2018年12月19日水曜日

「力なき者に力を」「マタイによる福音書」9章9節より「マタイ」

「マタイ」

彼は立ち上がって、イエス様に従いました。
(「マタイによる福音書」99節より)

イエス様の弟子になる前の取税人マタイの名前はレビでした。
弟子の名前のリストには「取税人マタイ」と記されています。
マタイは自分の職業を明記することで、
自分がかつて周囲から軽蔑を受ける立場にいたことや、
罪深い生活を送っていたこと、
さらに、そのような彼があずかることができた大いなる恵みについて、
自分自身にも他の人々にも思い起こさせたかったのです。

神様の恵みにより、
収税所に座っていたマタイは罪人を愛するイエス様に出会いました。
イエス様は彼に、「私の後に従いなさい」、と言われました。
それは圧倒的な召しでした。
蔑まれている取税人がこの有名な教師の弟子となれる、というのです。
経済的な利得も、
侮蔑の対象であった自分の社会的な地位も、
また、この決断が自分の家族に及ぼすであろう結果さえも、
マタイの眼中にはなくなりました。
彼はすぐに立ち上がり、イエス様に従いました。

今もなおイエス様は来て、「私に従いなさい」、とおっしゃっています。
私たちはこの召しを無視していることができましょうか。
レビのように私たちも立ち上がり、イエス様に従いましょう。

私たち自身の行いや、宗教的な体験や、
人間の教え(何々主義)などは私たちを救うものではなく、
真の救いはイエス様以外にはない、
というイエス様の教えに従いましょう。

イエス様は受けた苦しみと死と復活を通して、
私たちのために永遠の救いをすっかり準備してくださいました。

試練や誘惑を受けている時も、
喜んでいる時も悲しんでいる時も、
生きている時も死ぬ時も、
イエス様についていきましょう。
イエス様に従う人々にとっては、
死でさえも輝きに満ちた天国への扉に過ぎなくなるのですから。

(祈り)イエス様、あなたに従うことができるように、
どうか私たちを御許に引き寄せてください。アーメン。
(関連聖句)「ルカによる福音書」182830

2018年12月12日水曜日

「力なき者に力を」「使徒言行録」9章36節「ドルカス」 

「ドルカス」 

ヨッペというところに、タビタという名の女の弟子がいました。
この(アラム語の)名を(ギリシア語に)翻訳すると、
ドルカス(「かもしか」という意味)となります。
彼女はよいわざをたくさん行い、
また、気前よく施しをしました。
(「使徒言行録」936節、括弧内の説明は翻訳者のもの)

ヨッペという港町には、
神様の御国のために忠実に働くドルカスという女の人がいました。

この女の弟子のことが今も記念として残っているのは、
彼女が惜しみなく施しをし、奉仕のわざを行っていたからです。
彼女は人に物を与える場合にも、人に奉仕する場合にも、おおらかでした。
彼女の喜びは、神様を敬い、イエス様のゆえに隣人を助けることでした。
そうした奉仕のわざを行っているうちに、彼女は病気になって死にました。
彼女が助けたやもめが皆、ペテロのもとに来て、
「泣きながら、ドルカスが彼女たちとと共に作った下着や上着の数々を
彼に見せました」(「使徒言行録」939節)。
ペテロを通して、神様は彼女を死者の中からよみがえらせました。
それは、彼女を必要とする人々に対して、
彼女がこれからも奉仕のわざを続けていくためでした。

助けと愛を必要としている人たちがたくさんいます。
イエス様によってあがなわれた神様の子どもたちには、
この世でいろいろ辛い目にあっている人々を助ける
という特権が与えられています。

私たちの救い主の御名においてなされる愛の奉仕は必ず報われます。
それは私たち自身にも喜びを与えます。
しかし、それは
とりわけ助けを受けた人々のうちに大きな喜びと愛と感謝を生みます。
主の最も小さな兄弟姉妹に対して私たちが行ったことはすべて、
実は主御自身に対して行ったものであることを、
恵み深き主ははっきり告げておられます。

(祈り)主よ、愛のわざを適切に行う聖なる技能を私に伝授してください。
(関連聖句)「使徒言行録」93642

2018年12月7日金曜日

「力なき者に力を」「使徒言行録」16章15節「ルディア」

「ルディア」

こうして、彼女(ルディア)もその家族も洗礼を受けました。
彼女は、「もしも私を主を信じる者と思われるようでしたら、
どうか私の家に来て、お泊まりください」、
と強く懇願して私たちを連れて行きました。
(「使徒言行録」1615節)

マケドニアの男の人が夢に現れ、パウロにこう言いました、
「海を越えてこのマケドニアに来て、私たちを助けてください」。
パウロはこの懇願に従い、ヨーロッパへと船出しました。

フィリピの都市にルディアという名の紫布の商人がいました。
「そして、パウロを通して話されたことを受け入れるように、
主は彼女の心を開いてくださいました」(「使徒言行録」1614節より)。
こうして、この裕福な女の人は
ヨーロッパ大陸において最初のキリスト信仰者になりました。
 
ルディアの信仰はすぐにその実を結びました。
彼女はパウロとその同僚に自宅を開放したのです。
この家からフィリピの教会が始まったのは確かでしょう。
フィリピで迫害が起きたとき、
この家でパウロは助けと励ましを受けたのです。

パウロは、「フィリピの信徒への手紙」で、
この教会は彼の「喜びであり冠である」、と言っています
(「フィリピの信徒への手紙」41節より)。
ここのキリスト信仰者たちから、
彼は仕事のために必要な経済的な援助も継続的に受けていたのです。

ルディアは教会の忠実な働き人でした。
神様の恵みとイエス様における罪の赦しが彼女にはっきり示されたとき、
その信仰はもはや彼女がじっとしていることを許さなかったのです。
福音が伝えられ、人々の魂がサタンの支配から解放されて、
キリストに結び付けられるようにするために、彼女は熱心に働きました。

それと同じように、私たちもまた、言葉と生き方によって、
イエス様への信仰を証し、
神様がそれを通して私たちの時代にも御国の建設を広げていってくださるように、
行動するべきなのです。

(祈り)愛する私の救い主、
私があなたを証できるように、どうかお助けください。アーメン。
(関連聖句)「使徒言行録」161115

2018年11月30日金曜日

「力なき者に力を」「テモテへの第二の手紙」1章3~5節より「ロイスとエウニケ」

「ロイスとエウニケ」

私は神様に感謝しています。(中略)
私は、あなたの中にある偽りのない信仰を思い起こします。
この信仰は、まずあなたの祖母ロイスに、
それからあなたの母エウニケに宿ったものでした。
(「テモテへの第二の手紙」135節より)
 
パウロには、どのような状況においても、
神様に感謝する理由がいくらでもありました。
一生懸命に仕事をして今まで生きてきた長い年月や、
今まで受けた迫害、また、これから起こる殉教に目を向けたとき、
パウロの心には、テモテとその母と祖母の偽りのない信仰が想起されました。
この思い出のために、彼は神様に感謝をささげたのでした。 

テモテは幸せな若者でした。
彼の受けた特権は、母と祖母、そして彼らの偽りのない信仰にありました。
自分のために祈ってくれている信仰の兄弟姉妹がいるということが、
困難な旅の途上で、どれほどパウロを慰めてくれたことでしょうか!

神様が私たちに、
私たちをキリスト信仰者の信仰の中ではぐくみ、
恵みの御座の前で私たちのために祈ってくれる、
信仰をもつ両親を与えてくださった場合には、
私たちもまた神様に感謝する理由が大いにあります。
永遠の世界の曙に、両親が自分の子どもたちと一緒に神様の御前に進み出て、
「私たちも、あなたが私たちに賜ったこの子どもたちも
皆そろってここにおります」、と言える瞬間は、
きっと救いの幸せに包まれていることでしょう。

信仰をもつ両親に、ルターはこう忠告しています、
「あなたが神様について自分の子どもたちに、
もうあまり話すことができなくなった時には、
あなたの子どもたちについて、神様にたくさん話しなさい」。

(祈り)主よ、キリスト信仰者の家庭を尊いものとみなし、
その健康によい影響が私の周りにも広がっていくように、
どうか私をお助けください。アーメン。

2018年11月26日月曜日

「力なき者に力を」「ルツ記」1章16節「ルツ」

「ルツ」

ルツはこう答えました、
「あなたを捨て、あなたを離れて帰れ、
などという罰を私にお与えなさいますな。
あなたの行かれる所に私も参りますし、
あなたが宿られる所で、私も一緒に宿ります。
あなたの民は私の民です。
あなたの神様は私の神様です」。
(「ルツ記」116節)

飢餓がイスラエルを襲い、
エリメレクという名の男が妻のナオミと共に二人の息子を連れて
モアブの地へと旅立ちました。
エリメレクの死後、息子たちは各々モアブ人の妻を娶りました。
後に若い妻たちは夫と死に別れました。
ナオミが祖先の地に帰ろうとするとき、彼女の二人の嫁が従ってきました。
しかし、ナオミは彼らに自分たちの故郷に帰るようにと言いました。
その時、ルツは自分の信仰と愛をこう言い表しました、
「あなたの民は私の民です。あなたの神様は私の神様です」。

その後、エリメレクの親戚にあたるボアズがルツを妻として迎えました。
彼らにはオベドが生まれました。
そして、このオベドから、ダヴィデの父となるエッサイが生まれました。
こうして、異邦人ルツはイスラエルの王族の母となったのです。
後にこの王の家系から世の救い主イエス様がお生まれになりました。

このことからわかるように、
イエス様の系図には、異邦人も含まれていたことになります。
イエス様の誕生という大きな喜びは「すべての国民」に関わることだったのです。
顕現主日を通して主イエス様の御降誕を覚えることは、
私たちキリスト信仰者が世界の宣教師の活動の大切さを覚えることでもあります。
キリストの福音という豊かな宝を周りにいる人々と分かち合うのは、
キリスト信仰者のもつ大きな特権です。
「キリストのゆえに私たちの罪は赦されている」という喜びの福音を
すべての国民に伝えていきましょう。

(祈り)主よ、イエス様の決してなくなることがない豊かさを
他の人たちと共に分かち合えるように、どうか私を教え導いてください。
アーメン。
(関連聖句)「ルツ記」11422

2018年11月19日月曜日

「力なき者に力を」「フィリピの信徒への手紙」1章21節「命と死の中で」

「命と死の中で」

私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは勝利です。
(「フィリピの信徒への手紙」121節)

ゲーテは幸福な境遇に生まれ、
すでに幼少の時には才能溢れる人物でしたが、
キリストを信じていませんでした。
晩年に彼はこう言っています、
「私の人生を振り返ると、
本当に満足して生活できたのは4週間もなかっただろう」。
もう一人の才人ヴォルテールは死の床でこう嘆きました、
「私はこうして神と人とに見捨てられて死なねばならないのだ」。

パウロはローマの牢獄からフィリピにいるキリスト信仰者たちに向けて
こう書きました、
「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは勝利です」。
上述の二人に比べて、
パウロの生と死に対する態度はどれほど異なっていることでしょうか!

パウロには、
彼のために死んで彼を使徒として召してくださった救い主への
燃えるような愛がありました。
彼は救い主のゆえに、大きな苦しみにも耐えることができました。
すでにこの世にいる間に、
彼は信仰を通してキリストへと結び付けられていました。
パウロは、死が彼をこの「涙の淵」から引き離す時、
キリストが彼に決して朽ちない義の冠、栄光、絶えざる喜びを
与えてくださることを確信していました。

私たちキリスト信仰者には皆、この救いの幸いなる希望があります。
それゆえ私たちは、救い主のために活き、お仕えするのです。
主が私たちをこの世の人生から天にある真の故郷へと招くとき、
この希望は成就します。
なぜなら、私たちには
イエス様の血を通して至聖所[1]に入る自由が与えられているからです。

(祈り)
主よ、あなたに向かって活きることができるように私をお助けください。
私がこの世での使命を果たした時、美しい天国へとお連れください。アーメン。
(関連聖句)「フィリピの信徒への手紙」12130


[1]至聖所とは、
旧約聖書においてはイスラエルの人々にとって神様と出会える最も神聖な場所でした。
そこには一年に一度だけ、大祭司一人だけが入れることになっていました。
それに対して、キリスト信仰者は誰であれ、
この特別な至聖所にイエス様の犠牲の血を通して入ることができるのです。(訳者註)

2018年11月14日水曜日

「力なき者に力を」「ガラテアの信徒への手紙」6章17節より「目印」

「目印」

私はイエス様の傷跡を身体に受けています。
(「ガラテアの信徒への手紙」617節より)

(「傷跡」という単語はギリシア語で
「スティグマ」の複数形が用いられています。)

使徒パウロは主に仕えるときにたくさんの苦しみを受けました。
イエス様について証をしたときに石を投げられたり鞭で打たれたりしました。
暴力を受けた傷跡が彼の身体には生々しく見えました。

傷跡は彼にとって誇りであり誉れでした。
彼が身を粉にして主イエス様の御心を実行していったことを
傷跡は証しているからです。

私たちは信仰のためや真理を証するために
肉体的な苦しみを受けることはないかもしれません。
しかし、私たちの生活の中にも
自分が主に属していることを示す目印があるべきです。
純真な信仰生活、
真の自己否定、
罪が心の扉で隙をうかがっているときにも常に目を覚ましていること、
主とその御心のために自分をささげることなどは、
私たちもまた主の弟子であることを知らせる目印です。

私たちもこれらの目印がはっきり見えるように生活しましょう。
神様が私たちの信仰をイエス様のゆえに
肉体的な苦しみを与えて試そうとなさる場合にも、
しり込みせずに喜びの心を持って主の御心に対して従順になりましょう。
そして、苦しみの中でも誇りを持って活きることをパウロから学びましょう。
キリストが私たちのために苦しまれ、
私たちがその御跡に従うようにと模範を示してくださったのですから。

(祈り)天のお父様、
主イエス・キリストの傷跡を自分の身体に受ける覚悟をもてるように
私をお助けください。
(関連聖句)「コリントの信徒への第二の手紙」111933

2018年11月7日水曜日

「力なき者に力を」「神様による養育」「ヘブライの信徒への手紙」1章3節より

「神様による養育」

その力ある御言葉によって万物を保ちつつ、
(神様の御子)は罪からの清めのみわざを成し遂げられた上で、
いと高きところにおられる大能者の右の座に着かれました。
(「ヘブライの信徒への手紙」13節より)

神様は万物を創造なさり、それを力ある御言葉によって保っておられます。
建築家は、家を建て終わったなら、その家の持ち主に鍵を渡して、
それから自分の用事を済ませるためにどこか他のところへ行ってしまいます。
ところが、神様はちがいます。
神様は万物の維持を続けていかれるのです。
もしも神様がこの被造物世界から遠く退かれてしまうなら、
全世界は崩壊し、その存在を停止してしまうことでしょう。

神様による養育は、物事の大小によらず、ありとあらゆることに及んでいます。
雀でさえ、神様がそう望まれなければ、地に落ちることがありません。
神様の独り子は、私たちを救うためにその聖なる尊い血を流してくださいました。
もしも神様が小鳥のこともきちんと養育してくださっているのなら、
御子の血を代価として罪から贖いだされた私たちのことを
養育なさらないことがありえましょうか。

鳥はその日の食事のことを心配したりはしません。
人間もこの鳥の模範に倣うべきです。
ところが私たちは、
自分ではどうすることもできないようなことのために
病気になるほど頭を悩ませています。

明日のことを心配して右往左往するのを止めなさい!
神様は、あなたがまだ神様に敵対していた時に、
愛する御子イエス様があなたの救いのために
みわざを成し遂げられるようにしてくださったのです。
そのような方が、今、イエス様と共にほかのすべてのことも
あなたに与えてくださらないことがありえましょうか?

「あなたの心配事を主にお委ねしなさい。
主があなたの面倒をみてくださるからです」
(「詩篇」5523節)。

(祈り)天のお父様、私が自分の嘆きをあなたの上に投げてお委ねし、
自分の道をあなたにお任せできるように、どうか助けてください。
あなたがすべてを良い結果へと導かれることを
私が揺るぐことなく信じることができるように、どうかお助けください。
アーメン。
(関連聖句)「マタイによる福音書」62534

2018年11月2日金曜日

「力なき者に力を」「幼少の頃から」「テモテへの第二の手紙」3章15節より

「幼少の頃から」

すでに幼少の頃から、あなたは聖書を知っています。
(「テモテへの第二の手紙」315節より)

イエス様は洗礼を受けるために洗礼者ヨハネのところに来られた、
と福音書は語ります。
イエス様が洗礼を受けられた時、天が開きました。
同じように、洗礼を通して私たちにも天が開いたのです。

父なる神様は私たちを御自分の子として承認なさいました。
イエス様は私たちに義の衣を着せてくださいました。
聖霊様は私たちが新たに誕生するようにされました。

洗礼を受けた子どもたちが皆、
幼い頃から神様の御言葉の教えを伝授されることを、
神様は望んでおられます。

パウロの同僚テモテは家族のおかげで幼い頃から聖書を知ることができました。
これは大いなる恵みでした。
これを基礎にして、彼はキリスト信仰者として成長したのです。
さらにパウロの指導の下で彼は優れた宣教師になりました。

「キリスト教信仰のことは子どもが大人になってから教えればよい」
などと考える親をもつ子どもたちは、
そのせいでどれほどひどい損害を被っていることでしょうか!

幼い頃に聖なる洗礼を通して救い主にだっこしていただけた人や、
その血によって全人類を罪の呪いから解放してくださった
「子どもたちの友」なるイエス様と幼少の頃から親しむ機会が与えられた人は、
幸いな者です!
子どもがイエス様と親しむための信仰教育をとても重要視する親は、
幸いな者です!

(祈り)主よ、あなたの御言葉が本当に私たちの心の中に留まるように、
そして、私たちがそれを正確に自分の子どもに教えることができるように、
どうかお助けください!アーメン。
(関連聖句)「申命記」637

2018年10月25日木曜日

「力なき者に力を」「イエス様が選ばれた人々」「ヨハネによる福音書」15章16節

「イエス様が選ばれた人々」

あなたがたが私を選んだのではありません。
私があなたがたを選んだのです。
私があなたがたにこの地位を与えたのは、
あなたがたが行って実を結び、
あなたがたの実が保たれ、
あなたがたが私の名によって御父様に願うことを、
私があなたがたに与えるためです。(「ヨハネによる福音書」1516節)

イエス様は私たちキリスト信仰者を
「御自分に属する者」とするために召してくださいました。
この誉れはこの世のいかなる誉れとも比較できるものではありません。
神様の愛により、イエス様は、
まったくの恵みと憐れみのゆえに、
私たちを幸いなる永遠の救いに与る者としてくださいました。
この世ではイエス様の臣下としてその御国で生活し、
その後、栄光の御国において永遠にイエス様と共にいることが、
私たちには許されています。
これほどまで大いなる誉れに
私たちは本当に与っているというのでしょうか。
そう、これは本当のことなのです。
なぜなら、イエス様が、
「私があなたがたを選びました」、
とおっしゃっているからです。

もしも選びが自分自身にかかっているのだとしたら、
私たちは決してこのような誉れある地位を得なかったことでしょう。
私たちは罪の中に死んでいたのであり、神様の敵であったからです。
「私があなたがたを選んだのです」。
この尊い御言葉を神様に感謝します!

私たちを御自分に属する者として選ぶときに、
イエス様の御心は、
まず、私たちを救うために私たちに仕えることでした。
一方で、イエス様は、
救われた私たちが御自分にお仕えすることも望まれています。

天の故郷へ帰る時をこの世で待っている間に
(つまり、私たちがこの世で生きている間に)、
私たちがイエス様の御旨を行い、
イエス様のために生活し、
イエス様の御国を建てることが、
イエス様の望まれていることです。

イエス様が私たちを選ばれたのは、
私たちが信仰の実を結ぶためです。
ですから、私たちは、
自分に委ねられた大切な召し(職務)と責任を、
片時も忘れるべきではありません。

(祈り)主イエス様、私を選び、
御自分に属する者として受け入れてくださったことを感謝します。
私が今年もあなたの御心を行うことができるようにお助けください。
アーメン。
(関連聖句)「コロサイの信徒への手紙」1114

2018年10月8日月曜日

「力なき者に力を」「イエス」「ルカによる福音書」2章21節

「イエス」(1月1日用のテキストです)
 
八日が過ぎ、彼に割礼を施すべき時が来て、
イエスという名が与えられました。
この名は彼が胎に宿る前に天使から告げられたものです。
(「ルカによる福音書」221節)
 
私たちはまた新年を迎えることができました。
神様が賜る新たな恵みの年が目の前に広がっています。
これからどのようなことが起こるのか、誰も知りません。
実は、それは神様の思慮深い配慮によるものなのです。
もしも未来のことをあらかじめ知らされていたならば、
来るべき困難を前にして心配し慌ててしまうことでしょうから。

昨年一年間のことを振り返るとき、
天の御父様が恵みと多様な祝福を私たちに賜ったことに
今更ながら気付かされます。
私たちは多くの罪や弱さや欠点をかかえています。
ですから、
「私は去年あなたが私に示してくださった恵みと誠実とをいただくのに
ふさわしくない者です。
しかし、神様、このように罪深い私をどうか憐れんでください」、
と私たちは告白するべきなのです。

見上げると、新年の入り口という門の上に「イエス」という名が見えます。
「イエス」とは「救い主」という意味です。
救い主としてイエス様は私たちのために死んでくださったのです。
そして、ひとえにその十字架の御業のゆえをもって、
神様は私たちに憐れみ深く接してくださるのです。
この救い主が今も変わることなく日々私たちと共にいてくださいます。
そして、イエス様が共にいてくださるおかげで、
私たちは恐れることなく前に進むことができます。
イエス様は私たちを守り、導いて行かれます。
そして、しかるべき時が来ると、
イエス様は私たちを天の我が家へと連れ帰ってくださるのです。

(祈り)愛する救い主イエス様、
今年もまたどうか私たちと日々共にいてください。
アーメン。
(関連聖句)「マタイによる福音書」12125