2010年11月26日金曜日

「マルティン・ルターの宝石箱」1月26日~31日

  
126

ちょうどモーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。すべて人の子を信じる人が永遠の命を持つためで
ヨハネによる福音書31415節)

神様の独り子は、私たちの身代わりに罪を贖うための犠牲とならなければなりませんでした。この犠牲によって神様の怒りはなだめられ、私たちは罪から贖い出されるので。このみわざが今の私たちの救いや慰めであり、洗礼において働いている力となっています。それは私たちが新しく生まれて天国に入るためなの



127

そして、見よ、天からの声がこう言いました、「これは私の愛する息子、私の心に適った[1]者で
マタイによる福音書317節)

キリストの洗礼あなたの洗礼であり、あなたの洗礼キリストの洗礼であるために、あなたは自分の洗礼と共にキリストの洗礼のもとへ来なければなりません。このようにすれば、あるのは「ただひとつの洗礼」だけです。洗礼は、それによって私たちの罪が洗い去られるような「洗い」なので。二ケア信条で次のように告白するとおりです、「ひとつの洗礼が罪の赦しを与えることを、私たちは告白します」聖パウロはこう言っています、「キリスト・イエスへと洗礼を受けた私たちは皆、この方の死へと洗礼を受けたのです」(ローマの信徒への手紙63節)また「キリストへと洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを身に着けたので」(ガラテアの信徒への手紙327節)
 もしも仮に洗礼が私たちにこのことを、すなわち罪の赦しを、もたらさないなら、洗礼には何の益もないし、他の洗いよりすぐれているということもなくなりますキリストは私たちのために洗礼をお受けになったということを私たちは知って信じなければなりません。そしてこう言わなければなりません、「この方の洗礼は私の洗礼であり、私の洗礼はこの方の洗礼で。この方はこの世の罪を担っておられる神の小羊からです



128

私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。キリストはユダヤ人たちにとっては躓かせるもの、異邦人にとっては愚かなもので。しかし召された者たち自身にとっては、ユダヤ人にもギリシア人にも、キリストは神様の力であり神様の知恵なの
コリントの信徒への第の手紙12324節)

理性は、「この世を傷つけないように配慮しつつ、できるだけ表面的に宣教するべきだ。そうすればもっとよく福音が伝わるなどと考えます!しかし、それはサタンの教えで私は「キリストへの信仰すべてを実現しすべてに働きかける」と信じ教えるときに、この世への追従をやめています。しかし、サタンはそれに耐えられません。それゆえ、キリストの教えとこの世の教えとは折り合いがつかず、これらのうちどちらかが崩れ去らなければならなくなるのです。



129

このようなわけで、人は私たちをキリストの僕、神様の奥義の管理人とみなしなさい
コリントの信徒への第の手紙4章1節)

神様の奥義とはどういう意味でしょうか。それは他でもないキリスト御自身すなわち福音と信仰のことで。福音の説教は理性や感覚で扱えることとはまったく違う何かだからで。それは、全世界から隠されており、キリスト御自身が言われているように、信仰によってのみ受け入れることができるものなのでマタイによる福音書1125節、コリントの信徒への第の手紙278節)。



130

ここでは、「」
ここでは、管理人たちの中にある種の忠実さが見出されることが、何にも増して要求されています
コリントの信徒への第の手紙42節)

キリストの僕は、「神様の奥義の管理人。それゆえキリストの僕は、ひたすらキリストというお方のみについて神様の家族に宣教する者として、自負をもち、他の人たちからも尊敬を受けるようになりましょう。キリストの僕は純粋な福音と純粋な信仰を宣教し、キリストのみが私たちのであり、道であり知恵であり、力であり、賛美であり、救いであるということを教えなければなりません一方、私たちの罪深い性質の中には、死と迷いと愚かさと非力と恥と、断罪されるべきものがあるだけなので



131

しかし、私たちの救い主である神様の善と人への愛が現れたとき、私たち自身の義しい行いによってではなく御自身の憐れみによって、神様は私たちを救われました。神様は私たちを洗って再び生み、聖霊様が私たちを新しくしてくださいました。この聖霊様を神様は、私たちの救い主イエス・キリストを通して私たちの上に豊かに注ぎ始めてくださいました[2]。それは私たちがイエス様の恵みによって義とされ、私たちが望んでいるように永遠のの相続人となるためで
テトスへの手紙347節)

洗礼において私たちに与えられた神様の恵みを、パウロは大いに賛美しています。パウロは洗礼を、手や足だけではなくからだ全体洗いとみなしています。洗礼は人間全身をいっぺんにきれいにし、幸いな救い与るものにします。この救い与り受け継ぐために必要なのは、神様の恵みへの信仰だけです。それは、私たちが自分の善い行いによってではなくただただ恵みによって、救いに与り、神様の憐れみを永遠に愛し純真に賛美し感謝し敬うようになり、また、栄光を求めて自分の能力に頼ったり自分で自分を助けようとしたりしないようにるためで


[1] 直説法アオリスト。

[2] 未完了過去。過去において開始されようとしている動作あるいは状態。