を支配することができなくなります。


もはや律法は私たちを呪うことができず、

地獄の力が私たちに及ぶこともありません。


主の御名は堅固な城となり、

義とされた者はそこに走り込み、安全にかくまわれます。

「私のもとに来る者を、私は決して外に投げ出したりはしません」

とイエス様は言っておられます(「ヨハネによる福音書」637節より)。

 

(祈り)主イエス様、あなたはその血によって

私たちを罪から解放してくださいました。

罪がもはや私たちを治めないように、

あなたの御言葉と血の力によってすべての悪に勝てるように、

どうか助けてください。

罪が待ち伏せしている時に、

いつもあなたの守りの中に急いで入れるように、

どうか助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ローマの信徒への手紙」11832

2023年9月20日水曜日

「力なき者に力を」「民数記」10章29節「私たちと共に発ってください」

「私たちと共に発ってください」

さてモーセは、妻の父、ミデヤン人リウエルの子ホバブに言いました、

「かつて主があなたがたに与えると約束された所へと

私たちは前進しています。

あなたも一緒においでください。

あなたが幸いを得られるようにいたしましょう。

主がイスラエルに幸いを約束されたのですから」。

(「民数記」1029節)

 

家族ごと神様の選ばれた民に加わって

約束の地に向けて共に出発するようにと

モーセは義父ホバブを招待しました。

 

神様を信じる民は天国の故郷に向けて旅を続けています。

彼らはこの世の荒野の住人たちを共に出発するように招きます。

「すっかり用意が整っていますから、ぜひ来てください!」

という招きの声が今日もまた聞こえます。


罪人が救われるために必要なすべてのことを

神様は御子においてすでに成し遂げてくださっています。

罪は帳消しにされ、赦されました。

神様の恵みは全き賜物として私たちに差し出されているのです。

 

「私たちはあなたに幸いを提供します」

と主なる神様の教会は確言できます。

主御自身がイスラエルに大いなる幸いを賜ることを

約束してくださっているからです。


神様の教会には「恵みの手段」すなわち福音と洗礼と聖餐があります。

これらの手段を用いて神様の教会が

主の招きを受け入れた人々に与えてきた幸いなる救いの広大さは

人知ではとうてい測り知れません。

 

あなたはまだこの世の荒野の中で生活しているのですか。

共に旅に出ましょう!

神様の恵みの子たちの群れの中に加わるのをなぜためらっているのですか。

「主に祝福された者よ、中にお入りなさい!なぜ外に立っているのですか」。


もしも主イエス様が自分の救い主であることを信じ、

主の御言葉が真理であることを受け入れて、

この信仰を告白しているのなら、

あなたは主の御民の一員であり天国への旅人となっているのです。


「主がイスラエルに幸いを約束されたのですから、

あなたが幸いを得られるようにいたしましょう」。

 

(祈り)主よ、私はあなたの家を、あなたのお住いを、

あなたの栄光が留まる場所を愛しています。アーメン。

(関連聖句)「詩篇」99

2023年9月15日金曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」13章5節より「妥協のない愛」

「妥協のない愛」

 愛は自分の益を求めません。

(「コリントの信徒への第一の手紙」135節より)

 

有名な「クォ・ヴァディス」という本の中で、ある人物が

「ギリシアは我々に学問を、ローマは法律を与えてくれた。

キリスト教は何をくれたというのか」と問うたとき、

もう一人の人物は「愛だよ」と答えました。


「神は愛なり」(「ヨハネの第一の手紙」416節より)という聖句は

聖書で最も短い箇所のひとつです。


そして「神様はその独り子を賜わったほどに、この世を愛してくださいました」

(「ヨハネによる福音書」316節より)という聖句は

聖書で最も愛されてきた箇所のひとつです。

 

真の愛は愛することがどのくらい高くつくかなどと自問しません。

例えばマリアはイエス様の足に高価なナルドの香油を塗った時、

その油の価値をお金に換算しませんでした。


真の愛は仕える愛であり、自分自身のことは忘却します。


真の愛は周りの賞賛を求めずに、地味な奉仕を続けます。


神様の愛が心に注ぎ込まれた時、愛に基づく行いは見返りを求めません。


「キリストの愛が私たちをそうさせるからです」

(「コリントの信徒への第二の手紙」514節より)。


両親は自分の子どもたちのために多くのやりたいことを諦めます。


愛は妥協せず、計算高くありません。

 

愛のゆえに神様はその独り子をも惜しむことなく、

私たちのために十字架の死に渡されました。

この最大の贈り物に加えてさらに

神様は私たちにほかのすべてもキリストと共に賜ります。


この愛は私たちが愛することを学ぶように教えてくれます。

愛は私たちが自分を犠牲にするように、

さらにはすべてを断念するようにさえ導いていきます。

愛は妥協せず、自分の益を求めません。


愛は「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐えます」

(「コリントの信徒への第一の手紙」137節)。

  

(祈り)愛の神様、私たちの心に愛を注いでください。

「忍耐強く、優しく、ねたむことをしない、高ぶらない、誇らない、

不作法をしない、自分の益を求めない、恨まない、

(自分の受けた)悪を覚えない」愛をお与えください

「コリントの信徒への第一の手紙」1345節より)

アーメン。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」13