1月26日
ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。すべて人の子を信じる人が、永遠の命を持つためです。
(「ヨハネによる福音書」3章14~15節)
神様の独り子は、私たちの身代わりに罪を贖うための犠牲とならなければなりませんでした。この犠牲によって、神様の怒りはなだめられ、私たちは罪から贖い出されるのです。このみわざが今の私たちの救いや慰めであり、洗礼において働いている力となっています。それは、私たちが新しく生まれて、天国に入るためなのです。
1月27日
(「マタイによる福音書」3章17節)
キリストの洗礼があなたの洗礼であり、あなたの洗礼がキリストの洗礼であるために、あなたは自分の洗礼と共にキリストの洗礼のもとへ来なければなりません。このようにすれば、あるのは「ただひとつの洗礼」だけです。洗礼は、それによって私たちの罪が洗い去られるような「洗い」なのです。二ケア信条で、次のように告白するとおりです、「ひとつの洗礼が罪の赦しを与えることを、私たちは告白します」。聖パウロはこう言っています、「キリスト・イエスへと洗礼を受けた私たちは皆、この方の死へと洗礼を受けたのです」(「ローマの信徒への手紙」6章3節)、また、「キリストへと洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたのです」(「ガラテアの信徒への手紙」3章27節)。
もしも仮に洗礼が私たちに「このこと」を、すなわち罪の赦しを、もたらさないのなら、洗礼には何の益もないし、他の洗いよりすぐれているということもなくなります。「キリストは私たちのために洗礼をお受けになった」ということを、私たちは知って信じなければなりません。そして、こう言わなければなりません、「この方の洗礼は私の洗礼であり、私の洗礼はこの方の洗礼です。この方はこの世の罪を担っておられる神の小羊だからです」。
1月28日
私たちは「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えています。キリストは、ユダヤ人たちにとっては躓かせるもの、異邦人にとっては愚かなものです。しかし、召された者たち自身にとっては、ユダヤ人にもギリシア人にも、キリストは神様の力であり、神様の知恵なのです。
(「コリントの信徒への第一の手紙」1章23~24節)
理性は、「この世を傷つけないように配慮しつつ、できるだけ表面的に宣教するべきだ。そうすればもっとよく福音が伝わる」などと考えます!しかし、それはサタンの教えです。私は「キリストへの信仰はすべてを実現しすべてに働きかける」と信じて教えるときに、この世への追従をやめています。しかし、サタンはそれに耐えられません。それゆえ、キリストの教えとこの世の教えとは折り合いがつかず、これらのうちどちらかが崩れ去らなければならなくなるのです。
1月29日
このようなわけで、人は私たちをキリストの僕、神様の奥義の管理人とみなしなさい。
(「コリントの信徒への第一の手紙」4章1節)
「神様の奥義」とはどういう意味でしょうか。それは他でもない「キリスト御自身」すなわち「福音と信仰」のことです。福音の説教は、理性や感覚で扱えることとはまったく違う何かだからです。それは、全世界から隠されており、キリスト御自身が言われているように、信仰によってのみ受け入れることができるものなのです(「マタイによる福音書」11章25節、「コリントの信徒への第一の手紙」2章7~8節)。
1月30日
ここでは、「」
ここでは、管理人たちの中にある種の忠実さが見出されることが、何にも増して要求されています。
(「コリントの信徒への第一の手紙」4章2節)
キリストの僕は、「神様の奥義の管理人」です。それゆえ、キリストの僕は、ひたすらキリストというお方のみについて神様の家族に宣教する者として、自負をもち、他の人たちからも尊敬を受けるようになりましょう。キリストの僕は、純粋な福音と純粋な信仰を宣教し、「キリストのみが私たちの命であり、道であり、知恵であり、力であり、賛美であり、救いである」ということを教えなければなりません。一方、私たちの罪深い性質の中には、死と、迷いと、愚かさと、非力と、恥と、断罪されるべきものがあるだけなのです。
1月31日
しかし、私たちの救い主である神様の善と人への愛が現れたとき、私たち自身の義しい行いによってではなく、御自身の憐れみによって、神様は私たちを救われました。神様は私たちを洗って再び生み、聖霊様が私たちを新しくしてくださいました。この聖霊様を神様は、私たちの救い主イエス・キリストを通して、私たちの上に豊かに注ぎ始めてくださいました[2]。それは、私たちがイエス様の恵みによって義とされ、私たちが望んでいるように、永遠の命の相続人となるためです。
(「テトスへの手紙」3章4~7節)
洗礼において私たちに与えられた神様の恵みを、パウロは大いに賛美しています。パウロは洗礼を、手や足だけではなく、からだ全体の洗いとみなしています。洗礼は人間全身をいっぺんにきれいにし、幸いな救いに与るものにします。この救いを与り受け継ぐために必要なのは、神様の恵みへの信仰だけです。それは、私たちが自分の善い行いによってではなく、ただただ恵みによって、救いに与り、神様の憐れみを永遠に愛し、純真に賛美し感謝し敬うようになり、また、栄光を求めて自分の能力に頼ったり自分で自分を助けようとしたりはしないようにするためです。