2010年11月30日火曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」2月11日~15日

2月11日

律法によって義とされようとする[1]あなたがたは皆、キリストから離れてしまいました[2]、恵みから落ちてしまいました[3]。
(「ガラテアの信徒への手紙」5章4節)

「自分が罪人である」ことを告白しない罪人にはならないよう、神様が私たちを守ってくださいますように!もしも私たちが罪に陥るのを神様がお許しになる場合には、私たちが「それは罪でした」と告白したあとで、神様が私たちに罪の赦しを与えてくださるような、そのような罪に落ち込ませてくださいますように!私たちが「それは罪でした」とは告白しないで、逆にそれを「義」と見なすような、そのような罪には私たちを落ち込ませなさいませんように!こういう罪に対しては、神様は私たちに赦しを与えることがありえませんから。



2月12日

あなたがたは皆、互いに対してへりくだることを身につけなさい。神様は、高ぶる者たちに反対なさり、へりくだる者たちに恵みを与えてくださるからです。
(「ペテロの第1の手紙」5章5節後半)

神様は、弱さを忍ばれますが、軽蔑という悪については忍耐なさいません。ただおひとり力に満ちた御方である神様に、私たちが自分たちの弱さを告白するのは、神様の栄光となります。しかし、私たちが神様を軽んじて、御言葉や尊い福音を無視するような悪を、神様は我慢なさいません。



2月13日

それから、人々が東から西からまた南から北からやって来て、神様の御国で食事の席に着くことでしょう。ごらんなさい、そこには最初の者になる最後の者たちや、最後の者になってしまう最初の者たちがいます。
(「ルカによる福音書」13章29~30節)

最後になってしまう危険がないほどの「高み」に達する者はひとりもいませんし、最初になる希望がないほど深く罪に陥る者はひとりもいません。どんな功績にも意味がないのです。賛美されるべきなのは、ひとえに神様の恵みのみです。そのとき、多くの最後の者は最初の者になり、多くの最初の者は最後の者になります。



2月14日

エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、あなたにつかわされた人々を石で撃ち殺す者よ、ちょうどめんどりが翼の下にその雛たちを集めるように、私は何度あなたの子供たちを集めようとしたことでしょうか。しかし、あなたたちはそれを受け入れようとはしませんでした。
(「マタイによる福音書」23章37節)

神様の裁きに耐えようとする者にとっては、信じて、恵みのはたらきを心の中で経験するだけでは足りません。というのは、その人は、自分自身の中から見出だせるような、どのようなことにも頼ることができないからです。その人はキリストの義に頼らなければなりません、そして、神様の裁きの時に、それがその人の守りでなければなりません。なぜなら、キリストの義は、あらゆる栄光の中にあって、神様の御前に永遠にありつづけるからです。「詩篇」にこう書かれている通りです、「この方の義は永遠にありつづけます」(「詩篇」111篇3節)。

このことに頼る人は、そっと隠れてこの義の守りの中にもぐりこみ、この義が守ってくれることを疑わずに信じます。そしてそのとおりになるのです。その人は守りを得ます、しかしそれは、自分自身や自分の信仰のおかげではなく、その人が避けどころを求めた、キリストとキリストの義のおかげなのです。



2月15日

私を憐れんでください、神様、私を憐れんでください。私の魂はあなたに避難しますから。滅びが過ぎ去るまで、私はあなたの翼の陰に避難しますから。
(「詩篇」57篇2節)

私たちはキリストに、キリストなる岩に、キリストなる避けどころにとどまらなければなりません。さもないと、すべては手遅れになってしまいます。


[1] 現在形。
[2] アオリスト。
[3] アオリスト。

2010年11月26日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」2月6日~10日

  
2月6日

しかし信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたたちは皆、キリスト・イエスにおける信仰を通して神様の子どもたちなのす。
(「ガラテアの信徒への手紙」3章25~26節)

キリストは、人間性を身にまとって、時間の世界に踏み入り、律法をあらゆる裁きと共に満たし、御自分の死によって、信仰を通してキリストの恵みのみわざを自分の宝物としている人たちを、罪や永遠の滅びから解放しました。ということは、もしもあなたがキリストとキリストのみわざとを見つめているならば、あなたはもはや律法の下にはいないことになります。なぜなら、キリストは、時が満ち世にあらわれて、律法の要求を完全に満たしてくださったからです。いったん律法が満たされた以上、私たちはもはや律法の厳しい監視の下にはいないのです。それで私たちは、御霊により憐れみ深く私たちを支配してくださるキリストの中で、安心し喜んで生きていくことができるのです。



2月7日

それだから兄弟たちよ、「イエス様を通してあなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられている」ということを、あなたがたは知らなければなりません[1]。あなたたちがモーセの律法によっては義とされなかったあらゆることに関して、信じている人は皆キリストにおいて義とされているのです[2]。
(「使徒たちの働き」13章38~39節)

繰り返しますが、福音は恵みと罪の赦しを神様が保証してくださっていること以外のなにものでもありません。



2月8日

イエス様は、酸い葡萄酒を受けたとき「満たされた」と言われました。そして頭を傾けて霊をお渡たしになりました。
(「ヨハネによる福音書」19章30節)

罪が私たちの上に重くのしかかるときには、それをキリストに肩代わりしていただきましょう。キリストはそれを十字架に運んで私たちに罪の赦しを与え、死と悪魔を滅ぼそうと望んでおられます。このようにして、私たちもキリストの死にあずかる者になるのです。



2月9日

このようにして律法は、私たちが信仰によって義とされるために私たちをキリストへと導く、私たちの「養育者」となったのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」3章24節)

私たちが天国でモーセに出会うときに、モーセはこう尋ねることでしょう、「どうやってここに来ましたか。律法を破らなかったのですか」。そのときに私たちはこう答えます、「私たちは律法の光のもとではあまりに惨めでした。律法の要求は私たちを不安に陥れ、キリストへと追いやりました。キリストにあって私たちは、律法が要求しつつも実現できずにいたことをすべて、一挙に得ました」。そのときモーセはこう答えるでしょう、「あなたたちは私の言っていることを正しく理解しましたね」。



2月10日

律法の行いに頼る者は皆、のろいの下にあります。次のように書いてある通りです、「律法の書に書いてあるすべてのことの中にとどまって、それらを行おうとしない[3]者は皆それぞれのろわれています」。律法によっては、誰も神様の御前で義とされない[4]のは、明瞭です。なぜなら、「義人は信仰により活きることになる[5]」からです。
(「ガラテアの信徒への手紙」3章10~11節)

「義とされるためには律法が必要だ」と教える者は、キリストやキリストの恵みのみわざを否定して、神様を嘘つきにしてしまいます。なぜなら、律法はキリストについての約束を強く支え、「キリストは律法ではなく、恵みの王様である」ことを予言したからです。


[1] 動形容詞の人称的用法。
[2] 現在形。
[3] 不定詞。目的をあらわす。
[4] 現在形。
[5] 未来形。