2月6日
しかし信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたたちは皆、キリスト・イエスにおける信仰を通して神様の子どもたちなのす。
(「ガラテアの信徒への手紙」3章25~26節)
キリストは、人間性を身にまとって、時間の世界に踏み入り、律法をあらゆる裁きと共に満たし、御自分の死によって、信仰を通してキリストの恵みのみわざを自分の宝物としている人たちを、罪や永遠の滅びから解放しました。ということは、もしもあなたがキリストとキリストのみわざとを見つめているならば、あなたはもはや律法の下にはいないことになります。なぜなら、キリストは、時が満ち世にあらわれて、律法の要求を完全に満たしてくださったからです。いったん律法が満たされた以上、私たちはもはや律法の厳しい監視の下にはいないのです。それで私たちは、御霊により憐れみ深く私たちを支配してくださるキリストの中で、安心し喜んで生きていくことができるのです。
2月7日
それだから兄弟たちよ、「イエス様を通してあなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられている」ということを、あなたがたは知らなければなりません[1]。あなたたちがモーセの律法によっては義とされなかったあらゆることに関して、信じている人は皆キリストにおいて義とされているのです[2]。
(「使徒たちの働き」13章38~39節)
繰り返しますが、福音は恵みと罪の赦しを神様が保証してくださっていること以外のなにものでもありません。
2月8日
イエス様は、酸い葡萄酒を受けたとき「満たされた」と言われました。そして頭を傾けて霊をお渡たしになりました。
(「ヨハネによる福音書」19章30節)
罪が私たちの上に重くのしかかるときには、それをキリストに肩代わりしていただきましょう。キリストはそれを十字架に運んで私たちに罪の赦しを与え、死と悪魔を滅ぼそうと望んでおられます。このようにして、私たちもキリストの死にあずかる者になるのです。
2月9日
このようにして律法は、私たちが信仰によって義とされるために私たちをキリストへと導く、私たちの「養育者」となったのです。
(「ガラテアの信徒への手紙」3章24節)
私たちが天国でモーセに出会うときに、モーセはこう尋ねることでしょう、「どうやってここに来ましたか。律法を破らなかったのですか」。そのときに私たちはこう答えます、「私たちは律法の光のもとではあまりに惨めでした。律法の要求は私たちを不安に陥れ、キリストへと追いやりました。キリストにあって私たちは、律法が要求しつつも実現できずにいたことをすべて、一挙に得ました」。そのときモーセはこう答えるでしょう、「あなたたちは私の言っていることを正しく理解しましたね」。
2月10日
律法の行いに頼る者は皆、のろいの下にあります。次のように書いてある通りです、「律法の書に書いてあるすべてのことの中にとどまって、それらを行おうとしない[3]者は皆それぞれのろわれています」。律法によっては、誰も神様の御前で義とされない[4]のは、明瞭です。なぜなら、「義人は信仰により活きることになる[5]」からです。
(「ガラテアの信徒への手紙」3章10~11節)
「義とされるためには律法が必要だ」と教える者は、キリストやキリストの恵みのみわざを否定して、神様を嘘つきにしてしまいます。なぜなら、律法はキリストについての約束を強く支え、「キリストは律法ではなく、恵みの王様である」ことを予言したからです。