2011年6月29日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇55篇23節、ペテロの第一の手紙5章7節


あなたの心配事をすべて主に投げゆだねなさい。
この方はあなたを養い支えてくださいます。
(「詩篇」5523節)

あなたがたの心配事をすべて、この方に投げゆだねなさい。
この方はあなたがたの世話をしてくださるからです。
(「ペテロの第一の手紙」57節)

私たちが「主に投げゆだねる」という方法をよく学ぶなら、主が私たちの世話をしてくださることを確かに経験することができるでしょうに。
しかし、この方法を学ばない人は、捨てられ、隅々まで痛めつけられ、だめになり、倒れてしまいます。

2011年6月17日金曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 ローマの信徒への手紙10章4節

キリストは律法のおわりであり、信じている人ひとりひとりにとって義となってくださいます。
(「ローマの信徒への手紙」104節)

誰でも、福音が訪れる前には、律法を私たち自身の行いを要求しているものとして理解します。
律法についてのこのような考え方は、私たち人間を、かたくなで、自己満足的で、自分の行いを誇る、石甕のように硬い(「ヨハネによる福音書」2章)偽善者にするか、あるいは、まわりから圧迫を受けて苦しみを受け、平安を欠いた良心の持ち主にします。
 
(中略)
しかし、福音は、律法が、私たち人間には不可能なことを要求しており、私たち自身ではない他のあるお方がその要求を満たすことを望んでいる、という説明を与えます。
言い換えれば、律法はキリストを要求しており、私たちをキリストのみもとへと追いやるのです。
それは、私たちが、御言葉の恵みを通して信仰へと導かれて、別の人間になり、キリストに似た者となり、正しくてよい行いをするようになるためです。
律法の真の意味と目的は、私たち人間が自分の力では律法を満たすことができないことをあきらかに示して、私たちが恵みや助けを、他のお方に、すなわちキリストに求めるように追い立てることなのです。
 (中略)
私たちの心が、キリストは私たちのために律法を満たし、私たちの罪を引き取ってくださったことを聞くときに、律法が私たちに対して不可能なことを要求していることをもはや気にかけたりはしないし、(律法に従おうとする)行いをやめてしまって、絶望に落ち込んだりもしません。
そうです。
律法が、偉大なことを要求する、深く高く聖く正しくよいものであることが、いまや本当にすばらしいと実感できるようになります。
そして、律法が要求している内容の豊富さと大きさのゆえに、律法は愛され賛美されるようになります。
そのような心の持ち主は、福音のおかげで、キリストにあって、律法の要求していることをすべてもっていることになります。
(中略)
御覧なさい。
こうして律法は、以前には厳しく重く不可能なものであったのに、いまや愛すべき軽いものに変わっています。
律法は、今では御霊によって心に書き込まれているからです。
  

2011年6月15日水曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 詩篇103篇2~3節


私の魂よ、主に感謝しなさい。この方のすべてのみわざを忘れてはいけません。この方はあなたのすべての罪を赦し、あなたのすべての病を癒してくださっているのです[1]。(「詩篇」10323節)

もしも私たちが罪を忘れてしまうならば、恵みも取るに足りないものとみなしていることになります。
もしも、私たちが自分たちの犯罪を忘れてしまうならば、神様に感謝することもなくなり、自分の罪深さを悲しむ気持ちも消えて、もっと悪い罪や犯罪を平気で行うことに慣れてしまいます。
それゆえ、私たちは今までに犯してきた罪のことを考えて、神様に、
「私はこのように生き、このように行ってきました。私の罪をすべて忘れてくださった神様を賛美します」、
と言わなければなりません。
このようにして、恵みはすばらしいものに変わり、あなた自身は好ましい信仰生活に留まることができます。
要するに、もしもあなた自身が自分の罪を思い起こしてそれを心に留めるならば、神様も御自分の恵みと憐れみとを御心に留めてくださるのです。


[1] この文の二つの動詞は分詞形である。

2011年6月13日月曜日

「マルティン・ルターの旅のお弁当」 マタイによる福音書13章3節

「マルティン・ルターの宝石箱」につづいて、もうひとつのルターのテキストの抜粋集(「マルティン・ルターの旅のお弁当」という本の一部)をこれから紹介していきます。
 
  
イエス様は人々にたとえで多くのことを語られました。
(「マタイによる福音書」133節)

最良の説教者とは、キリストが人々を単純なたとえを用いて教えられたのと同じように、とても簡単に、ひねった表現を用いずに、長々と話さないで、いろいろな年齢の人たちに教えることができる人のことです。
最良の聴衆とは、喜んで御言葉を聞き、素直にそれを信じる人のことです。
たとえ彼らが弱い信仰の中にいるとしても、教え自体を疑ってはいけません。
彼らは救われるのだし、助けを得ることができます。
神様は私たちの弱さばかりではなく、たくさんの欠点をも忍んでおられるのです。
私たちがそれらを正直に告白し、十字架のもとへと避難し、罪の赦しの恵みを乞い、心を入れ替え、熱心に神様の御言葉を聴き、それを信じ、それに基づいて罪人の生活を正していくときには。

2011年6月3日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」12月26日~31日



1226

「主イエス様、私の霊をお受け取りください」と祈りつつ話している[1]ステパノに、人々は石を投げ続けていまし[2]
使徒の働き759節)

「私は祈ります、主イエス様、私の霊をお受け取りください!」
ステパノは、自分の霊がキリストにあって救われるなら肉体もまたとともに救われるのだから、自分の肉体のことを心配する必要はない、と確信していましここには死んだ後も命が続くへのステパノの信仰がすばらしい形で表現されています。ステパノ殉教したのステパノ自身のためではなく、私たち慰めためのものです。それはステパノの残した軌跡の上を私たちが歩むときにイエス様が私たちの場合にも同じように働いてくださることを私たちが疑わないためなのです




1227

彼らは収穫のときに喜ぶように、獲物を分け合うときに楽しむように、あなたの御前で喜びました。(・・・)なぜなら、独り子が私たちのために生まれ、男の子が私たちに与えられたからで
イザヤ書925節より)

この子供についてのみ、聖書は「彼は私たちのために生まれた」と言っています。この子は私たちのために生まれ、私たちのものなので。彼は自分自身のためには生まれ必要がなかったことでしょう。彼が人として生まれてからもってるものや行うことはすべて、私たちに関わりがあるのです。そして、あらゆる出来事は、私たちの益や幸福や救いのために、起こったのです。



1228

なぜなら、独り子が私たちのために生まれ、男の子が私たちに与えられたからで。支配権はその双肩にかかっており、その御名は「奇跡の助言者」、「勇士なる神」、「永遠の父」、「平和の君」と呼ばれます
イザヤ書95節)

この方は私たち全員の罪の重みいっぺんに十字架によって担いでくださいました。この方は、私たち皆が昔も今もこれからも行うすべての罪を私たちに代わって御自分に引き受け、それを赦してくださった、いう十字架のメッセージを通して、今もなお福音によって私たちの罪を担いでくださっています。これはキリストにふさわしい、慰めのことばで!この方は御国をその肩で担っておられるので



1229

彼の支配力は大きく、ダヴィデの王座とその王国には平和が限りなくつづきます。彼は今から後も永遠に、公平と正義とをもって王国を立て保たれます。万軍の主の熱情がそうなさるのです
イザヤ書96節)

ちょうど父がわが子にまた羊飼いがの羊たちにするように、この方は御国をそのすべての欠点をも含めて担いでおられます。この方は御国の民をその罪のゆえに投げ捨てず、逆に彼らを助け癒してくださいますなぜなら、この方の御国はすべての貧しい罪人にとって助けと恵みと慰めの王国だからです。



1230

「さあ私たちはベツレヘムへ行って、主が私たちに告げ知らせてくださった出来事を見て来ようではありません
ルカによる福音書215節より)

人間的な信仰と神的な信仰の真の違いは次の点にあります。人間的な信仰は特定の人間に頼り、メッセンジャーほかならぬその人であるという理由でその言葉を信用して敬いますそれに対し、神的な信仰は神様御自身がその中におられる御言葉にしっかりと留まり、それを伝える人が誰であるかには関わりなくそれが真であることを受け入れて敬います(・・・)こうした信仰は生きていても死んでいても、地獄でも天国でもくずれません。誰もそれを滅ぼすことはできないのです。そのような信仰御言葉に基づいているからで



1231

兵卒の中の一人でイエス様のわきを突き刺しました。するとすぐに血と水とが流れ出ました。
ヨハネによる福音書1934節)

主イエス・キリストのわきから流れている血こそは、私たちをあがないだすために必要な、私たちの罪を完全に帳消しにする「値段」ですなく受けた苦しみと死によって、また十字架で流された聖なる尊い血によって、愛する主イエス・キリストは私たちのすべての罪の負債を支払ってくださり、自分自身の罪のゆえに永遠の死と滅びに支配されていた私たちをあがないだしてくださいました。このキリストの血は神様のみもとで私たちを守るために休みなくこう叫び続けています、「憐れんでください!憐れんでください!赦してください!赦してください!お父様!お父様!」。のようにしてキリストの血は私たちのため神様のあわれみと罪の赦し、また義と救いをそなえてくださったのです。父なる神様は今、神様と私たちの仲介をしてくださるこの愛する御子の叫びと私たちのためのとりなしの祈りを聴いてくださり、弱々しい罪人である私たちをあわれんでくださいます。私たちはすみずみまで罪にまみれているにもかかわらず、神様は私たちの中にひとつの罪も見出しません。神様は愛する御子イエス・キリストの比類なき尊い血だけを見ておられるからです。そしてこの血によって私たちは清くすすがれているので。この血こそが黄金の恵みの衣装す。この血によって私たちはおおわれています。この血包まれて、私たちは神様の御前に進み出ます。それゆえ神様は私たちを、あたかも義と聖と無垢に満ちた愛する御子であるかのようにみなしてくださるのです


おわり


[1] 両方の動詞共、現在完了形。継続的行為を表す。
[2] 未完了過去形。過去における継続的行為をさす。

2011年6月1日水曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」12月21日~25日

  
1221

はじめから聴いたことがあなたがたのうちに留まるようにしなさい。もしもあなたがたのうちにはじめから聴いたことが留まっていれば、あなたがたは御子と御父とのうちに留まることになります
ヨハネの第の手紙224節)

これからはさらに多くの異端の霊があらわれることでしょう、それらはキリストを神様であるとも処女マリアの子であるも認めないほどひどいものかもしれません。悪魔はひとつの策略が失敗するとかならず次の策略をひねりだすものだからで。はじめからそうだったし、これからもそれは同じでしょう。それは私たちが神様への畏れをもって目を天国へと向け、神様から助けを求め、神様が私たちの幼い信仰を育て、御自分の力によって弱い器である私たを守ってくださるようにお願いするためで



1222

父祖たちも彼ら(ユダヤ人たち)に属し、肉によればキリストもまた彼らの中から出生なさいました万物の上におられる神様は永遠に感謝を受けられるべきお方です。アーメン。
ローマの信徒への手紙95節)

この救いの幸せに満ちた教えを私たちは理性によっては理解することができません。私たちは、聖書が言っているように、主キリストはまことの神様であり神的な本質において御父と同じ方であることを信じなければなりません。もしもキリストがまことの神様ではなく、御父が永遠においてお産みになった御子でもなく、すべての被造物の造り主でもないとすれば、私たちに救いはありません。



1223日 

しかし時が満ちて神様は御子を女から律法の下に生まれた方として、お遣わしになりました。それは律法の下にある者を購い出すためであり、私たちが(神様の)子としての資格をいただくようになるためでた。
ガラテアの信徒への手紙445節)

もしもあなたにとって自分が神様の子供であることが信じられないほど大きなことであると感じられるなら、愛する友よ、他でもないあなたが神様の子供になるために、キリストはこの世にられて、女から律法の下生まれてくださったことに思い起こしなさい。神様はこれよりも偉大なことを行うことがおできになったでしょうか?あなたの魂は自由に解き放たれて神様とキリストのことを喜ばないでしょうか?あなたがうれしそうに神様の愛への賛美を歌っていられなくするような苦難や不幸などが、まだありうるのでしょうか



1224

なさい、処女がみごもって男の子を産むでしょう。そしてその名はインマヌエルと呼ばれるでしょう。これは「神様は私たちと共にいてくださる」という意味で
マタイによる福音書123節)

この御言葉に基づいて、偉大なる神様が御心の中でどのようにあなたに接してくださっているか、考えてごらんなさい。あなたの悲惨さを憐れみながら、あなた自身の功績とは無関係に、まだあなたが罪の中にいるときに、神様はただ憐れみにより、あなたに御子をお遣わしになり、処女マリアの懐に置いて、あなたにこう言われているので、「見なさい、これが、あなたのために生まれ、あなたに与えら、あなたをそのすべての罪から解き放つ、私の愛する息子です。彼はあなたの助け、砦、救いなの」。



1225

そして御言葉は肉となり、私たちのうちに宿りました。
ヨハネによる福音書114節より)

もしもあなたがでもそんなことはできっこないと言うなら、私は「まさそのとおり」、と答えます。神様であ御言葉が肉(つまり人間)になったということは、理性や人間の知恵やあなた自身の考えに合致するものではありません。しかし、それは神様の御言葉と信仰に沿っているの。「今日あなたたちのためにダヴィデの町で救い主がお生まれになりました。この方は主キリストで」(ルカによる福音書211節)と愛らしい天使たちが歌ったということを、あなたも聞いたことがあるではないでしょうか。(・・・)神様は私たちの理解を超えたやり方で次のふたつのことをひとつにすることができました。すなわち、この人こそはあの偉大なる師であり、永遠に御父と同じ神的本質を持っておられるお方ということで。イエス様御自身がフィリポにこう言われているとおりで、「私を見た者は父を見たのです」(ヨハネによる福音書149節)。