2月1日
初めからあった[1]もの、私たちが聞いたことがある[2]もの、私たちが自分たちの目で見たことがある[3]もの、私たちが見つめそして自分たちの手が触れた[4]もの、すなわち「命の言葉」について。この命が現れました[5]。そして、御父のもとにあった[6]が私たちのために現れた[7]永遠の命を、私たちは見て[8]、証し、宣べ伝えているのです[9]。
(「ヨハネの第一の手紙」1章1~2節)
これ以外の方法では、神様はキリストをこの世に贈ることができませんでした。神様はキリストを御言葉に着せ、そうしてキリストを贈り、すべての人に差し出さなければなりませんでした。そうでなければ、キリストはひとり取り残されて誰にも知られないままになり、私たちはキリストの死から何も得ることがないままになったことでしょう。
2月2日
(「ヨハネによる福音書」8章51節)
御言葉は私たちに「罪や死や悪魔に勝たれたキリスト」を提示します。御言葉を受け入れそれを守る者は、キリストを受け入れるのであり、御言葉を通して永遠の死から解放されます。私たちは「御言葉を守るように」といたずらに命じられているわけではありません。罪が傷つけ、死が攻撃し、地獄が圧迫するとき、私たちは本当の戦争に巻き込ます。そのような時こそ、私たちは御言葉のもとへとしっかり避難し、御言葉から決して離れないことが肝心なのです。
2月3日
私たちはあなたたちに、父たちに対してなされた約束について福音を宣べ伝えています。「あなたは私の子、今日私はあなたを生んだ」と詩篇2篇にある通りにイエス様を復活させることによって、神様はこの約束を私たちのために実現してくださいました。
(「使徒の働き」13章32~33節)
福音は、キリストをあらゆる恵みの賜物と共に約束し提供する、命の言葉、恵みの教え、喜びの光です。
2月4日
しかし、すべての人が福音に聴き従ったわけではありません。イザヤがこう言っている通りです、「主よ、誰が私たちから聞いたことを信じましたか」。このように、信仰は聴くことから生まれ、聴くことはキリストの御言葉を通して実現するのです。
(「ローマの信徒への手紙」10章16~17節)
信仰は聴くことから生まれます。人が聴くようになるのは、神様の御言葉とキリストについての宣教を通してです。この宣教が「福音」、すなわち、あらゆる善と救いの始まり、継続、完成です。福音はキリストについてのよき知らせであり、宣教です。キリストは善、愛、恵みそのものです。
2月5日
こうして主の僕モーセは主の御言葉の通りにモアブの地で死にました。主は彼をベトペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られましたが、今日までその墓を知る人は誰もいません。
(「申命記」34章5~6節)
モーセが預言者として、またキリストの証人として、読まれたり聞かれたりするのを、私たちは許します。モーセのよい模範や素晴らしい律法に従うことも、私たちは許します。しかし、モーセが私たちの良心を支配することを、私たちはどんなことがあっても認めません。良心の問題に関しては、モーセは誰もその墓の場所がわからないような状態で、死んで葬られたままになっていればよいのです。