2月11日
(「ガラテアの信徒への手紙」5章4節)
「自分が罪人である」ことを告白しない罪人にはならないよう、神様が私たちを守ってくださいますように!もしも私たちが罪に陥るのを神様がお許しになる場合には、私たちが「それは罪でした」と告白したあとで、神様が私たちに罪の赦しを与えてくださるような、そのような罪に落ち込ませてくださいますように!私たちが「それは罪でした」とは告白しないで、逆にそれを「義」と見なすような、そのような罪には私たちを落ち込ませなさいませんように!こういう罪に対しては、神様は私たちに赦しを与えることがありえませんから。
2月12日
あなたがたは皆、互いに対してへりくだることを身につけなさい。神様は、高ぶる者たちに反対なさり、へりくだる者たちに恵みを与えてくださるからです。
(「ペテロの第1の手紙」5章5節後半)
神様は、弱さを忍ばれますが、軽蔑という悪については忍耐なさいません。ただおひとり力に満ちた御方である神様に、私たちが自分たちの弱さを告白するのは、神様の栄光となります。しかし、私たちが神様を軽んじて、御言葉や尊い福音を無視するような悪を、神様は我慢なさいません。
2月13日
それから、人々が東から西からまた南から北からやって来て、神様の御国で食事の席に着くことでしょう。ごらんなさい、そこには最初の者になる最後の者たちや、最後の者になってしまう最初の者たちがいます。
(「ルカによる福音書」13章29~30節)
最後になってしまう危険がないほどの「高み」に達する者はひとりもいませんし、最初になる希望がないほど深く罪に陥る者はひとりもいません。どんな功績にも意味がないのです。賛美されるべきなのは、ひとえに神様の恵みのみです。そのとき、多くの最後の者は最初の者になり、多くの最初の者は最後の者になります。
2月14日
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、あなたにつかわされた人々を石で撃ち殺す者よ、ちょうどめんどりが翼の下にその雛たちを集めるように、私は何度あなたの子供たちを集めようとしたことでしょうか。しかし、あなたたちはそれを受け入れようとはしませんでした。
(「マタイによる福音書」23章37節)
神様の裁きに耐えようとする者にとっては、信じて、恵みのはたらきを心の中で経験するだけでは足りません。というのは、その人は、自分自身の中から見出だせるような、どのようなことにも頼ることができないからです。その人はキリストの義に頼らなければなりません、そして、神様の裁きの時に、それがその人の守りでなければなりません。なぜなら、キリストの義は、あらゆる栄光の中にあって、神様の御前に永遠にありつづけるからです。「詩篇」にこう書かれている通りです、「この方の義は永遠にありつづけます」(「詩篇」111篇3節)。
このことに頼る人は、そっと隠れてこの義の守りの中にもぐりこみ、この義が守ってくれることを疑わずに信じます。そしてそのとおりになるのです。その人は守りを得ます、しかしそれは、自分自身や自分の信仰のおかげではなく、その人が避けどころを求めた、キリストとキリストの義のおかげなのです。
2月15日
私を憐れんでください、神様、私を憐れんでください。私の魂はあなたに避難しますから。滅びが過ぎ去るまで、私はあなたの翼の陰に避難しますから。
(「詩篇」57篇2節)
私たちはキリストに、キリストなる岩に、キリストなる避けどころにとどまらなければなりません。さもないと、すべては手遅れになってしまいます。