2010年11月26日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」2月1日~5日

  
21

初めからあった[1]もの、私たちが聞いたことがある[2]もの、私たちが自分たちの目で見たことがある[3]もの、私たちが見つめそして自分たちの手が触れた[4]ものすなわち「命言葉」について。このが現れまし[5]。そして、御父のもとにあった[6]が私たちのために現れた[7]永遠のを、私たちは見[8]、証し、宣べ伝えているので[9]
ヨハネの第の手紙112節)

これ以外の方法では、神様はキリストをこの世に贈ることできませんでした。神様はキリスト御言葉着せ、そうしてキリストを贈り、すべての人に差し出さなければなりませんでしたそうでなければキリストはひとり取り残されて誰にも知られないままになり、私たちキリストの死から何も得ることがないままになったことでしょう。



22

まことにまことに私はあなたがに言います。もしも誰かが私の言葉守るならその人は永遠に死を見ることはありません[10]
ヨハネによる福音書851節)

御言葉たちに罪や死や悪魔に勝たれたキリスト提示します御言葉を受け入れそれを守る者はキリストを受け入れるのであり御言葉通して永遠の死から解放されます。私たちは「御言葉守るように」といたずらに命じられているわけではありません。罪が傷つけ、死が攻撃し、地獄が圧迫するとき私たちは本当の戦争に巻き込ま。そのような時こそ、私たちは御言葉のもとへとしっかり避難し、御言葉から決して離れないことが肝心なので



23

私たちはあなたたちに、父たちに対してなされた約束について福音を宣べ伝えています。「あなたは私の子、今日私はあなたを生んだ」と詩篇2にある通りにイエス様を復活させることによって、神様はこの約束を私たちのために実現してくださいました。
使徒の働き133233節)

福音はキリストをあらゆる恵みの賜物と共に約束し提供する、命の言葉恵みの教え、喜びの光です。



24

しかし、すべての人が福音に聴き従ったわけではありません。イザヤこう言っている通りです、「主よ、誰が私たちから聞いたことを信じましたか」。このように、信仰は聴くことから生まれ聴くことはキリストの御言葉を通して実現するので
ローマの信徒への手紙101617節)

信仰は聴くことから生まれます。人が聴くようになるのは、神様の御言葉とキリストについての宣教を通してです。この宣教が福音、すなわち、あらゆる善と救いの始まり継続完成です。福音はキリストについてのよき知らせであり、宣教。キリストは善、愛、恵みそのもので



25

こうして主の僕モーセは主の御言葉通りにモアブの地で死にました。主は彼をベトペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られましたが、今日までその墓を知る人誰もいません
申命記3456節)

モーセが預言者としてまたキリストの証人として読まれたり聞かれたりするのを、私たちは許します。モーセのよい模範や素晴らしい律法に従うことも、私たちは許します。しかし、モーセが私たちの良心を支配すること、私たちはどんなことがあっても認めません。良心の問題に関しては、モーセは誰もその墓の場所がわからないような状態で、死んで葬られたままになってればよいのです。


[1] 未完了過去形
[2] 完了形
[3] 完了形
[4] アオリスト(両方とも)
[5] アオリスト
[6] 未完了過去形
[7] アオリスト
[8] 完了形
[9] 現在形(両方とも)>継続を表す
[10] 従属文: εαν + 接続法アオリスト、主文:接続法アオリストある異文では主文にギリシア語の構文法に沿った直説法未来形が使われている)。この構文は未来における実現可能な状態を表している。この場合従属文は主文の前にあり、従属文を強調している。