2026年7月3日金曜日

「力なき者に力を」「ヘブライの信徒への手紙」10章36節「約束は成就します」

「約束は成就します」 

神の御旨を行って約束のものを受けるために

あなたがたに必要なのは忍耐です。

(「ヘブライの信徒への手紙」1036節)

 

これから何が待ち受けているか私たちにはわからない時であっても、

イエス様への信仰を通して永遠の救いを恵みの賜物としていただける

という神様の約束はいつも有効です。

 

キリスト信仰者の人生には計画が与えられています。

そしてそれは全能の神様の御手の中にあります。

神様は手をつないで私たちを一歩一歩導いてくださいます。

私たちには未来が見えません。

しかし、主は未来のこともよくご存知です。

誰も私たちを主の御手から奪い去ることはできません。

このことを知っておくのは私たちにとって大切です。

 

今日、私たちには罪の赦しがあります。

今日、私たちは洗礼という恵みの契約の中で生きることができます。

私たちは天の御国の富を受け継ぐ約束をいただいています。

天の御国に到着するまでこの世で旅を続けている間、 

福音が純粋に宣べ伝えられ聖礼典が正しく施行される神様の教会の中で

私たちは生きていくことができます。

 

たとえこの世の人生においてさまざまな苦しみにあったとしても、

私たちは自分の力に頼るのをやめて、

日々キリストを自分の上にまとうことができます。

そして、よりよく神様の御言葉を研究し、

祈り、待ち望み、勝利することを学びます。

 

約束の地へと向けて信仰を持って歩むように、

私たちは他の人たちにも大胆に勧めることができます。

約束されたものをいただくためには忍耐が必要なのです。

神様の約束は成就します。

 

(祈り)主よ、あなたの約束を忠実に守れるように、

また、あなたが私たちを目的地まで運びたいと思われていると信頼できるように、

どうか私たちを助けてください。アーメン。

(関連聖句)「ヘブライの信徒への手紙」103539

2026年6月29日月曜日

「力なき者に力を」「出エジプト記」15章24節「苦い水」

「苦い水」 

民はモーセに対して不服そうに

「私たちは何を飲むのですか」と言いました。

(「出エジプト記」1524節)

 

喉が渇いて苦しんでいる人に差し出された水が

もしも飲むに耐えないものだったとしたら、

不幸としか言いようがありません。

そして、荒野でイスラエルの民の上に起こったのはこのようなことでした。

民はやっと泉のほとりに辿り着いたものの、

そこの水は苦くて飲めたものではなかったのです。

 

彼らはモーセに不平を言いました。

その時、モーセは主に叫びました。

すると「主が彼に一本の木を示されたので、

それを水に投げ入れると水は甘くなりました」(25節)。

 

私たちも渇きを覚えているときに

口元に「苦い水」をもらうことがあります。

信頼を裏切られたり、

計画がだめになったり、

健康を害したりする場合もあるでしょう。

自分があたかも包囲されているかのように感じられるのです。

そのような時、私たちは主に叫ぼうともしないで

不平ばかりこぼすのではないでしょうか。

 

今もまた主は私たちに

苦い水を飲める水に変えてくれる木を指し示しておられます。

その木とはゴルゴタの十字架です。

この十字架の木でイエス様が私たちの罪の罰を引き受けて苦しまれたことを

御言葉は私たちに教えています。

私たちは神様と和解させていただき、罪を赦していただきました。


神様は私たちに不要な試練を一つたりともお与えにはなりません。

この試練という十字架は私たちの人生の苦い水を飲めるものに変えてくれます。

そして、私たちは苦しみのさなかにあっても神様を賛美することを学ぶのです。

 

(祈り)

私に与えられた分が大きいものであっても小さいものであっても、

私は自分の人生と道をあなたにゆだねます。

お父様、どうか私たちひとりひとりを導いてください。

国と力と栄えとはあなたのものです。アーメン。

(関連聖句)「出エジプト記」152227

2026年6月25日木曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」6章33節「まず一番大切なものを」

「まず一番大切なものを」

 

まず神様の御国と神様の義とを求めなさい。

(「マタイによる福音書」633節)

 

私たち人間には実に変なところがあります。

イエス様が「まず神様の御国を求めなさい」と言われるときに、

まず私たちはこの世的なものを探し、儚いものに喜びを求めるのです。

 

神様に受け入れていただける義は、

キリストが私たちの救いのために成就した十字架の御業の中にしかありません。

 

キリストを通して私たちは神様との平和をいただいています。

この聖霊様の御国はイエス様のうちにあります。

イエス様は福音と聖礼典(洗礼と聖餐)のうちから見いだされます。

それゆえ、神様の御言葉を聴くのはなによりも大切なことなのです。

御言葉が純粋に宣べ伝えられる礼拝に私たちが参加することを妨げようとする

いかなる口実もあってはなりません。

私たちには御言葉なしで過ごす余裕など一日たりともないからです。

私たちの罪の赦しのためにイエス様がその身体と血の聖礼典を与えてくださる

新しい契約の食事(聖餐式)に参加しないことがどうしてありえましょうか。

また、洗礼を通して神様が私たちを御自分の子どもとして生んでくださった

という恵みの契約に日々立ち返っていくことも大切なことです。

 

神様の御言葉が用いられているとき、

主の御業が私たちにとっていっそう大切なものになります。

そして、私たちは神様の御国の拡大のために

自分の時間や才能や資力を喜んで活用するようになります。

このようにして、

一番大切なことがそれにふさわしく一番はじめにくることになるのです。

 

(祈り)あなたの愛をどうか私たちにも大きくしてください。

それによって、私たちが自分のために生きることを

やめることができるようになるためです。

神様、私たちのうちにも

自らを御国のために捧げる私欲のない心を形作ってください。

そして、私たちがいつもしっかりと目を覚まして

祈れるようになさってください。

アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」134446

2026年6月22日月曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」25章15節「あなたは自分の賜物をどのように用いていますか?」

「あなたは自分の賜物をどのように用いていますか?」

 

ある人が(僕たちの)それぞれの能力に応じて、

ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを

与えて旅に出ました。

(「マタイによる福音書」2515節)

 

有名なアメリカ人の伝道者のメッセージを批判的に聴いていたある人が、

あとでその伝道者のもとに来てその言葉遣いの誤りを指摘しました。

すると、彼はこう答えました、

「おそらく私は間違った言葉遣いをしたのでしょう。

私の受けた教育は不十分なものだったからです。

それでも、私は自分のもてる語学力をキリストに仕えるために用いています。

あなたも同じようにしていますか」。

 

自分に賜物が欠けていることを言い訳にして、

主に仕えようとしない自分のやる気のなさを正当化しようとする

キリスト信仰者たちがいます。

「いろいろ忙しいから」という人もいれば

「経済的な余裕がないから」と言う人たちさえいます。

 

タラントのたとえを通してイエス様は、

私たちが多分やるかもしれないことではなく、

私たちが実際に行うことにこそ関心をお持ちであることをお示しになりました。


イエス様は私たち一人一人に、

それぞれの能力に応じて数多くの恵みの賜物をくださいます。

より多くの賜物を授かっている人から、

イエス様はより多くのことを要求なさいます。

一方、より少ない賜物を授かっている人からは、

より少ないことが要求されるのです。

しかし、

それぞれが授かっているタラントを忠実に用いることが前提になっている

という点は皆に共通しています。

 

キリストはすべての人のために死なれました。

それは、

生きている人がもはや自分のために生きるのではなく、

自分のために死んでくださり、

よみがえってくださったお方のために生きるためなのです。

 

(祈り)天の父なる神様、

あなたが私にくださったタラントを

イエス様のために忠実に用いることができるように、

どうか助けてください。アーメン。

(関連聖句)「マタイによる福音書」251430

2026年6月16日火曜日

「力なき者に力を」「詩篇」26篇8節「御言葉を聴きに行っていますか?」

「御言葉を聴きに行っていますか?」 

主よ、私はあなたの住まわれる家と、

あなたの栄光のとどまる所とを愛します。

(「詩篇」268節)

 

「私は主の住まわれる家を愛している」

と私たちは正直に言うことができるでしょうか。

私たちは神様の御言葉を聴くことを本当に願っているのでしょうか。

 

キリスト教会の会員のうちどれほど多くの人々が

神様の御言葉の説教を軽んじて、

それとはかけ離れた別の場所にいそいそと出かけていくことでしょうか!

彼らの礼拝に参加できない原因やその理由付けは

とってつけたようなものが大半です。

しかし、神様相手にそのような申し開きが通用するのでしょうか。

 

御言葉が混じりけなくはっきりと宣べ伝えられるところでは、

神様御自身が私たちに話しかけてくださいます。


イエス様は

あなたがたに聴き従う者は私に聴き従うのであり、

あなたがたを拒む者は私を拒むのです。

そして私を拒む者は私をお遣わしになった方を拒むのです

と言っておられます(「ルカによる福音書」1016節)。


神様の御言葉を自宅で読んだり、

ラジオやテレビやインターネットなどから聴いたりするだけで

満足するべきではありません。

私たちの本来の居場所は、キリスト信仰者たちが一堂に会する場所なのです。

 

教会(礼拝)はキリスト信仰者の集まりです。

主の栄光は、律法の説教を通して私たちが罪を自覚するところで輝き、

またイエス様のあがないの御業が罪の赦しを用意してくれたことを

福音の説教によって私たちが全き賜物として受け取るところで輝き渡ります。

 

御言葉のメッセージを私たちは必要としています。

これがなければ、私たちはどうしようもありません。

私たちは御言葉のメッセージの提供する力と教えを必要としています。

律法と福音の御言葉を聴いてそれを心にしっかり刻む者はさいわいです。

 

(祈り)

主よ、御言葉を忠実に解き明かす説教者をどうか私たちにお与えください。

そして、私たちがあなたの聖なる御言葉を注意深く聴いて、

それを心に保てるようになさってください。アーメン。

(関連聖句)「使徒言行録」23742

2026年6月12日金曜日

「力なき者に力を」「マルコによる福音書」8章2節 「イエス様は私たちを憐れんでくださいます」

「イエス様は私たちを憐れんでくださいます」


この人たちがかわいそうです。

もう三日間も私のところにいるのに、何も食べるものがないのですから。

(「マルコによる福音書」82節)

 

人々は通りや外で押し合うようにして集まっていました。

その様子はあたかも羊飼いのいない羊の群れのようでした。

ここで、イエス様が憐れみの態度で群衆に接したことを思い出しましょう。

何千人もの人々に食べ物を与えることを通して

困っている人たちを憐れみ助けてくださることをイエス様は示されたのです。

 

罪によって傷つけられ悲しみと苦しみの下にある人々を

このことは慰めてくれます。

 

預言者を通してイエス様はこう言っておられます。


彼らのあらゆる悩みの時、

主も悩まれて、

その御前の天使をもって彼らを救い、

その愛と憐れみによって彼らをあがない、

永続的に彼らを持ち上げ、

携えてくださいました

(「イザヤ書」639節)。

 

この憐れみの心は、

イエス様を十字架での苦痛な死へと追いやることになりました。

飢え疲れた人々を憐れまれたイエス様は

決して変わることがないことを忘れてはいけません。

イエス様は昨日も今日も永遠に同じお方です。

イエス様の憐れみの心には限りがありません。

イエス様の恵みと罪の赦しとは毎朝新しく、

イエス様の忠実さは偉大です。

イエス様は疲れた人々に力を与えてくださいます。

 

主に憐れんでいただいた者として、

私たちもまた憐れみの心を持ち、

それを実践していきましょう。

イエス様に属する者たちはまさにこのようにしたいと望みます。

 

(祈り)父が子を憐れむように、

主よ、あなたは私たちを憐れんでくださいます。

苦境に立たされている隣り人に同情して助ける憐れみの心を

どうか私たちにお与えください。アーメン。

(関連聖句)「マルコによる福音書」819

2026年5月29日金曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」11章28節「疲れた人々に休息を」

「疲れた人々に休息を」

すべて重荷を負うて苦労している人は私のもとに来なさい。

そうすれば、私はあなたがたを休ませてあげます。

(「マタイによる福音書」1128節)

 

人間の生活には辛いことがたくさんあるものです。

日々の仕事、病気、失望の数々、貧困などは人生を重苦しいものにします。

 

それらの中でもとりわけ辛いのは、罪の重荷を背負って生きることです。

私の不義は私の頭を越え、あたかも重い荷のようで私には重すぎます

と「詩篇」385節には書いてあります。

咎める心、疾しい良心、神様の怒りと懲罰を恐れる心は

人間にとって大変な重荷であり、

放っておけばその重圧で人は最終的には永遠の死へと沈んでいきます。

 

しかし今もなお、

イエス様はこのような重労働者や重荷を抱える人のもとに来てくださるのです。

 

「主はあなたがたのすべての罪の重荷を

私が代わりに担うように私の上に投げかけました。

私はそれらを十字架の木のもとへ我が身で運んで行きました。

そうなのですから、

今、あなたがたは私のもとに来て

あなたがた自身の重荷を投げ出して私の上に置きなさい。

そして、私の血による罪の赦しという贈り物を自分に受け取りなさい」

とイエス様は言っておられるのです。

 

こうして、罪の呵責は祝福に、呪いは義にかわり、

平和は心を満たすようになります。

なぜなら、

イエス様の十字架のあがないの御業に基づいて

全人類の罪を帳消しにしてくださり、

私たちを愛してくださっている神様が

私たちにはおられるからです。

まさにこれが、

イエス様の御許に来る者全員に、

すなわち「イエス様こそが罪人たちの救い主である」と信じている人々に、

イエス様が約束してくださった休息なのです。

 

休息を十分にいただいてから、

私たちはイエス様のくびきを肩に載せます。

このくびきは担いやすいものです。

イエス様のくびきは軽いからです。

 

(祈り)私たちは疲れたときに

重荷を引きずりながらあなたの御許に行くことができること、

そして、あなたは私たちに休息を与えてくださることを、

イエス様、あなたに感謝いたします。

(関連聖句)「ヘブライの信徒への手紙」41416

2026年5月25日月曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」9章4節 「夜が来ます」

「夜が来ます」

私たちは私を遣わされた方の行いを昼の間にしなければなりません。

夜が来ます。

すると誰も働けなくなります。

(「ヨハネによる福音書」94節) 

 

太陽が沈む前に仕事をし終えなければならない畑仕事をする人のように、

イエス様は仕事をなさいました。

それは辛い労働でした。

悪魔のわざを無効にし、

全人類を永遠の死からあがない、

全世界の罪を帳消しにしなければならなかったのです。

アダムの時代以来、

このメシア(すなわちキリスト)の到来は待ち望まれ続けてきました。

 

イエス様は神様です。

にもかかわらず、

地上での残された時が短いことを知って苦しみを覚えられました。

また、御自分に託された使命のこの上ない重要性を熟知しておられました。

人となられた神様として、

イエス様は人間的な限界にも束縛されていました。

そして時間の貴重さをよくご存知でした。

夜になると、イエス様もまた仕事を休むほかありませんでした。

イエス様に与えられた時間は定められており、

一瞬たりとも無駄にはできないものでした。

 

イエス様も活動できる時間が限られていることを自覚なさっていたのですから、

私たちもまた時が短いことを知るべきなのではないでしょうか。

天の父なる神様は私たち皆それぞれに

他の人にはできないような使命を与えておられます。

短い人生が終わる前に私たちはそれらをやり遂げなければなりません。

なによりもまず、

イエス様が十字架の死によって私たちのために備えてくださった救いを

急いで受け入れるべきなのです。

 

夜が来れば、恵みや罪の赦しはもう提供されなくなります。

その時には、私たちはもはや誰にも

「見よ、今は神様に受け入れていただける時、見よ、今は救いの日である」

(「コリントの信徒への第二の手紙」62節)とは言えなくなります。

 

(祈り)永遠の神様、

この世に一瞬だけ滞在するにすぎない私たちが

自分たちの短い人生の時を正しく用いることができるように助けてください。

アーメン。

(関連聖句)「ヤコブの手紙」41317

 

2026年5月22日金曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」3章10節より「復活の力」

「復活の力」

キリストとその復活の力とを知るために。

(「フィリピの信徒への手紙」310節より)

 

使徒パウロはイエス様が死者の中から復活したことを完全に確信していました。

また、彼はそれを証する多くの人々を知っていました。

さらに、イエス・キリストは彼の前に個人的に現れてくださいました。

 

この復活の力を彼は何度も繰り返して経験したかったのです。

キリスト信仰者たちを暴力的に迫害していた自分のような者を

使徒にしてくれたこの力について、パウロはよりよく知りたいと望みました。

 

罪人である私たちを神様の御許に導くために

私たちの身代わりとして義なるイエス・キリストが苦しみを受けて死なれた、

と確信することが私たちには許されています。


キリストのあがないの御業は

私たちが救われるために常に十分であり完全なものである、

と私たちは確信してよいのです。


たった一人の死がどうして無数の人々の罪を帳消しにすることができるのか、

という疑いをもつ人々がいますが、気にする必要はありません。 

この世は神様の知恵を理解しないからです。

 

この世とは異なり、

キリスト信仰者である私たちは

イエス様のあがないの御業を心から信じています。

なぜなら、それは神様の御業であり、御言葉だからです。


私たちの罪を帳消しにするためにキリストは死なれました。

私たちを義とするために神様はキリストを復活させました。

これは確かなことです。

それゆえに、私たちは自分が永遠の救いにあずかれることを確信してよいのです。

 

(祈り)

主イエス様、陽のあたらない悲しみの谷を歩む私たちが

あなたの復活の力をより豊かにいただいて、

暗闇のすべての力に勝利することができるように、

どうか私たちを助けてください。アーメン。

(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」3712節、「詩編」111

2026年5月15日金曜日

「力なき者に力を」「ヨハネによる福音書」14章5節 「イエス様は道です」

「イエス様は道です」

トマスはイエス様に言いました、

「主よ、どこへおいでになるのか私たちにはわかりません。

どうしてその道を知ることができるのでしょう」。 

(「ヨハネによる福音書」145節)

 

休暇旅行で見知らぬ道を行く場合には、

道路地図の情報をよく読み取らなければなりません。

遠くまで旅行する場合には、

事前に旅行の計画を練るものです。

 

私たちは皆、この世では旅人であり、異国人です。

目的地、すなわち神様が私たちのために備えてくださった家

通じる道はひとつだけです。

その道とはイエス様です。

「私は道であり、真理であり、命です」

と御自分で言っておられる通りです(「ヨハネによる福音書」146節)。

 

全世界の罪のゆえにゴルゴタで苦しみを受けられたとき、

イエス様はすべての罪人のために神様の御許への道を備えてくださいました。

「イエス様こそが私たちの救い主なのであり、

まさしくその御名と血において私たちには罪の赦しがある」

と信じている私たちは神様の御許に行くことになります。

 

天国に通じる道はこの道だけです。

「私を通してでなければ、誰一人、御父様の御許には行けません」

とイエス様が言っておられる通りです。

このことを私たちは自然におのずから知っているのではありません。

自発的に知りたいと望んでいるのでもありません。

人は救いを人間の教えや自分の行いから探し求めるものだからです。

しかし、聖霊様が私たちを照らしてくださるとき、

私たちは目的地に通じているこの唯一の道を歩むことを望むようになります。

 

神様の御言葉の中には「道路地図」があり「旅行ガイドブック」があります。

すでに洗礼において私たちはキリストに結びつけられています。

永遠の命へと通じるこの新しい活ける道を、

私たちは今、信仰を通して歩むことができるのです。

 

(祈り)天の父なる神様、

あなたは御子イエス様を天の御国への道となさり、

私たちの手をとってこの道へと連れてきてくださいました。

信仰の目的である救いを私たちがいただくために、

どうか私たちを天の御国への道に留まらせてください。アーメン。

(関連聖句)「ヨハネによる福音書」10916

2026年4月24日金曜日

「力なき者に力を」「コリントの信徒への第一の手紙」10章13節より「試練の目的」

「試練の目的」

あなたがたの受けた試錬のうちで人間の尺度を超えるようなものはありません。

神様は真実なお方です。

あなたがたが耐えられないような試錬を受けるようにはなさらないばかりか、

試錬と共に、それに耐えられるように脱出の道も備えてくださいます。

(「コリントの信徒への第一の手紙」1013節より)

 

あるスコットランドの作家は小説の登場人物に

「いっそのこと神様が私をお造りにならなければよかったのに」

という言葉を語らせました。

それに対して、その人の親友は

「あなたはまだ造られてはいません。

あなたはこれから造られるのです。

あなたは造り主に反抗しているのですよ」

と答えました。

 

神様は私たちが罪に躓くのを望まれませんが、

試練を受けることは許しておられます。

このようにして神様は私たちを試し、

それを通じて強めようとなさっているのです。

 

もちろん、キリスト信仰者は試練に自ら飛び込むことはしません。

それは私たちが故意に感染して病気になろうとしないのと同じです。

罪の誘惑に自らすすんで身を委ねるのは危険です。

神様に対して疎遠になっているこの世はキリスト信仰を容認しようとはしません。

私たちはこのような世で生きています。

ですから、この世で生きているかぎり

私たちは罪に落ち込む危険の中にいることになります。

そして、キリスト信仰者は罪の誘惑や危険な場所を避けるものです。

 

罪の誘惑が来たときに、主は恵みと力をくださることを約束してくださいました。

私たちは聖霊様と御言葉を通して、罪の誘惑に耐えて勝利する力をいただけます。

こうして神様は罪の誘惑を試練へと変えてくださるのです。

これは主のよき御旨にかなうことです。

私たちは主のよき御心に確信してよいのです。

約束に基づき、

主は私たちが自分のもてる力を超えて試練を受けるようにはなさいません。

主はそこから脱出する道を備えてくださるのです。

 

(祈り)戦いの中で、信仰の創始者なる主を見上げなさい。

試練の苦しみの中で、イエス様は恵みによって立ち上がらせてくださいます。

(関連聖句)「コリントの信徒への第一の手紙」10613